ローの仕事はそれなりに不定期である。別段毎朝決まった時間に出社するわけでもなく、撮影が入っていなければ大抵は部屋でだらだらとしているだけだ。契約を結んだときに寮と称して与えられた(とはいってもここに他の同僚が住んでいる様子はない)高級マンションの一室は、世辞にもきちんと片付いているとはいえない。男の一人暮らしならばこんなものだろうと苦笑して、ドフラミンゴが時折ハウスキーパーを寄越してくる。
キッドに会った夜からもう一週間が経過していた。連絡先の書かれた名刺はいまだに活用されていない。なにかの景品でもらったクマの手帳に挟まれたままリビングのテーブルに放り出されている。
別に忘れたわけではなかった。ただ少しばかりキッドの真意を量りかねていたことと、単純にホストという人種の生活サイクルをローは知らなかった。朝帰りをして日中に寝て、夕方に出勤する。漠然とそのようなイメージがあるのだが、いざ連絡しようと思うとスマートフォンを弄ぶ指が止まる。だって今寝てんじゃねえの、とディスプレイの時刻を睨みつけて、柄にもなく他人を気遣っている自分が少し滑稽になる。
いっそこんなもの捨ててしまおうかとも思った。だって一週間も音沙汰なしだ、自分なら脈も何もあったものじゃないとさっさと見切りを付けている。一日に一回は名刺と携帯を片手に悩むのも、いかにも性に合っていなかった。ドフラミンゴ辺りに見られたら大口開けて馬鹿笑いをされるだろう。「どうしたロー、今更初恋でもしたか!」そう言って2メートルを優に超すあの身長でローからちっぽけな紙片を取り上げ、手の届かないところに掲げて「うちの売れっ子じゃねえか」なんてわざとらしく驚いてみせるに決まっている。あぁ腹が立つ。
時刻はのどかな午後三時だった。たとえばキッドが昨晩うんと忙しく、朝の九時頃にようやく寝付いたところを叩き起こしたとしても、とりあえずは許されるべき時間だろう。誰に聞かせるでもない言い訳を胸のうちで呟いて、そっとスマートフォンのロックを解除した。読みづらい黒地の名刺を光にかざしながら11桁の番号を打ち込んでいく。
これで出なかったらもうおれからは連絡しない。そう思っていたけれど、三度のコール音を挟んでかちりとラインが繋がった。機械の向こうで一瞬息を詰めるような気配があり、一拍置いて『…トラファルガーさん?』と低い声がローを呼んだ。
「あ…うん、おれだけど…ユースタス屋?」
『はい』
「名刺貰っただろ、番号書いてあったから……読みにくかったけど」
『すみません、あの時焦ってて…全然掛かってこねえからやっぱ気付かなかったかと思いました』
「言ってくれれば番号くらい交換したぞ。ていうかユースタス屋、もしかして寝てたか?起こしたなら悪い」
『寝てないです、昼前には起きてました。今日休み貰ってて出勤もねえし』
「そっか、じゃあよかった。なんかタイミング分かんなくって」
『そんなもんいつでも良かったですよ。トラファルガーさんは今仕事いいんですか』
「いや…おれも今日は別に」
『暇してました?』
「うん、まあな……つか電話だとすっげえ喋りづらいな、なに話していいかわかんねえ」
思ったよりも困惑したような声が出た。顔が見えない分、感情表現が素直になっている気がする。キッドが息を吐くようにして笑うのが分かった。大勢の人間の低い話し声も、ゆったりとしたピアノ曲のBGMもない今、何かを喋り続けていないとひどく居た堪れない。
『そうっすね、でも掛けてくれてよかったです』
「うん……なぁ、お前出勤しねえんならいっそうち来る?」
『え…?』
「だってこれ間が持たねえし……あ、でもお前の家遠いのかもな。ごめん、店からの距離感だった」
『行っていいんですか、おれ店から二駅のとこなんで余裕です』
「じゃあ住所送る。多分けっこう分かりやすいと思う」
なんだってこの時あっさりとキッドを部屋に招いたのか、今思い出しても首を傾げてしまう。半分くらいは、口が勝手に動いていたような感覚だ。ここに立ち入ったことのある人間なんてオーナーのドフラミンゴと業者の他はせいぜい古い友人の一人二人くらいで、それも片手に足りるほどの回数に過ぎない。
少しだけ後悔のようなものがよぎった。慣れない無防備さは否応にも人を不安にさせる。ましてやキッドは見ず知らずを少しだけましにした程度のまったくの他人だった。
「すげえマンション」
「だよなぁ、ドフラミンゴの持ちもん格安で借りてるだけだけどな。あのおっさんマジ金余ってんだろ」
「…オーナーの?」
電話を切ってから一時間もせずやってきたキッドのフットワークの軽さに少々驚きながら、目分量で計ったインスタントコーヒーに湯を注いだ。ビールもあるけど、とのローの申し出は、「せっかくの休肝日なんで」と苦笑いとともにやんわり下げられた。
「仕事場近いんだよここ、寮代わりっつうか」
「あの、変なこと聞いていいですか…不愉快にさせるかも知れねえけど」
「ん、なに」
「トラファルガーさんとオーナーってどういうご関係なんですか」
「…あー…もしかして愛人みてえなもんとか思ってんだろ、違えから」
「……すみません」
「仕事関係で世話になってるだけだよ。あいつの会社入ったときおれ若かったし、ちょっとした縁があって色々面倒見てもらってたんだ。最初は右も左も分かんなかったからな」
「…ちょっと安心しました。あの、あともうひとつ」
「まだあんの、なに?」
「彼女いるんすか」
熱いマグカップに口を付けたまま、やや不明瞭な発音でそう尋ねたキッドの視線はソファの前のテーブルに向けられている。リモコンやティッシュペーパーの箱や雑誌に混じって置かれている、ファンシーなクマの手帳とそこに挟まった見覚えのありすぎるだろう黒い紙片に。確かにあれは女の、というより女子高生あたりの持ちもんだな、とローは腹筋を震わせて笑い声を噛み殺した。
「いねえし、それおれの」
「え…、そのクマ好きなんですか?」
「うん、わりと好き」
「…前ローソンでフェアやってたときのマグカップありますけどいります?おれ使わねえし」
「まじで。あれポイント足りなかったんだよ、いる」
馬鹿にするでもなく、じゃあ次に会うとき持ってきます、と頷いたキッドがまさかコンビニのレジで可愛らしいカップを引き換えてもらったのかと想像したらもう駄目だった。「なに、お前、それ、客の女に貢いで貰ったとかじゃなくて…っ、カップ貢ぐってのもあれだけど、」なみなみと注がれたコーヒーの水面を波立たせながら膝に顔を埋めて笑い続ける様子を目を丸くして見つめていたキッドが、ひどく柔らかく嬉しそうに口元を緩めたことをローは知らない。
今にも中身のこぼれそうなマグカップを取り上げ、キッドは身を屈めるようにしてローを覗き込んだ。トラファルガーさん、と呼ぶ声には薄く粉砂糖を振ったような甘さが滲んでいてむず痒い気分になる。
「またここ来ていいですか」
「カップ届けにか」
「まぁそうですけど、なんつうか…いや、それでいいです。また来るんで入れて下さい」
「手ェ早いなぁユースタス屋、喋り方えっろいし。ホスト怖え」
「…そういうんじゃねえし、だってトラファルガーさん店来ねえんでしょう」
「そうだな、もう行かねえ。別にそんな楽しくねえしな、あそこ」
お前の接客は良かったけどな、と少ししょげているようにも見える頭を掻き回した。一週間前のようにきっちりセットされていない髪は思ったより手触りがいい。大人しく弄ばれている図体は大きいけれど、こうして見ると自分より三つも年下というのにも納得できた。
ドフラミンゴを始めとして周囲に年上が多かったローにとって、自分に懐いてくる存在というのはいくらか物珍しく悪い気だってしなかったのだ。この頃から今に至るまで、自分はキッドに誰より甘いとローは確信している。今となっては当時の可愛げのあった態度など見る影もない男は、きっと逆のことを思っているのだろうけれど。
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