(あまりハッピーエンドらしいハッピーエンドではないです)



普段よりも少しだけ遅く着いた学校は、それでも大半の生徒が登校してくるにはまだ早い時間で、廊下は閑散としていた。早朝練習を行う部活動の掛け声が微かに届くくらいのまだ静かな校内が、今はありがたかった。きっとひどい顔をしている。油断すればこみ上げてきそうなものが胸の浅くにつかえている。
まっすぐに職員室に向かうことすら気が引けて、途中、人気のないトイレで乱暴に顔を洗った。みっともなく泣いてばかりいたせいで瞼はまだ重く、充血の残る目が忌々しかった。鏡に映る自分の顔は少し青褪めていて、じっと見ているとますます気分が悪くなりそうだ。胃の辺りがむかむかして仕方ない。いっそ吐いてしまえば楽になるのかもしれなかったが、喉の奥に指を突っ込むような気力も出なかった。
それでも指先がかじかむほど冷たい水を何度も掬い、飛沫が飛ぶのも構わずばしゃばしゃと顔を濡らすたび、凍えそうな温度に少しずつ現実感が帰ってくる気がした。この三日間はどうかしていたのだ。いつもの学校という見慣れた場が、少しずつ非日常に染まっていた思考を塗り替えてくれる。夢であればいいと何度も願ったことは叶わなかったけれど、ほんの一時間前までいたはずのキッドの部屋は刻一刻と遠いものになっていく。大丈夫だ、きっと忘れられる、何事も無かったように一教師として当たり前の顔をしていられる。そう自分に言い聞かせて、肺の底まで空気を入れ替えようと深呼吸を繰り返した。痺れるように冷たい頬を、一筋だけ温かな水滴が伝い落ちていった。



携帯電話を紛失したことに気付いたのは、二限目が終わった後の休憩時間だった。
思えばそんなもの、金曜の放課後から一度も使っていない。通勤用の鞄に入れっぱなしで取り出してすらいないのだ。充電はとうに切れているはずで、同僚に頼んで鳴らしてもらうのも無意味だろう。荷物をすべて取り出してどこにも紛れていないことを確認したローは、重いため息をついて両手で顔を覆った。心当たりなんてひとつしかない。キッドの部屋に忘れてきたのだろう、多分。
気が重いなどというものではなかった。
きちんと遅刻せずに出席したキッドは、朝のホームルームでも別段何事もなかったように、眠そうな顔でローの話を聞き流していた。教室に入ってしまえば等しく自分の生徒だというのに、どうしても正面からキッドに視線を向けられなかった。素知らぬ顔をしてくれたのは幸いだ。もしも意味ありげな素振りでも見せられたら、教壇に立ったままみっともなく声が震えたかもしれない。

ちょっとした私物だったら諦めてしまえばいいのだが、さすがに携帯ともなるとそのような訳にもいかず、ローは鉛のように感じる足を引きずってキッドの姿を探した。教室を見て、学食に寄って、最後の最後にやっと屋上に来たけれど、本当は居場所くらい最初から分かっていた。今日は曇っていて日差しはない。秋も終わりかけのこの寒い時期、おまけにこんな天気の日に、わざわざ屋上で昼食を摂ろうとする生徒などそうはいないことも。
扉を開けた先には、風を避けるように給水タンクに凭れているキッドの他に誰もいない。

「……ユースタス屋」

「どうしたの先生。まだ予鈴鳴ってねえからサボりじゃねえよ?」

「いや、その…お前のとこに忘れ物したみてえで…」

「あぁ、携帯?」

逡巡もなく単語が出てきたということは、やっぱりキッドの元にあったのだろう。使った覚えのないそれを一体いつ落としたのだろうかと思ったけれど、大方暴れたときに滑り落ちでもしたのかもしれない。「返してくれねえか?」と伺いを立てるローを真正面からじっと見て、キッドはほんの僅かに目を細めた。笑ったようにも見えたけれど、なんとなく気圧されて無意識に半歩下がったローの手首を捉え、先生、と薄く甘さの滲んだ声がする。気付かないふりをしようと思えばできてしまう程度の。

「今日って仕事溜まってんのか?」

「…なんでだ」

「放課後ちょっと時間くれねえ?話したいことあるんだけど。携帯もついでに返す」

「……今ここでじゃ駄目なのか」

「もうすぐ午後始まっちまうだろ」

「……だけど、」

「別に家来いなんて言わねえよ、学校でならいいだろ。どうしても嫌ならしょうがねえけど…あんなことしたし」

びくんと反射的に震えた体に気付かれただろうか。あんなこと、と別に気負うでもなく口にしたキッドをどこか信じがたい思いで見下ろした。いっそ無かったことにしてくれればいいと、あの部屋を出るときからずっと思っていたことだ。けれど、諦めるなんて無理、と囁いて口付けられた温度がまだ残っている。こうも容易くよみがえる。

「…頼むよ先生、大事な話だから」

「……校内でなら…いい、生徒の頼みなら断る理由もねえ」

「そっか、仕事何時に終わる?」

「五時前には多分…」

「じゃあ五時に教室で待ってるな」

捕まえていた手首を離してやれば、数秒の間固まっていたローは慌てたように踵を返して校舎へと戻っていった。階段を下りる足音がみるみる遠くなる。転ばねえといいけど、と苦笑して、冷たい給水タンクにもう一度背中を預けた。
生徒の頼み。緊張して硬かったローの声を思い返して、おかしくてたまらない気分だった。あんなことがあったのに、或いはあんなことをされたからこそ、キッドをその他大勢と一緒の枠に押し込めて、必死に心のバランスを保とうとしている。あくまでもローにとっては一生徒でしかない、と。

「先生、それわざと言ってる?」

まだきちんと傷付いていて、少しも忘れてなんかいないくせに。キッドが本当に何も無かったことにして以前と何ひとつ変わらない態度で接したら、きっとそれはそれで傷付くくせに。





約束の五時を少し回ってしまったが、キッドはちゃんと教室で待っていた。外はそろそろ暗くなり始めているのに電気もつけず、退屈そうに弄っている音楽プレイヤーの液晶画面が薄闇に浮かび上がっている。
声を掛ける前にこちらに気付いたキッドは、相変わらず空っぽに近そうな鞄をひょいと持ち上げ、大股で歩いてきたかと思うとローの腕を無造作に取った。

「じゃあ行こっか」

「え…ど、どこにだよ…!教室でって言ってただろ!」

「だってここまだ人通りあるじゃん。もうちょっと目立たねえとこの方がいいだろ。先生、準備室の鍵持ってる?」

「ある、けど……ほんとにここじゃ駄目なのか」

「駄目。先生だって聞かれたくねえ事とか色々あんだろ」

そう言われてしまえばローは黙るしかなかった。ここに来るまでに覚悟はしていたけれど、聞かれたくない話というからには、やはり週末のことだろう。今更なにを話すことがあるのだという思いと、きちんと諭しておかなければいけないという義務感がごちゃ混ぜになっている。

カーテンの閉まった数学準備室はいっそう暗かった。蛍光灯に少しガタが来ていて、スイッチを入れても十秒ほどは不規則に点滅している。キッドは手近な椅子に荷物を放り出し、ポケットから見覚えのある黒い携帯電話を出してローに差し出した。

「これ先に返しておくな」

「ありがとう、悪かったな」

「いいよ、先生の荷物から抜いたの俺なんだし」

さらりと告げられた内容が一瞬頭に入らず首を傾げたローを見て、「やっぱり全然疑わなかったんだな」と困ったような、呆れたような口調でキッドが苦笑した。

「だから、先生と話す口実作っとこうと思って勝手に持ち出したんだ。ごめんな」

「…口実、って…別にそんなことしなくても俺は、」

「でも俺のこと避けてただろ?こうでもしなきゃ話しかけてくれなかったんじゃねえの」

何気ない口調で喋りながらキッドは入ってきたばかりのドアに歩み寄り、ガシャリと鍵を下げて施錠した。誰もここには入ってこられない。聞かれたくない話があるから。立ち尽くすローの掌にじわりと汗が滲み、にわかに空気が重く息苦しくなった気がした。

「…ユースタス屋?」

「なぁ先生、昨日の続きしよう」

またちゃんと最後まで。昨日みたいなあんな中途半端な終わりじゃなくて、もっと一番深いところで。
話があるなんていったのは、半分本当で半分嘘だった。忠告なら朝にだってちゃんとしたのに、いつまでも理解しようとしないのが悪い。きっとなかったことにされるのも、そうするより他にローに選択肢が無いことも分かっていたけれど、だからといって腹が立たないわけじゃない。

逃げようとはした。それくらいの危機感はちゃんと働いてくれた。だけど唐突さに反応が遅れた分は致命的で、腕の一本でも掴まれてしまえば力でキッドに勝てないのはもう知っていた。

「なっ…に、考えてんだ…!学校だぞ、ここ…!」

「だから大声出すなって。バレたら困るだろ?電気点いてんだからすぐここだって分かるぞ」

「嫌、だ…!週末のことはもう、あれで…っ、俺は女じゃねえし、お互い忘れれば誰も傷付かねえで…!」

「……忘れられんのか?あんなことされて」

見上げる天井でおんぼろの蛍光灯がジジジッと苛立ったように呻いている。
浅い呼吸を繰り返すローの頬を撫でてうっそりと笑ったキッドが、まるで知らない他人のように見えた。馬鹿にして蔑んでほんの少し哀れむような、一度だってローに向けたことのないそんな眼をしていた。

「先生、ちゃんと分かってんの?あんた生徒に強姦されたんだよ。十以上も年下のガキに女みてえに犯られて、あんな声出して喘いでたくせに…今更取り返しつくと思ってんのか?」

「…ッ、…」

「痛かったのは本当だろうけど、同じくらい気持ちよかっただろ?ケツん中擦られてイったのは誰だよ。それとも先生、自分でオナニーしてもあんな気持ちよさそうに射精できんの?」

「やめろ!!そんなんじゃない…俺はただ…!」

「ただ、なに?ただ無理やり犯られただけで被害者だからしょうがない、か?そうだな、先生は別になにも悪くねえよ」

潜めた声は甘くすら感じる。甘ったるい毒がどうすればローの心臓に沁み込んで全身を浸すのか、手に取るように分かっている。


「先生は力じゃ俺に勝てねえから今ここでもう一回犯すけど、しょうがねえよな」




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