(ベポとローさんとキッドさん)



おれは人間ではありません。

おれがキャプテンと出会ったのは、寒い国の春の終わりでした。まだ初夏と呼ぶには冷たすぎる頃の、その日は特に凍えそうな一日でした。世界の半分は雪で覆われていて、真っ白いシャクシャクした結晶とカチカチに凍った土を交互に肉球の裏に感じながら、なにかお腹に入れられるものはないかとふらふらさまよっていたのです。たんぱく質だなんてぜいたくは言いません。木の芽でもあれば上等ですが、おれはまだ生まれて間もないほんの小熊で、手の届く範囲のまるい緑はほとんど食べ尽くされてしまっていました。遥か上で、ぼんやり青い空を網みたいに覆う枝を伝ってリスやなんかが駆け抜けていくのも、おれには無縁の世界です。こまったなあ、とこの三日で百回目くらいのため息をついて木の根元にへたりこみました。お腹はぺこぺこで、次第に艶をなくしてきた毛皮の下のなけなしの脂肪さえ尽きれば、おれを待ち受ける運命なんて知れたものです。
おれにとっての神さまがやってきたのは、そうやってだんだん重くなるまぶたと戦っていたときでした。ストンとしたシルエットの真っ黒い上着をまとって、真っ黒い長い棒を担いでいました。夜よりも黒い生き物なんてはじめて見ました。もっとも、この国には夜が来ない日も、暗くなったはずの空で怖いくらい眩しい光がのたうつ日もあるのですが(白夜とオーロラという名前を、おれはずっとあとに教えてもらうのです)
キャプテンははじめて会ったときからおれの神さまでした。それは直感以外のなにものでもなくて、人間でないおれにだって信仰はあったのです。ひとつ言葉を覚えるたびに、あったかい蜂蜜みたいにトロトロとおれを包んでいた気持ちは、きらきらしたドロップになって手にとってじっくり眺められるようになっていきます。

「キャプテンだいすき」

百回も二百回も練習して、ちゃんと噛まずに言えて誇らしさでいっぱいのおれの頭を撫でて、キャプテンはうれしそうに目を細めながら前足の甲にキスしてくれました。おとぎ話のおひめさまにするみたいに。栄養たっぷりのごはんと丁寧なブラッシングのおかげで、一度は萎れかけてた毛皮はまたつやつやのぴかぴかで、おひめさまの絹の手袋にだって負けません。そっと肉球を揉まれてくすぐったさにバタバタしながら、おれもキャプテンの少し荒れた冷たい手を舐めてあげました。だいすきなキャプテン。おれだけの神さま。


おれだけのキャプテンがみんなのキャプテンになったのは、それから丸一年と少しが過ぎてからです。
船出は夏の終わりでした。おれは大人になりかけていて、ずいぶんたくさんの言葉と、キャプテンの真似をして二本足で歩くことを覚えていました。まだ少し不安定な二足歩行を前足をぎゅっと握って支えてくれながら、海賊になったキャプテンは、はじめてのおれ以外のクルーを得るのです。キャプテンよりももっと目深に帽子をかぶったその人はペンギンと名乗り、おれは「ベポだよ」と自己紹介をして、キャプテンは静かな声でトラファルガー・ローという名を告げます。そうです、彼にはトラファルガー・ローという名前があったのです。おれはそれを、一年と少し経ったこのときにはじめて知りました。キャプテンにキャプテン以外の呼び名があったなんて、世界がひっくり返るくらいびっくりした出来事でした。
目をまぁるくしているおれを見て、キャプテンも驚いたように目を見開きます。

「……まさか、教えていなかったか?うっかりしてた……近すぎるというのも考えものだな」

困ったように笑って、おれをよいしょっと抱き上げて(もう昔みたいひょいっとはいきません)耳の付け根を優しくもみながら「トラファルガー・ローだ。よろしくな、おれのベポ」と頬ずりをしました。トラファルガー・ロー。それは神さまの名前を知った瞬間でした。おれだけのものだったキャプテンは、他の誰かが呼ぶことのできる名前をちゃんと持っていたのです。おれはとてもおごそかな気持ちと、少しばかりの、けれども深い哀しみを抱えて、キャプテンの頬をそっと舐めて親愛の情を示しました。もうわがままばかりの小熊ではないのです、おれは大人にならなくてはいけないのです。

けれどもこのときの憂鬱は、のちに少しばかり形を変えることになります。
キャプテンは強い人でした。少なくとも、強くあろうとする人でした。ひとり、またひとりとクルーは増えて、ちっぽけな駆け出しの海賊団の名も世に聞こえはじめ、この人の肩にのしかかる重さは少しずつ増えていったのだと思います。真っ黒い厚手のコートを脱ぎ捨てて軽装になったのも、北の果てを出たからだけではなく、少しでも身軽になろうとしたのかもしれません。
誰の前でも決して弱音を吐かず、膝を折ったことなどなく、どれほど追い詰められてもうっすら笑ってさえみせるキャプテンは、おれの前でだけは昔のまんまでした。
ひどい嵐と戦闘をやり過ごした朝でした。雨水と海水と潮風をたっぷり吸った服を脱ぎもせず、だらりと椅子に凭れかかってだらしなく脚を投げ出しているキャプテンは、一週間前に負った太腿の傷もまだ治りきっていません。自分で手際よくチクチクと縫ってぐるぐる包帯を巻いてあるそこは、びしょ濡れのデニムの下で嫌な感じに疼いているのでしょう。ベポ、と弱々しいほど小さな声がそうっと空気を伝って耳の内側の毛をくすぐります。
おれの前でだけほんの少し弱ってくれる。きっとキャプテンには、おれが「人間でないこと」がそれなりに重要なファクターなのです。そんな時は、黙って小熊の頃のように四本足で傍ににじり寄り、少し荒れた冷たい手を舐めてあげるのです。うれしい時もつらい時もそうしてきたように。寒い北の国で、身を寄せ合って暖炉に揺れる火を眺めていたあの頃みたいに。

「……焼いたマシュマロとビスケットが食いたい」

昔、キャプテンがよく作ってくれました。暖炉の火でパリッと焼いた中がとろける熱いマシュマロを、さくさくとした全粒粉のビスケットにたっぷり挟んで食べるのです。七時に晩御飯を食べて、キャプテンに遊んでもらって、寝る前の十時のおやつ。食べすぎはだめです、二つまで。ちゃんと歯も磨いて、十一時前にはベッドに入らなくてはいけません。船出してからは一度も行われたことのない、だからこの船の誰も知らない、おれとキャプテンの二人だけの楽しみ。


結局のところ、おれはキャプテンについては過剰なほど楽観的だったのかもしれません。誰ひとりとして、古株のペンギンだってシャチだって、おれたちの間には絶対に割り込めない、どこかでそんな確信を持っていたのです。キャプテンの代わりがいないように、おれの代わりだっている訳がないのです。キャプテンは今もおれにとっての神さまで、世界の終わりまでだってこの信仰とこの人に貰ったベポという名前を、丁寧に梳かれた毛皮にくるんで持っていける。キャプテンとは種族からして違うおれだからこそ、この人に寄り添ってやわらかい魂にだって触れられる。

だから、あの真っ赤な悪魔みたいな男が、ユースタス・キッドが、突然現れてあっという間にキャプテンを横取りしてしまったときは、本当にどうしていいのか分からなくなりました。もうとっくにおれだけのキャプテンではなくなってしまったにしろ、彼はずっとおれたちのキャプテンだったのです。
じゃあ今あそこにいる、敵であるはずの人間に腕をしっかり掴まれても振り払おうとすらしないあの人は、一体誰のなんだというのでしょう。ユースタスはおれのキャプテンをどこに引きずりおろそうとしているのでしょう。おれに許していたことを、キャプテンはあいつにどこまで許すのでしょう。

「お前はもしかして人間じゃないの?」

部屋に引き篭もっているキャプテンを、甲板の手摺りにもたれて辛抱強く待っていたユースタスにうっかりそんな風に口を滑らせました。視界を焼く真っ赤な髪や、猛禽類みたいな鋭い目や、キャプテンとは全然違う厚い筋肉に覆われた体を見ていると、あながち間違ったことでもないような気がしてきます。
もしかして人間じゃないから、キャプテンはお前にも心を許してしまったの?
ユースタスは少しだけ驚いたように片方の眉を持ち上げ(あくまで眉のあるべき位置、だけど)正面からまじまじとおれの顔を眺めました。相変わらず無遠慮なやつです。どうやらおれが冗談を言っているわけではないと理解したのでしょうか、赤黒く縁取られた唇がギュウッと吊り上がるように笑いました。

「その手のことは時々言われる」

「じゃあやっぱり人間じゃないの」

「でなきゃなんだよ。てめえも悪魔だなんだって下らねえこと言うクチか」

「そういう意味じゃない……だけどキャプテンが、お前のこと、」

「……トラファルガーが?」

「……好き、みたいだから」

「……」

「おれのことと、おんなじくらい……?」

「……んなことねえだろ」

「だって今までずっとおれが一番だったんだ!」

いつの間にか涙が滲んでて、目も周りの毛がじんわり濡れていました。悔しかったのです。人間のくせに、キャプテンの脆いところなんてろくに知らないくせに、大きな顔をして大好きなあの人の手を引いていってしまう。
はじめは顔を顰めてキャプテンにお説教をしていたペンギンさえ、この頃じゃユースタスの存在を黙認するようになりました。ユースタスがいるとき、キャプテンは相変わらずの仏頂面だけど、少しだけ嬉しそうに見えます。表面で少しでもそう見えるって事は、キャプテンは本当はすごく嬉しくて幸せなのです。
おれだってなにも、キャプテンが俺よりユースタスを大事にしてるなんて思ってません。でも今までおれとキャプテンしかいなかった領域にユースタスは一歩踏み込もうとしている。おれにとってそれがどんなに怖いことか。

「……お前じゃだめだよ。キャプテンは絶対他人に弱音を吐かないし弱みなんか見せないもん」

「……」

「なのに、どうしてキャプテンはお前なんかがいいんだろ」

「……さあな」

「……おれは人間なんかに負けるわけないって、ずっと思ってたのに」

ユースタスは長いことなにも言いませんでした。ウミネコが頭上で輪を描きながら騒々しく喚いてまた去っていくまで、船長室のある方の壁をただ黙って眺めていました。赤味を帯びたその目には、もしかしたらずっと向こうのキャプテンの姿が見えているのかもしれません。
あと三秒で永遠じゃないかってくらい長い沈黙を経て、存外にやさしい声が響きました。

「お前がおれやトラファルガーと同じ人間だったら、おれに勝ち目はなかったかもな」

手を伸ばしておれの頭をぐしゃっと撫でて(キャプテンとは違って荒っぽいやり方です)、ユースタスは普段よりほんの少しだけ穏やかな顔で笑いました。それっきりもうおれの顔を見ることもなく、足音高く船室に入っていってしまいます。
おれはというと、ユースタスが黙りこくって物思いに沈んでいたのと同じくらいの長い時間、あいつの言葉を考える羽目になりました。言いたいことだけ言って、なんてデリカシーがないんだろう。まるっきりの的外れだけど、核心を突いているのかもしれません。核心なんてものはどうやら、おれの差し出した前足とはだいぶずれたところにあるみたいです。

そんなこと一度も考えたことないけれど、おれはあの人と同じ人間になりたかったのかもしれません。


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