読み終えた瞬間、自分がとても長い間息を止めていたことに気づいた。目の前に白い吐息がふわりと浮かんで、消える。それで我に返った。


寒い物置だった。勝手が分からないというのに、球磨川が年末なんだから掃除手伝ってよと皆に言ったのが悪い。球磨川の部屋が一番広いからとここを年越し会場に指定したのが悪い。俺が物置の掃除を頼まれたのが悪い。小奇麗な小さな缶が目の前にあったのが悪い。



「嘘だ」


Act.2[球磨川禊が死んだ日]
無かったことを無かったことに



ああこれは必然か、それとも偶然か。なんで、どうして。

頭の中でぐるぐるとその疑問だけがエンドレスに繰り返されて、俺はただ呆然としゃがみこんだままだった。

白々と灯を反射させて冷たく光るルーズリーフ。それに綴られた黒々としたシャーペンの文字はまるで昨日にでも書かれたよう。でも最後の日付を見るかぎり、もう三年は経っている。

俺は思わず溜め息をついて目を閉じ、また開いた。変わらないそれは、確かにここにある。そのとき初めて、下の方にある汚れが涙の跡だと気付いて、血の気の引くような感覚が走った。確かに、これは確かに人が書いた。涙を流しながら、誰かが書いた。

見慣れた筆跡。生徒会のとき、何度も見た球磨川自身の字だった。



ちらりと視線を逸らして前をみる。ドアの隙間から向こうが見えた。
球磨川は先程からベランダで窓を拭いている。ちらりと動く黒髪が目に入った。誰かに話し掛けられている、あぁ喜界島だ。エプロンを付けて菜箸を持っている。阿久根先輩も隣にいる。昔みたいだ、と瞬時に思って吐き気がした。
いい匂いがする。めだかちゃんがお鍋を作っているのだ。年越しは久々にみんなで、なんてめだかちゃんは楽しそうに頬を赤らめて笑っていたような。


卒業して暫くが経って、なかなかみんなで揃うことがないとめだかちゃんは気に掛けていた。個人個人で会うことはたまにあっても、全員で揃うことができる日はなかなかない。それで、この計画が持ち上がった。
みんなで鍋でもしながら年を越さないかというめだかちゃんの案に、のらないものはいなかった。全員が大学に進学し、一人暮らしをしている。寂しい年越しにならなくてよかったと、皆口を揃えて言った。
そのときに球磨川が部屋を提供すると言った。すると阿久根先輩が鍋とかの道具なら、と。喜界島は料理なら手伝える!と笑顔で言って。
じゃあ私たち二人で材料でも買うか。めだかちゃんがそう言って俺を見つめた。そうだな、そう返したのを覚えている。みんながそれぞれ、楽しみにしていた今日。


これが俺が手に入れた素晴らしい未来だった。
球磨川は勿論、阿久根先輩や喜界島、そしてめだかちゃんとの衝突が嘘みたいに、幸せな日々。

――それは、結局一人の犠牲に成り立ったもの。

そう思った瞬間、眩暈しそうなほどの激しい吐き気に襲われた。がくがくと身震いが止まらない。まるで高校生のあの頃、久々に球磨川にあったときのよう。冷や汗が吹き出て、ただでさえ寒い身体を冷やす。自分が情けないくらいにがたがたと崩れ落ちるのが分かった。
いつから球磨川が嫌いじゃなくなった?
どうして球磨川が嫌いじゃなくなった?
何が俺に球磨川を「友人」扱いさせていた?
その間にあった出来事はなんだ?

答えは浮かんだ瞬間に消えていった。


球磨川禊は、俺の天敵だった。副会長に就任してからもそれは変わらないはずだった。一時期「先輩」と呼んだ時もあった。今でも球磨川のことは、自分にとって、大切なことを教えてくれた先輩だと思う。けれど、彼が嫌がったのだ。先輩と呼ぶな、と。
なんだかより<先輩・後輩>のほうが目立って嫌だ、と言われたのだ。
それを、了承した。そして、そのほうがありがたいと思った。彼と自分の関係は、先輩後輩、そしてもはや天敵ですらない。


いつから変わったんだろうか。思い出せない。鋭い頭の痛みと吐き気が全てを掻き消そうとする。




別の、俺の頭の中の冷たい所が囁く。球磨川のあのスキルは球磨川が絶命をなかったことにする前から、球磨川の中に在った。だから球磨川がそれを無意識的に使っていたとしてもおかしくない。

球磨川を嫌いだった俺はいつから球磨川を嫌いじゃなくなった。
いや、もっと言うなら、なぜ俺は球磨川を普通に好きになった?その原因はどこへ消えた。球磨川はいつから俺を「友達」にしたんだ。わからないわからないわからない。
なにかが欠落している。とても重要で幸せだったなにが欠けてしまっている。



………球磨川禊は、俺にとって何だった?








「答えは、でてる」
呟きが物置の暗闇に吸い込まれる。震えはどうしても止まらない。同時にがらん、と音をたてて缶と、その中の鋭い螺子が落ちた。あっと思った瞬間、朽ちたように粉々に崩れたそれを右手で拾い上げようとして、失敗。さらさらと砂が指の隙間を擦り抜けていっただけだ。



「あぁ……」


――俺は球磨川が好きだった。球磨川も俺が好きだった。



言葉にすると、魔法がすべて解けてしまう。
思い出してしまった。物語みたいに完璧な魔法を球磨川が使えるわけもない。

だけどその魔法は負完全に完全に、俺の未来の不確定要素をすべて奪い去ってくれていたのだ。球磨川はプラスになんかなっちゃいなかった。球磨川は自分を否定してなかったことにして、無理やりプラスにした。マイナスにマイナスをかけたんだ。

俺は、なんて、こんな酷い選択を球磨川に強いたんだ。幸せにしたいと告白したあの日、ありがとうと答えたお前。次の日、抱き寄せられて嬉しそうに複雑そうに笑っていたお前。全部全部、消えてしまった。お前をなかったことにして扱った。それがお前に因るものとしても、自分の気持ちすらもお前になかったことにされてしまっていたとしても、最低なことをしていた。握り損ねた砂がもう手遅れだと伝えていた。

球磨川はこの選択が幸せだと思ったのか?この選択で、みんなが幸せになれると思ったのか?たとえ自分を否定したとしても自分をないものと扱ったとしても、それが、みんなが幸せになる手段だと思ったのか?

きっと答えはイエスでもノーでもない。いいも悪いもごちゃ混ぜにする球磨川禊。だから、あのスキルは球磨川のために働いた。球磨川から球磨川を失わせた。



「最低だ……」
負完全球磨川禊は結局誰よりも弱点を見通していて、ほころびを見通していた。
そのおかげで俺は、みんなは、輝かしい未来を手に入れた。球磨川自身も幸せを手に入れた。

一番最低なのは、これを読んでもなかったことにされたものはもう二度と戻ってこないんだと思っている俺だ。「この手紙の中の球磨川」をただただ哀れに悲しく愛おしく思うけれど、それはもう、今の球磨川ではない。

誰も、知らない。消え去られた、なくなったことになったはずの球磨川。
俺は、その球磨川のことをもう一度好きになりそうで、



でも結局は忘れてしまう。






「『ねぇ善吉ちゃん!』」
球磨川が息せき切って駆け寄ってきた。物置のドアが更に開いて、光で満たされる。その瞬間、手にしていたルーズリーフの束が霧散した。なかったことになってしまった。これで、本当に。


どんなに思い出しても、なくなったものは元に戻ってくれない。
違和感だけが俺を責めたてる。
そしてその違和感さえもいずれ消え去り、球磨川が望んだ幸せを与えられるまま甘受して、また惰性な日常を楽しむ。

それは、本当に幸せなのか?





「『めだかちゃんが鍋できたよって!早く食べないと君の分もなくな……どうしたの善吉ちゃん!!泣いてるの?ねぇ、どうしたの?どっか怪我したの?なかったことにしようか?』」


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