今日、もう何度目になるかも分からない。携帯電話の画面を睨みつけ、着信はおろかメールの通知一つないそれに未練がましい溜め息をつきながらパタンと閉じた。少し旧式の二つ折りタイプのそれをキッドは気に入っていて、仕事用とは別に完全なプライベート用として使い分けている。年中うるさく喚き立てている仕事用の機械と違って、こちらの番号を知るものはそう多くない。

「なんだキッド、不景気なツラして。女にでも振られたか」

「違ぇよ!縁起でもねえこと言うな」

「は?お前まじで彼女いたのかよ。よく持つなあ、どうせ二、三ヶ月もしたら煩く文句言われてうんざりすんだろうが…。で、どんな子?かわいい?写メある?」

「あぁあうっせえな!そんなんじゃねえっつってんだろ!!つうかてめえさっさとフロア入れよ、ヘルプ足りてねえんだろうが」

タイミング良くロッカールームにマネージャーが顔を出し、たむろっている同僚たちを叱咤しながら急かし立てた。キッドとて例外ではなく、指名が入っていると言い渡されたテーブル番号をうんざりしながら聞き流している。おざなりに髪をかき上げ、ダークグレーに細くストライプの入ったジャケットを羽織ると、もう一度だけポケットから携帯電話を取り出した。寝ているのなら、起きたらメールで構わないので連絡が欲しいと、手早くそれだけ打って送信した。ローの携帯には今頃4件の着信と2通のメールが届いているだろう。昨日からほとんど丸一日半、ローからの返事はひとつもない。




ようやく携帯電話が反応したのは、キッドがまさにバックヤードに戻りロッカーを開けたタイミングだった。予備の煙草や小物と一緒にスチールの上に置いてあったそれが短く震え、青いランプが点滅する。人目が無いのをいいことにひったくるように拾い上げて開いた画面には、待ちわびたローの名前があった。ボタンを操作するのさえもどかしい気持ちでメッセージを開く。
『返事しなくて悪い。ちょっと仕事立て込んでて忙しかった』
たったそれだけの短い文章に深い安堵の息が漏れた。おれ何かしちまったっけ、と幾度となく出口もない自問が一日中渦巻いていたのだ。まるで中学生のままごとだ、女々しいにも程があると自己嫌悪する余裕すら持てない。職業柄、つい昨日まで酔ってしなだれかかって甘えてきた客の女と唐突に連絡が取れなくなる、なんてのは珍しくもない話で、まさかと否定したがる気持ちとは裏腹に悪い想像ばかりが駆け巡っていた。連絡先も住所も知っているけれど、ローが拒んだらキッドはもうそれきり関わる術を持たない。自分とローは別段友人ですらないのだと思い知らされる。
少し躊躇ったけれど、着信履歴の一番上を拾い、通話ボタンを押した。冷たい鉄のロッカーに凭れて長いコール音を数える。無性にローの声が聞きたかった。

ローには言っていないけれど、キッドが彼と初めて会ったのは一度きり来店したあの夜ではない。それより二ヶ月ほども前になるのか、マネージャーと共に本社のドフラミンゴの元を訪れたときだ。実のところ別にキッドなど居ても居なくても構わない用件だったが、少し前からNo.1争いに食い込んでいる稼ぎ頭の一人として良い機会だから顔でも見せておけと、そんなことを言われて引っ張っていかれたのだが、まったくいい迷惑だった。早く帰って溜まった洗濯物でも片付けひと眠りしたいと欠伸をかみ殺すしかすることがない。
無益な30分をやり過ごし、ぴかぴかに磨き上げられた廊下を引き返した先のエレベーターホールだった。手入れの行き届いた機能美の集大成のようなオフィスの中で、なんとも場違いな男と行き会ったのは。ここでスーツを着ていないのなんてあの変わり者のオーナーくらいのものだと思っていたけれど、そのひょろりと痩せた男ときたら穿き馴染ませたデニムと黒のカットソーというなんとも気楽な格好で、おまけにとても眠そうだった。引き結ばれた薄い唇がいくらか不機嫌そうで、隈の翳る目元をしきりに瞬かせている。どこにでもいるなりをした若い男だったが、どことなく退廃的な夜に近い匂いがした。不躾にならない程度に気をつけてはいたが、キッドの視線を一切気に留める様子もなく、ひとつずつ登ってくるエレベーターの階層表示パネルをぼんやり眺めている。

「おい、ロー!」

ホールの静寂を、僅かに咎める色を含んだ声が破った。
隣に立っていたマネージャーが振り返って目を丸くする。今しがた退出したばかりの部屋にふんぞり返っていたはずのドフラミンゴが、その長身を猫背に丸めてこちらを見下ろしていた。正確には少し離れた場所に佇んでいる男の方を。

「ロー、てめえ、来たなら顔出してけ。なにを勝手に帰ろうとしてやがる」

「…だって客いたんだろ、どうせ大した用事でもねえし」

「呼んだのはこのおれだろうが。大した用事に決まってんだろ」

「嘘つけ、だいたい茶飲み話する相手がいないとかそんなんじゃねえか。友だち少ねえもんな」

「てめえに言われたくねえよ」

呆気に取られるキッドたちには目もくれず、さっさと来い、と言い捨てて踵を返すドフラミンゴの後を、ローと呼ばれた男は大人しく着いていく。ほんの二歩にも満たない位置をすれ違ったその横顔はひどく整っていた。華やかな顔立ちばかりを見慣れたキッドには、どこか陰鬱な色気のようなものがあるその造形が逆に目新しかったのかもしれない。美女を侍らせて豪快に笑っていそうなあのオーナーには妙な取り合わせの連れだと、記憶の片隅に長らく引っかかっていた。

だから、彼が再びオーナーに連れられて店にやってきたときは一目で分かったのだ。もっともローはキッドのことなんてまるっきり覚えていないらしい。通りすがりのエキストラの一人として、いや或いはひどく眠たそうだったあの様子からすると、そもそもまともに認識していなかったのかもしれない。この髪のせいで目立ち様には自信があるんだけどなぁ、と着いた席でこっそり苦笑した。そして少し、あくまでほんの少しではあったけれど、ショックのようなものを受けていた。本当におれのこと覚えてないんですか、そんな益体のない言葉が出掛かってはかろうじて飲み下すことを繰り返していた。ドフラミンゴのいる前で、そんなことを口にしたくはなかった。
別に、あの時点で好きになっていたわけじゃない。悪足掻きのようにずっとそう自分に言い訳している。ただ、客とホストという立場を挟んではいたけれど話してみたら案外心地が良くて、笑った顔に思っていたより可愛げのようなものがあっただけだ。そこに同性という気安さもいくらか。打算と駆け引きだらけの女たちとの空間に知らず膿んでいたのかもしれない。
もの珍しそうに、部外者の顔でクラブを眺めているローは、おそらく何かの気紛れでここに踏み込んだだけなのだろう。今日限りでもう来ることはなく、接点なんてどこにもなくなる。そのことにがっかりするだけでは済まさず、キッドを行動に駆り立てた衝動を、あのときは恋だなんて思わなかったし絶対に認めなかった。だっておれはノーマルのストレートで、男なんか好きになったことはない。ただちょっと気が合って相性が良かっただけで、できたらもっと話していたかったのにあっさり帰ろうとするから。


コール音は果てしなく長かった。留守番電話に切り替わることもなく、5回、6回、7回、8回。メールは来たばかりだったが、時刻も時刻だけにすぐ寝てしまったのかもしれない。けれど未練を引きずりながらキッドが諦める直前、フッと空気が通り抜けるようにそれは繋がった。

『…ユースタス屋』

「…、すみません、夜遅くに。昨日ずっと繋がらなかったんで…ローさん大丈夫ですか」

『うん…なんでもねえよ、悪かったな。ちょっと疲れて寝てたんだ』

「…もしかして風邪引いてませんか」

『そんなことねえけど』

「声すげえ掠れてる。寝起きにしたって…」

『あぁ…これはなんでもねえから、ほんと。悪いけど話は今度でいいか、まだ眠いんだ』

「……あの、おれ今からそっち行っていいですか。具合悪いなら一人じゃ…」

『…来んな。大丈夫だから放っといてくれ』

ぶつりと一方的に切られた電話を耳に当てたまま、少しの間呆然としていた。ローはいくらか苛立っているようだった。あんなふうに切って捨てるような物言いをされたのは初めてかもしれない。柄にもなく狼狽して、弁解するべきか、それとも大人しく引き下がるべきか、そんなことを考えている間に通路が騒がしくなり、がやがやと同僚たちがなだれ込んでくる。あぁクソ飲みすぎた、あのババァ冗談じゃねえ無理難題ばっか吹っかけやがって、口々にそんなことをぼやきながら互いと自分を労ういつもの夜毎の光景だ。「キッド、お前まだ上がってねえの」と投げかけられる声に生返事を返し、コートを羽織るのもそこそこに店を飛び出した。すっかり夜も更けたというのに其処此処でネオンが煌々と灯り、時間の感覚が曖昧になる街だ。嗅ぎ慣れた夜の匂いがしている。けれどそれはローの纏うものと似て異なっていて、それを思うたびにキッドは焦燥に似たものに駆られるのだ。あの人の半分か、或いはもっと多くの部分は、おれの知らないどこかに置かれていて手が届かない。



もうすっかり見慣れてしまったご大層なマンションのエントランスに立ちながら、キッドは後悔半分、やけっぱち半分でもうどうにでもなれという気分だった。怒って追い返されるならまだましで、顔も出してくれないかもしれない。けれどどう聞いても具合の悪そうだったローを無視して自宅で惰眠を貪れなどとは無理な相談だった。せめてやるだけやってからでないと諦めもつかない。へとへとの身体を押して深夜のコンビニでプリンとヨーグルトなんてものまで買って、わざわざローに嫌われかねない馬鹿げた真似をしに来ているとしても。

インターホンを二度鳴らして、忠犬よろしく扉の前でじっと待った。中からは物音ひとつ聞こえない。更にもう一度。時刻は深夜の二時に近く、どう考えても迷惑行為だとは分かっていた。すみませんローさん、でも頼むから入れてください、心配なんです。聞く相手もいない謝罪を頭の中でぐるぐる繰り返して、こんな姿を馴染みの女たちに見られたらどんな顔をされるだろうか。そういえば昨日の客が笑いながら言っていた。「あなたが誰かのものになるところなんて想像もつかないわ。だからねえ、どんな素敵な褒め言葉だってとびっきり綺麗な嘘をつかれてるみたい。上等なイミテーションだわ、そこが好きよ」そう微笑んで、ライターではなくキッドの銜える煙草から直接火をねだった、ワインの輸入販売を手掛けているという女社長。残念だけどあんたのお気に入りはよりにもよって男に入れあげていて、相手の一挙一動に神経の全部を注いでる。おれが今、客観的に自分を見れるほど余裕がなくて本当によかった。情けなくて死んでしまいそうだ。
四度目の催促をしようとした調度そのとき、扉の向こうで足音と気配がして、キッドは無意識に全身を緊張させた。握り締めたコンビニの袋がガサリと鳴る。壁に何かがぶつかる音と、ガチャガチャとやや乱暴に鍵の回される音。

「来んなって言わなかったか」

「…すみません」

「…できたらこのまま帰れ。おれは寝る」

「嫌です、入れてください」

キッドの返事も分かりきっていたのだろう、ローはそれ以上詰ることをせず、溜め息をひとつ吐いて裸足のままぺたぺたと部屋の奥に引き返していった。おじゃまします、と一応の声を掛けて靴を脱ぐ。玄関もきちんと施錠して、勝手知ったる他人の部屋だと寝室へ向かっただろうローの後を追った。

「熱測ったんですか」

「……風邪なんか引いてねえって」

「じゃあなんでそんな声枯れてんすか。体温計は?」

「知らねえよ、使わねえもん」

早々にベッドに潜って目を閉じたまま取り合わないローに困り果て、仕方なく掌をそっとその額に乗せた。短い柔らかい髪をかき上げなめらかな肌をぺたりと覆うと、小さな顔は目元まで隠してしまえる。じんわりと沁みこむ体温は低かった。酒が入っている分、キッドの掌の方が温かいかもしれない。

「…熱ないっすね。咽喉痛みますか」

「…少しな…大したことねえよ、明日には治る。お前も風呂入って寝れば。どうせ終電もねえんだから泊まってくだろ」

「その前にローさん、寝るなら着替えたらどうですか。あんたもしかして仕事から帰ってそのままの格好でしょう」

「うるせえ……だるいんだよ面倒くせえ」

「やっぱ調子悪いんじゃねえか」

先ほど玄関に出てきたローは薄手のニットといつものデニムだった。せめて下くらい脱げばいいものを、よくそんな格好で寝られるものだと半ば呆れ、動く気力がないのなら着替えさせてやろうと抱え起こそうとした。ローはうるさそうに頭を振って、なんだよ、と不満そうにこちらを見上げている。休息の邪魔をしているのは事実で、いくらかの申し訳なさを感じながらも、いつもよりいくらか子供っぽくも見えるその拗ねた表情が好きだと思った。
しかし、ニットの裾を持ち上げた途端、ローは驚いたように目を見開いて飛び起きた。やめろ、と慌てたような声を上げてキッドを押しのけようとする。過剰ともいえる反応だった。手を引き剥がそうとするローがあまりに必死で、その様子にキッドは慌てて中途半端に肌蹴けた服を脱がしにかかった。嫌がられているのだからさっさと済ませてしまおうと、ただそれだけで他意などなかった。

「やめろ!!」

目の前で振り回された手首を反射的に捉えて、ずり上がった袖から覗いた皮膚に視線が縫い付けられた。骨ばったそこをぐるりと一周して、擦り剥いたような痕がついている。2センチほどの幅の、まるで何かで縛られたような。
ローの瞳が明らかに狼狽したように揺れた。距離をとろうとする身体を引き寄せて、反対側の袖をまくり上げる。まったく同じような擦り傷が張り付いているのを確認し、有無を言わさず着衣をひと息に剥いだ。

「……ローさん」

声は地を這うように低かったが、平坦だった。思っていたより冷静だと、俯瞰で自分を見ている自分がいる。ローがふいと眼を逸らしたのを許さず、顎に手を掛けて引き戻す。
鎖骨から下、胸や腹を通って鬱血した痣が這っている。手首のように擦り切れるまではいっていない皮膚は、それでも痛々しさを覚えさせた。脇腹に残った幾条かのみみず腫れをなぞり、綺麗に薄く張った筋肉がひくりと痙攣するのを掌に感じた。きっとデニムの下も、似たようなものなのだろう。

「…今まで聞いてませんでしたけど、仕事ってなにやってんですか」

「……お前には関係ねえ」

「今日ずっと起き上がれなくて寝てたんですか。電話もメールも気付かねえくらいに」

「…ユースタス屋、離せ」

「答えろよ」

ローといて、こんなに凶暴な気持ちになるなんて想像もしていなかった。ぎり、と奥歯を噛み締めて唸ったキッドを、ローはつかの間言葉に詰まって、それでも怯むでもなく今度はまっすぐに見返してきた。視線と視線がぶつかり、夏の終わりの海のような色をした瞳が少しだけ眇められる。

「…お前に説明するつもりはねえよ。今回のはちょっと特殊だっただけだ。少し疲れただけで、別にお前が心配することなんてない。危ねえ真似だってしてねえ」

「……それでおれが納得するとでも思ってんのかよ」

「できねえならそれまでだ、もうここには来んな」

きっぱりとした口調がキッドの駄々を封じ込める。責めていたのはキッドなのに、いつの間にか宥められる側に回ってしまった。ダメだ、と頭の中で警告が響く。退いたら負けてしまう。納得なんてまるでしていないのにそんなのはお構いなしに、諦めろとローは平気で惨いことを口にする。
まだ新しい傷をくっきり残した腕が伸ばされ、手の甲がそっと目元を通って頬を撫でた。

「おれにはおれの世界がある、ユースタス屋。お前に口を出される筋合いじゃねえんだ、分かるな?」

「…………」

「ろくでもねえもん見せちまった、悪かったな……余計なことを考えずにもう寝ろ、いい子だから」

困ったように笑うローに頭をくしゃくしゃとかき回されて、まるで自分が十歳も幼くなったような気分だった。だからかもしれない、俯いたままきつく唇を噛み締めていなければ聞き分けなく泣き喚いてしまいそうだった。自分の知らないところで好き勝手に扱われている身体と、それを許しているローが、憎たらしくて仕方なかった。こんな、声も枯れるほど喘いで、這い回る誰かの手に身を捩っていたのかと。
おれだって欲しいのに。
今ここでおれのものになってくれるなら認めたっていい。きっと初めて会ったあの時から、あんたがおれなんて目にも留めてなかった時からずっと、坂道を転がり落ちるように恋をしていた。




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