その人には母がいないと聞きました。
それを聞いて私は妙に納得したのです。
これまで疑問に感じていたその人の行動に、全て明確な理由があったのだと悟ったのです。
…いいえ、悟ったつもりになっていたのです。
「NAME殿、こちらに居りましたか」
「幸村?今日も随分早いのね」
「早く道場へと勇んで参りました」
「たまにはお友達と遊んできたらどう?」
「竹刀を振るう時間を限ってまで友人と何をすればいいのか、某にはわかりかねます」
言いよどむ事もなくきっぱりとそう告げる唇を少し悲しく思いました。
このくらいの年の男の子なら、外にいくらでも楽しいことがあるだろうと思うのです。
それでもこの人は学校が終わると真っ直ぐにこの道場へとやってきます。
一度だけ、「そんなに剣道が好きなら学校で部活に入ってもいいじゃない」と言った事があります。
その返事はないままに、この人はこの道場へ日参します。
「…夕飯、食べていって」
「かたじけない。NAME殿には、感謝しても足りぬように思います」
この人は幼少期からこの屋敷に住まい、高校入学を機に佐助と共にアパートで共同生活を始めました。
私はこの人を知ってからまだ月日も浅く、まだまだ知らないことばかりです。
武田さまの道場で子供たちに剣道を教えるべく、そして庭の離れに住まわせていただいているだけの身。
「…いいのよ。真田くんはいつも気持ちよく食べてくれるから作り甲斐があるの」
「NAME殿の料理が上手なので、いつもつい食べ過ぎてしまいます」
私はこの人に同情しているのです。
それがひどい事だと、それが侮辱だと知りつつも、私はこの人に同情して…そして母親の代わりになりたいなどとくだらない妄想をしていたのです。
「真田くん、たぶん、今日武田さまからお話があると思うの」
「なんでしょう」
「4月から、離れに住む気は、ない…?」
黒い袴が視界に眩しい。しゃんと伸ばされた背中、その表情は厳しい。
「離れ…、NAME殿、ここを出て行かれるのですか…?」
「違うの、…私、武田さまと籍を入れようと、思ってる」
その時の、この人の絶望的な表情を私は生涯忘れることはできないでしょう。
初めて知ったのです。初めて気づいたのです。
それが自意識過剰だと言われても、私は確かに、この人が私に抱いていた感情の正体を知ってしまったのです。
「…それは、まことでしょうか…」
蒼白になった表情。
この人はずっと私に母親を求めていたのだと、そう感じておりました。
そうではなかったのです。
この人はずっと私に、女としてなりうるものその全てを求めていたのです。
この人は、じぶんだけのひとが欲しかったのです。
「さなだ、くん」
「、"幸村"と」
「真田くん、」
「NAME殿、頼みます、どうか」
「…、真田くん」
「NAME…!」
ひざの上でぎゅうと結ばれた拳が震えていました。
私はこの人を大きく傷つけました。それも勝手な推測で。
「ごめん、なさい」
「某は、どうしたらいい…」
駄目だとわかっていたのです。
それを口にしたらもう取り返しがつかないことくらい、わかっていたのです。
それでも、目の前で体を震わせて涙を零すこの人を、私は抱きしめてしまったのです。
「…ゆきむら…泣かないで…」
その夜、私はこの人に手を引かれ、屋敷を出て行きました。
この人は弱くなかったのです、脆くもなかったのです。
ただひたすらに、強い人だったのです。
4月が近づくたびに、離れに置いてきた指輪を想います。
そして、その痛みが私を殊更に、この人に優しくさせます。
なんて歪なのでしょう。
風の便りすら聞こえない場所で、私はこの人の子供を生み、共に育て上げました。
そしてこの人は4月も間近になったある日、死の床につきました。
何が正しかったのでしょうか。
私は最初から最後までずっとこの人に同情していたのだと、可哀相がっていたのだと、それが愛ではなかったのだと。
この人が最期、涙を一筋流して「愛している」と口にした時に気づいてしまったのです。
私は何もわかっていませんでした。
私は何も悟っていませんでした。
この人がどれだけの気持ちを私に抱いていたのか、4月を過ぎた今も、わからないままなのです。
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