「糸色先生」
私が働くレストランはディナーのみの営業。それはちょうど店の前を、袴を華麗に翻して歩く学生さんを視界にとらえる頃に開店する。
「ああ、NAMEさん、こんばんは」
「はい、先生もお疲れさまです」
スーツを着こなし壇上に上がる教師も多い中、彼は毎日袴を身につけ歩く。それでも今日が幸運なのは、いつも彼を取り巻く色とりどりのかわいらしいお嬢さん方がいないこと。
お嬢さん方は先生を「絶望先生」とからかうけれど、私はあくまでも「糸色先生」と呼び続けている。
それはお嬢さん方に"あなたがたとは違いますよ"と、大人げない含みを込めたもの。
「いつもいい匂いがしますねえ」
「たまには先生もいかがですか?」
「いえ、ぼったくられてはたまらないのでお断りします」
この、一度聞いただけではこちらがしかめっ面になりそうな台詞も糸色先生が言うのなら許せる。
とんでもなくネガティブな思考をお持ちの上、自殺しないくせに自殺願望をお持ちなのだ。
そんな面倒な男性だけれど、やっぱりどうにも気になる。
例えば、いつもきれいな、それでいて薄ら青い白い肌とか。
「…じゃあ、営業が終わったら何か持って行きましょうか」
「突然どうしたんですか?」
「いえ、ただ…先生って栄養が偏ったお食事をしている印象が」
箒を両手に握りしめ先生の表情を伺ったら、先生は少しだけ怪訝な色を浮かべる。
きっとまた何か気になるんだろうな、と先を読むことができるくらいには顔を合わせて話してきたつもりだから、と既に開店して、店の中から店主の視線を痛いくらいに感じながら頭を働かせた。
「あの、私先生のことが気になるので、ポイント稼ぎたいんです!」
なんということだ。本音と建て前をうまく使い分けることができるお国柄に育ったと言うのに、私の口から飛び出したのは恐ろしくも全て本音。意地で大人の余裕を誇示してきたというのに、頭が働かないどころかこれではあまりにお粗末だ。
ちらりと先生の顔を見やったら瞬時に目が合い、そして「ぽ」と音がした。
…なんの音?なんて聞くまでもなく真っ赤に染まった先生の頬。
「…わかりました。では…お待ちしていま、す」
語尾が裏返って、ぎくしゃくと右手右足を同時に出しながら歩き出す背中。袂が揺れる。袴が揺れる。
今時は携帯電話があって、番号やメールアドレスを聞けば連絡なんていつでもとれるけど、世の中便利になると恋愛もお手軽になる気がする。
「糸色先生!」
恐る恐る、といった動作で顔だけこちらを振り返った先生。
その赤い顔に、ちょっとでも期待していいのだろうか。
「今度、二人で食事しましょう!」
離れた距離の先生に聞こえるように声を張る。
先生は赤い顔で視線を泳がせながら挙動不審にあたふたと妙な動きをしたあと、小さく、頷いてくれた。
店の中で店主が壁時計を指差し、「ちこく」と唇を動かすのが見える。
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