◆ 次の日には入部届の必要事項を埋め、両親に久しぶりには心からの笑顔で部活に入りたい旨を伝えて、了承をもぎ取った朝、そして放課後。 その日は昨日とはうってかわりとても良い天気だった。梅雨の晴れ間と言うのだろうか。 黄瀬は寸前、ふと思い立ってもう一度、体育館を覗き見た。 (おーやってる……ん?) 恐らくみな青峰と同じくレギュラーなのだろう。 皆それぞれ、バスケなど体育の授業でしか触れて来なかった自分でもわかるほどのハイレベルな動きだった。視線を外し、体育館の外壁にもたれかかる。一応屋根はある外廊下だが、少し目を向ければそこには青空。快晴というには些か雲が多すぎるが、夏の気配と梅雨の終わりを感じさせるには充分なものだった。 (あーもうホント……すごいッス) ぶるりと背筋が震えたのは、武者震いとしか言えなかった。 真似できない――恐らく、"今"はたぶん。 そう考え、はやる気持ちを抑えつつその場を後にしていた黄瀬は、自分がこの状況をとても楽しんでいることに気付く。 単純ッスねえオレも――そう自嘲気味な笑みを浮かべると同時に、彼は沸き立つ心を叱りつけて、記憶によればいつも体育館にいるはずのバスケ部の顧問の元へ行こうと考えた。 (んじゃ、センセイに出すか……) そう思った瞬間だった。目の前の開きっぱなしの入り口から、体育館から一人の生徒が出てきた。 『ひぃ〜あっちぃ……ん、オマエ……黄瀬、クン?』 『!』 なんの偶然か、また現れた青峰に、黄瀬はらしくもなく驚いた。 水でも飲みに行くのだろうか、タオルで汗を拭いながら、億劫そうに一歩ずつ歩くその姿は、歳相応の中学生男子らしい。 『はは、黄瀬でいいッスよ……偶然ッスね。まだ、部活やってるんスか?』 気を取り直した黄瀬はそう笑って、軽く彼に近寄った。 『あぁーっと……確かあと20分くらいで片付けだな』 時計を見やった青峰はそう返答する。 『――そうっスか』 ならあと少ししてからコレはセンセイに渡そう。彼はそう考えながら手にしていた用紙をぐっと握りしめた。その様子に気づいていない青峰は、しげしげと黄瀬を見つめる。 『黄瀬……は、どうしたんだ?こんなとこ、偶然通るわけでもないだろ?もしかして……?』 意外と目ざとい。そう黄瀬は目を見張った。 一瞬だけ、言ってしまおうかどうか悩む。 (――キミの姿に憧れてバスケ部に入ろうかななんて……) と、彼は脳内で考えて即座ダメ出しした。 どこの少年漫画だ、ソレ。恥ずかしすぎる。いや、そう思うこと自体は別にいいと思うが、本人に今いっちゃあ駄目だろ、オレ。 もし言うとしたら……一軍に入れたら、とか? 黄瀬はそう固く決意して、彼持ち前の能力で取り繕ってみせた。 『別に……ちょっとさっきから、オンナノコに追われてて』 『うわっ!うぜえ!』 でもまぁ、こっち側まで女子はなかなか来ないか、なんて笑う青峰に、複雑そうに笑った黄瀬は、言葉を続けた。 『そんなことより――青峰クンは、バスケ楽しいッスか?』 なんとなく、彼の様子を見ていて思っていた疑問を投げつけてみる。 『もちろん……っていいってぇところだが、実際どうだろうなぁー』 青峰の言葉に、黄瀬は目を丸くしてみせた。 『え?意外ッスね』 すると青峰は軽く照れたように返す。 『ガキの頃からやってるから、なんかもうそういう感覚薄いんだわ。でもまぁ、……楽しい、かもな。練習して今までできなかったことができたりしたら、すげえ楽しい』 『……見てたら、分かるッス』 『はは!でもまぁ、お前も相当運動神経いいじゃねえか、黄瀬』 流石にそう言われることなど想定していなくて、黄瀬はさらに目を丸くして青峰を見つめ返した。その表情はいつもの冷めたような顔の黄瀬とは異なって、親しみやすさすら感じられる。 青峰は少しだけそれに驚きながら、話を続けた。 『なーんかオレのクラスのヤツとか言ってたぜ?見たらなんでも出来るってウワサ。実際、前の体育でも凄かったじゃねえか』 黄瀬はその台詞に、また自分の心の中が冷えていきそうになるのを感じて、思わず否定した。 『……んなことあるわけないッスよ。俺は、できることをやってるだけッス。それに、青峰クンの動きとかハンパなさ過ぎて見てても全然ッス』 青峰はその黄瀬の固い表情には気づかず、話を続ける。 『そうかぁ?前、オレ審判とか面倒でサボってたからオマエの動き見てたけど……あっさり抜かれちまいそうでこえーわ』 青峰は笑いながらそう言って、黄瀬の肩を叩いた。 『何仕事サボってんすか……それに、過大評価ッスよソレ』 黄瀬は、叩き返すどころか笑顔すら作れている自信がなかった。 ……そんなこと、ないッスよ。 黄瀬は、自分の考えが浅はかであったことに気づいた。 青峰がそう言って自分を褒める度に、黄瀬は何か恐ろしい不安が自分の胸の中を侵食していくような気がしたのだ。それは、禍々しい雨雲のように、黄瀬の晴れやかだった心を暗くしていく。今までの現実への冷めきった失望とも違う、それはただ「不安」としか言い表せないものだった。 その様子を青峰は黄瀬が照れているとでも思ったのだろうか。それに実際、青峰も黄瀬に褒められて少し気恥ずかしかったのだろう、照れたように笑う。 『オマエなら、すぐにオレに追いつけるって!』 憧れの人物からそう言われたのだ。 本来なら喜ぶべきだった。 だが今の黄瀬には遅かった。 ――このひとを越えたら、自分はどうなるんだろう。 ぽつり。 大きめの雨粒がぽつりぽつりと、彼らの居る外廊下の屋根に落ちていく。 最初は弱かったのに、だんだん勢いづいてきた雨脚は、外を真っ白に染めるほどの勢いだった。ザーザーという激しい水音が、黄瀬の耳に篭って聞こえる。途端に温度が下がったような周囲の空気が寒い。いつの間に、こんな天気になったんだろうか。 『うぉっ、雨ヤベー!!』 突如降りだした雨に驚く目の前の青峰が、黄瀬にはまるでガラス越しで見ているかのように、現実感なく映る。 黄瀬にとって、バスケは奇跡のようなものだった。現に青峰を通してそれに出会ったその時、今後コレほど自分が魅力を感じるものはきっと現れないだろうと黄瀬はなんとなく予感していた。 それでも、いや、だからこそだったのだ。 今この瞬間。黄瀬にとってそれはもう不可侵な神域にまで達してしまっていて、自らがしようなどとは思えなくなっていた。その神域を見ることだけが、臆病な自分に許された唯一であると。 どうしてこう転んでしまったのか、今ではもう彼にもわからない。 『ハハ、ホント冗談うまいッスね、青峰クンは……』 そのときそう青峰に返した彼は、バスケを人生の伴侶にすることを辞めた。 そしてその代わりに、青峰のバスケを応援することを決めた。 希望の光の隣に立つよりも、遠くからその光が燃え盛ることを望んだ。 折角見つけたそれは、黄瀬にとっては人生を生きる意味に等しかった。そして、黄瀬は実際、そこに自らの居場所を見つけるつもりだった。だが、もし。もし、万が一にも――神様がコレ以上に冷酷だったとしたら? 『おい黄瀬、大丈夫か?……なんか、顔色悪くね?』 それは実際、子供染みて厚顔無恥も甚だしい、哀しくもおこがましい考えなのだろう。 だが、そう言い切れなかった黄瀬は自分の手の内の用紙を、ぐしゃりと握りつぶした。 あと少し自分が、運命を信じられていたら、よかったのだろうか? 奇跡は起きたけれど遅すぎた。せめて、あと数ヶ月早ければ。 数ヶ月早ければ自分はこんな考えを抱く前に、何も考えずにバスケ部に入れたんじゃないだろうか。 追い越したら怖いなんて、とんだ自信家だ。 黄瀬はそう自嘲しながら、でも、と今までを思い返す。 この人なら、この競技ならと、幾度思っただろう。暫くして、それらが自分にとって価値を持たないものに変わる瞬間は、いいようもない程悲しくなる。またダメだったと、もう興味を持てなくてごめんなさいがせめぎあう。 目の前の不安げな彼に抱く期待は大きい。だからこそ、興味を持てなくなったらきっと自分はまた苦しむ。そうに違いないと、恐怖して臆病になった彼は、新たなものに手を出す勇気すら喪った。 雨はいよいよ本降りになって、あたりからは轟々と水音が響いて二人の間の沈黙をより際立たせる。それに耐えきれなくなった黄瀬が口を開いた。 『――いや、大丈夫ッス……ちょっと寝不足で。じゃあ、部活頑張って!オレ、今のうちにもう帰るんで』 何もかも手遅れで、遅すぎた。 ただ、それだけの話だった。 黄瀬は心配そうに声を掛ける青峰を無視して走り去る。今朝が嘘のような雨粒に追い立てられた黄瀬は、急いで教室に戻り荷物をまとめて駆け出した。 『クソ、クソ、クソ……!!』 今日天気予報晴れだったのに、おは朝の天気予報外しやがって。 そう呪いかけて、でも、梅雨なんだから雨なんか降ってアタリマエだよな、なんて気もしてきて。結局誰に怒ればいいのかわからない。 黄瀬はびしゃびしゃに濡れ帰った鏡の中の自分を一瞥してただ惨めだと思った。 結局入部届は、滲んで駄目になった。 ←→ 通常SS(黒バス)一覧に戻る Novel一覧に戻る topに戻る |