薄暗い廊下を、オレンジの光が照らしている。
西日は暖かく、気だるいほど緩やかな雰囲気が流れる放課後。俺はそんな中ただ歩いていた。
かつかつと、馴染んだローファーが奏でるリズムが柔らかく響き渡る。

全てが嘘のようであると思った。なにもかも、落ち着きと秩序を取り戻している。
副会長に就任したあの人ではないが、ただそうした感想が頭に浮かんだ。

そう明日――様々な点で先送りになっていた儀礼的な副会長任命式が選管主宰で執り行われる。副会長に補せらるるその人は、このときばかりは正装で来るように先ほどめだかさんに言われていた。
「……、」

無声音で、思わず小さく呟いたその人の名前。
気にせずに歩む足を止めなかった。もう生徒会活動も終わり、あとは教室にバッグを取りに行き、帰るただそれだけ。

もう一度同じように、次は意識的に唇を動かせば、懐かしさに心が揺れ動いた。中学の頃、まるですがり付く蜘蛛の糸のようにその名を呼んでいたのを思い出す。心酔するというより、すがり付いていた。例え藁よりもっと絡み付いて離れず、逆に咀嚼されるようなつながりでも、あれを自分の心を均す冷たい雨のようだと感じていた。体温がたとえどんなに失われても、人との温もりなどいらないと、信じていた。

だから、俺は逃げた。

――窓の形にくり貫かれた黒い額縁のような影。
床に投射されたオレンジの光よりも、そちらの方が目について立ち止まる。

あの額縁のように、真っ暗な闇が自分を縁取っていたあの頃。
誰かの傷口に爪をたて、そこを抉って誰かの血に染まった指先で自分の頬を伝う涙を拭っていた。まるで、自分が被害者のような錯覚に陥りながら。





Present





初めて会ったとき、初めて「これ」は壊せないと思った。衝撃的だった。なぜそう思ったかなんて些細なことは覚えていない。ただ、強くそう思ったのだ。その理由は後から述懐するとして――思わず手にしていたサンドイッチが、ぐちゃりとハムと卵で出来た内臓をぶちまけたくらいには、酷く衝撃的だった。

たしかそのときは自分がよく好んで居座っていた屋上。独り、昼食をとっていた。そんなとき、突然ドアを開けたその物体は、真上の青空が淀むような禍々しさで。
「『……今、少し大丈夫かな?』」


返事なんかせず、暫くぼぅっと眺めていた。
人のよさそうな気持ち悪い笑顔。
自分で言うのもなんだが、剣呑で不躾な視線だったと思う。それはそんなものすら受け入れて笑っていた。値踏みは終わったかな、とでも言われているような気分。くすりとそれが笑ったのを見て、急に居心地悪くなった俺は視線をコンクリートの地面に落とした。

噂には聞いていた生徒会長だと気づいたような気がする。支持率は0どころかマイナスにまで届きそうだ――誰かがそう言っていた。恐ろしさで底辺から、学校を支配しているんだと。

詳しい経緯は知らないし興味もない。実際その噂を聞いたときも、そんなことある訳ないと思っていた。有り得ないと考えていたし、関係ないと思っていた。
けれどもあれが1つの人生の岐路だったかも知れないと、今では思う。



「『――初めまして、えっと、……』」
貼り付けた笑顔をほんのり困らせたそれに、俺は俯いたまま自ら名乗った。正直に言えば名前を言うのも億劫だったし自分らしくないとは思ったが、それ以上にその物体が俺に何の用なのか――有り体に言えば興味を持ったのだ。そのときはまだ、俺はその感情が「興味」であることに気づいていなかった。俺は自分の感情にすら興味がなかったし、俺は自分の感情ですら「壊したかった」のだから。

「……阿久根、高貴」
それを聞いて『そう!』と手を叩くそれは言葉を続ける。ごめんごめん、忘れてたと彼は眉尻を下げてみせた。わざとらしさに吐き気が先立ったが、グッとこらえてそれを見つめる。

「『阿久根くん、君が噂の阿久根くんだよね?』」
自分はそのときまだ二年に成り立てだったが、噂の内容に予想はついた。
「……」
だから無言を貫いたのに、

「そうだよー球磨川くん。彼が噂の阿久根高貴くんだ」
瞬間――頭上から美しい声が降り注ぐ。

「!!」

予想にすらしていなかったところから声がして、思わず見上げると、………あれ、だれがいたんだっけ?
まるでそこだけ白抜きされたみたいに顔が真っ白で分からない。けれど、俺の知識からその顔を充填すると、その人は、彼女は安心院なじみその人のはずなので、そうやって自らの空白を埋めていってみる。


「『安心院さん、来てたんだね』」
それがそう呆れたように言ったのを覚えている。まだ、俺はこのとき「それ」としか彼を表現し得なかった。
「君がわざわざ下級生を入れたいっていうからさ!」
とん、と小気味良い音。
真後ろに降り立った彼女は、くすりと笑った。
………真上。

繰り返すがここは、屋上だ。

唖然としている俺に対して、目の前にたつそれと彼女は、無視をして会話する。

「『即戦力が欲しくてね』」
「それはまぁ――確かに申し分ないだろうねえ」
彼女はちらりと俺に一瞥をよこした。そしてにっこりと微笑む。衝動的に壊したくなったけれど、それよりも彼女から漂う圧倒的なまでの危険な匂いに、俺は蛇に睨まれた蛙のようにぴくりとも動けなかった。彼女はそんな俺の様子を次は馬鹿にしたかのように鼻で笑い、俺の目の前で俺を観察しているそれに対して声を掛けた。


「それより、君ったら大切なものを忘れてたぜ?」
彼女は後ろからつかつかと俺に近寄り、前に立って何かを手渡してきた。
庶務、と書かれた腕章。

一瞬思考が止まって、そしてまさかと思って彼女の顔を見る。
彼女は至極愉快そうな面持ちで、俺を見た。
「僕と彼の、手となり足となり――"すべて"を壊してみないかい?」

君の人格という骨組みも。
君の良心という箍も。
君の感情という重石も。


「『君という存在そのものを覆う殻を、全部壊して僕らにくれないかい?』」
後ろにいたそれが、そう言って俺に近寄ってきた。

「『かわりに僕が君の中身を残さず無かった事にしてあげるから』」

淀んだ瞳が俺を侵食する。


「『君が生きていたという証拠を全部無かった事にしてあげるから』」

手から血の気が引いて、俺は呆然とたちすくんだ。

「『そうしたら――君はずっと楽になるよ?』」




まさに、甘言だった。



――ああ壊れている。
これらは、壊れている。
その笑顔を見てただぼんやりとそう思った。
その頃は、今こんな風に振り返って考えを纏めていることすら信じられないくらいに、考えることを放棄していた。
毎日が、真っ白だった。
それにただ、物事のシルエットだけ輪郭線のように黒で薄くなぞられているようだった。その線と線のつながりを、俺はぶちりと切っていただけだった。そうすると、人も物も全て、跡形もなく真っ白になる。

それが、そのときは自分が真っ白になったように感じられていて、気持ちよかったのかもしれないと今では思う。

久々にそれらは色がついているように見えた。だから、久々に「思考」した。そのおかげで今でもこう思ったのを覚えている。

最初から壊す必要もなく、壊れているのだ。
そんな壊れたものたちに、請われたのは紛れもなく自分で。

生きていた証なんていらない。それは、「責任」を生む。
俺はただただ楽に、ひたすら楽に、そして何もかもとらわれずに生きていたいのだ。
そのためなら、俺は「俺」を壊すことすら厭わない。



今から思えば、苦しんでいたのかも知れない。人を壊すことを。
だから、これ以上壊れないそれらと一緒に居れば傷つかないかも知れないと錯覚した。
錯覚だ。何度だっていう。それは、錯覚だ。
可哀想だと思う。自分が全てだったのだ。
自分の中に何もなくて、だから、俺は卑怯なほどに何かを欲していた。欲するのみで与えようだなんて全く思いもしなかった。
いくら壊れていると思っても、彼らは人間なのだから。欲しがるだけで与えようともしない俺を、彼らは蔑んでいたに違いない。だけどそれは今回想しているから思うだけのことで、そのとき、ただの勘のように思ったのが、この腕章からは血の匂いがするということだけ。




俺はそこに殺戮と破壊の嗅覚を感じ取って、腕章をもぎ取った。
と同時に言った。

「俺は、あんたらが思うような働きはできない」
「『……』」
球磨川さんは、薄気味悪い微笑を湛えて俺を見ていた。
「俺は、あんたらがどんな人間でもどうでもいい」
「……」
安心院さんも、そうやって俺を見ている。
「ただ、ただ」



俺は自らの視界がぼんやりと滲んでいくのを感じた。


「俺を壊してくれ」






***



「『こーーーーっきちゃん!』」
「っうわ!!球磨川さん!?」
俺を回想から連れ戻したのは、奇しくも球磨川さん本人だった。

「突然後ろから抱きつかないでください!!」
そう叱ってみたものの、全くこたえていないような様子で彼は謝った。
「『ごめんごめん!もしかして考え事でもしてた?』」
ぼんやりしてたみたいだったから、と彼は続けて俺の目を見た。昔よりも身長差は広がったような気がする。俺が伸びただけか。

「そうです、ね」
少しだけ言葉を濁した俺に、彼は目ざとく反応して即座に切り返した。
「『何考えたの?』」
偽る意味もないので、特に飾らずに返す。
「昔のことです。中学生の頃の」
「『珍しいね!どんなこと?』」
「庶務になったときの頃ですよ」
「『うん?』」
いつだろう、と首をかしげる彼に、俺は補足した。
「俺が、貴方と……、安心院さんですよね?安心院さんから勧誘されたときのですよ」
「『……ふぅん』」

「あのときの俺は、貴方はただの肉塊にしか見てませんでしたし、安心院さんは恐ろしくて直視できませんでしたし」
「『……』」
「今とは違って、懐かしいです」
良い思い出とは思えませんが、と続けようとして流石にやめた。もしかしたら、彼にとっては「良い思い出」とカウントされているかもしれないから。いや、それ以前に彼は俺に言った言葉など、覚えてはいないだろう。そういうところで、残念な人なのだから。


「『高貴ちゃんのすごいところはさ』」
「はい?」
彼の口調に皮肉の色が滲んで見えたので、思わず身構えながら返事をした。
「『約束を平気で破るところだよ』」
「……はい?」
「『僕はちゃんと守った。ちゃんと、"壊してあげた"のに』」

「『君は僕に全てをくれなかった』」

「!?球磨川さん、おぼえ……」
俺が動揺した瞬間、球磨川さんはかけ出した。
「『君は嘘つきが嫌いだろう。だから君は――自分が嫌いだったんだよ』」

振り向きもせずにそういった彼は、どんな顔をしていたのだろうか。俺には想像もつかない。





また独りになった廊下の片隅で。
「……くまがわ、さん」
次はちゃんと声に出して俺はその人の名前を呟いた。
追いかければよかったのだろうが、もう今は追いかけようなんて――追い縋ろうなんて思えなかった。



きっと俺はただ欲しがるばかりだったのだ。だから、与えようなんて思わなかった。
それは酷くひとりよがりで身勝手だった。

でももう自覚している。わかっている。
最初から欲しがるばかりの俺と彼は、きっといつか離れることが運命だったのだ。
最初から決められた筋書きを通って、だからこそ今がある。

次はきっと、俺が彼に与えられる。きっとその贈り物を、人は愛とでも呼ぶのだろう。


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