センセーショナルに新聞を飾った殺人鬼の記事を読んで、ローはその苦さに辟易したと言わんばかりに、淹れたてのコーヒーに普段は好まないミルクを落とした。不愉快そうなその表情に、キッドはいささか申し訳ない気分になる。ただでさえローは朝に弱いのに、いっそう食欲を失くさせるような真似をしてしまった。せっかくの絶妙な火の通り具合のサニーサイドアップとかりかりのベーコンも全部食べてもらえないかもしれないという危惧で、皿を並べていくキッドの顔が少し曇る。
すっかり持ち直した教会を訪れる信者の中にも、恐怖と不安を口にして慰めを求めるものは幾人もいたが、それを穏やかに宥め諭すことはしても、例えばキッドと二人きりでたわいもない話をするとき、ローが切り裂きジャックの話題にちらりとでも触れたことはない。よほど嫌われているのだと思うと胸が痛んだ。凶行のいくつかは他ならないこの教会で行われたのだと、ローが知ったらどんな顔をするだろうか。

「ロー…ほら、冷めるから」

「…ん、コーヒーもう一杯」

簡単な祈りを口にして、あたたかなカフェオレと焼きたてのトーストを、少し眠たそうな顔で平らげていくローに頬がゆるむ。食の細いローが、キッドの用意した食事だけは人並みに摂ってくれるのが嬉しかった。
食卓に投げ出された朝刊をなにげなく手に取り、見慣れた煽り記事を斜めに読み終えて、しかしそこでふと違和感に気付いた。
犯行はおよそ丸一日前、つまり二日前の晩、被害者は区画に出入りしていた娼婦の女。胸と腹を切り開かれ、一通り摘出された臓器がきれいに遺体の側に並べられていた。残虐ながらも無駄のない手際、解体に精通した者か。神をも恐れぬ所業の、悪魔のような殺人鬼。
ちょっと待て、と口に出しかけた抗議を慌てて飲み込んだ。
二日前の晩だと?中身を全部取り出してきれいに並べるだと?俺はその夜、ローの好物のシチューの下拵えに忙しかったし、ましてやそこまで凝った真似はしたことがない。




どうにもおかしい、とキッドは首を傾げていた。
別段キッドは愉快犯でも、注目されたくて殺人を繰り返しているわけでもない。不可欠とはいわないが、不可抗力だと思っているし、面白おかしく煽り立てる記事にはうんざりしている。女どもも、記者どもも、どうか俺をそっとしておいてくれ。元凶であるにもかかわらず、あまり注意深く切り裂きジャックの報道を読んでいるわけではなかったのだ。
ふと思い立って、可能な限りの古新聞を漁って眉間に皺を寄せた。随所のぼかされた記事では明らかに、とは言い切れないものの、おそらく自分の犯行ではないものがいくつか紛れ込んでいる。俺は心臓を左右心房室ごとに四つに切り分けて胸の上に置いたりはしないし、腸をリボンのように首に掛けたりも、パズルのように臓器をでたらめに詰め直したりもしたことがない。せいぜい一部を灰にして、形だけでも弔ってやるくらいだ。こんなふうに、と炎の中で爆ぜている心臓を眺めながらひとりごちた。粗末なベッドの側には、真っ赤なドレスをしどけなく乱し、うつろな目で中空を眺める女の死体が転がっている。

血と臓物と甘ったるい香水の匂いに辟易して、風呂を拝借して帰ったのが間違いだった。というより、往復半時間にも満たないところに届け物を頼まれただけなのに、優に三時間を超えてしまったのがまずかった。よりにもよってこんな夜に袖を引かなくてもよかったじゃないか、と女への苛立ちがこみ上げるが、後の祭りだ。
心配そうな顔で飛び出してきたローは、何事もなく帰ってきたキッドの姿に胸を撫で下ろし、濡れたキッドの髪と石鹸の匂いに目を瞠って眉を吊り上げた。それからベッドにもぐりこんだきり、どんなに宥めすかしても一言も口をきいてくれない。しびれを切らせて無理矢理に引き剥がしたシーツの奥で、瞳に涙を浮かべて唇を噛んでいるローを見て、キッドの心は煮溶かした鉛に浸けられたように泡立ち、みるみる萎んでしまった。

「……ごめん」

「……」

「ごめん、ロー…でも違うんだ、なぁ、こっち見ろって…」

「……」

「…ロー…」

「……最低だ」

「…違う、んだ…」

「…別にいい、初めてでもねえし」

「…っ…!」

「……俺が気付いてねえとでも思ってたのか」

語尾がじわりと涙に溶けて、辛うじて見えていた頭の先もすっかりシーツに隠れてしまった。
頭を強打された直後のようにくらくらする。いくつもいくつも言い訳が浮かんでは、泥の底に沈んでいった。言える訳がなかった、女と情を交わしていたわけではなく、腹の中身を暴き立てただけなのだ、などと。
言葉に詰まって、それでも尚「違うんだ、ロー…」と情けない声で言い募るキッドをほんの少しめくったシーツの端からちらりと見て、ローの唇から重く深い溜息が零れる。

「なにも言わねえくせに、だからって嘘もつかねえんだよな……お前の、そういうとこが嫌いだ」

「…ごめん、な」

「…嘘だよ。好きだよ、ユースタス屋」

「……っ、」

「好きだよ」

たまらなくなって真白いシーツごと力任せに抱きしめたキッドの行動を予想していたのだろう。息を詰めて衝撃に耐えたローが、のしかかってくるキッドの重さに苦労しながら振り向こうとする。くるりと仰向かせてやれば、逃げ場のなさにうろたえたような顔をされたが、気付かないふりをして濡れた目許にそっとキスを落とし、塩辛い涙を舐めとった。

「…ユースタス屋」

「ん…」

「強欲は罪だと説く側だけど……でも、俺はお前の一番でなきゃいやだ」

「一番に決まってんだろ、俺にはローだけだ」

「……」

「最初に会った時からずっと、お前だけだよ」

抱いているさなかはあんなにも熱く潤んでいる唇も、今はまだひやりと冷たく、少しかさついている。犬のように何度も何度も丁寧に舌を這わせ、震える睫毛に縁取られた瞳をじっと覗き込んだ。ごめん、ごめんな、でも本当にお前しか好きじゃねえよ。言葉よりも雄弁に必死で訴えるキッドに根負けしたように、恨みがましく睨みつけていたローの瞳がほんのわずか緩む。ほんの、わずかにだけ。ぎゅっと一度閉じられて、次の瞬間には熾火のように燻っていた。ふりほどかれた唇が、形だけは笑むように吊り上がり、甘い色の毒を吐く。

「嘘つき」




怒っているような、少し泣き出しそうな、その顔がぞくりとするほどうつくしかったことが忘れられない。そして今、あの時ローを駆り立てていたものの正体を知った。キッドへの怒りでも悲しみでもなく、あれは嫉妬だったのだ。
眼球まで刳り貫かれてがらんどうの女の側に座り込み、ローはぽろぽろと涙を零しながら、銀色のメスを開かれた肋骨のその奥に何度も突き立てている。いつもの黒服と血まみれの指先に、細い銀色がよく映えていた。ぐちゃ、ぐちゅ、と肉の潰れる音だけがする。小さな噴水のように吹き零れるはずの血ももうすっかり勢いを失くし、ゆるやかに床に広がっていくだけだ。
女の死体と泣きじゃくる神父が二人きりの部屋で、キッドは明らかに招かれざる客だった。
ローの涙に濡れた、どこかうつろな瞳がこちらを見上げる。

「…ロー…?なん、で…」

「…なんでって、なにがだ……お前が殺すはずだったのに、なんでって…?」

「…ロー、」

「怒ってるのか…?悔しいのか?自分の手で殺したかったか?」

「お前、なに言って…」

「…ユースタス屋の、嘘つき…っ、いつも俺だけだって言うくせに…!」

ぶわりと新たに溢れた大粒の涙を、血に汚れた手が乱暴に拭う。頬にべったり赤い跡がこびりつく様が、まるで側の女がそのルージュを塗りたくった唇を押し付けたようで腹立たしかった。狭い部屋をほんの二歩で横切り、血溜まりにも構わず膝をついて、暴れようとするローを抱きすくめる。頬の血を涙で溶かして、丁寧に自分の袖で拭ってやった。

「ロー…ロー、落ち着いてくれ…なぁ、なんでこんなことになってんだ?なんでこんなとこにいるんだよ…。今までのも…俺じゃねえやつ、あれはお前がやったのか?」

「そう、だよ……お前が、俺に黙ってどっか行くから…だから後つけて、それで…」

「…見たのか」

「……」

「そっか…ごめん、騙すとかそんなつもりじゃ…」

「…なぁ、ユースタス屋……お前、自分が女を殺す時どんな顔してるのか知ってんのか?」

「…え…?」

「自覚ねえんだな…見せてやりてえよ。あんな…、あんなの、俺のこと抱いてる時だって…っ」

きっとお前の恋人だと思ったんだ。
きっと彼女たちのことが好きで好きで、思い余って殺したんだって、そんなふうに見えた。
震える声の訴えを、頭は理解することを拒んでいた。馬鹿なことを、と笑い飛ばしてやれればよかった。けれど、なんと言って?断じて恋人なんかじゃない、どちらかといえば彼女たちはそう、母かもしれないのだと、真面目くさって慰めろというのか。
ローは訳も分からず、もっと泣くだろう。キッドだってどうしていいか分からない。ただ、ローの涙はいつだって胸が痛かった。

「泣くなって、ロー…俺が悪かったから」

「……俺のこと、好きか」

「好きだよ、当たり前だろ…何度もそう、」

「じゃあなんで…!俺のことは殺そうとしねえんだよ!」

めちゃくちゃだ、と思った。ローは混乱し、錯乱していた。いつも冷静で穏やかな常からは想像もつかないほど取り乱し、激情のままにキッドをなじっていた。渾身の力で、柄まで埋まるほど深々とメスを捻じ込み、素知らぬ顔で横たわっている女を憎らしそうに睨んで、また泣いた。

「どこの、誰とも知らねえ女にあんな顔見せるくらいなら…っ…俺だってお前に、首のひとつも絞められたってよかった…!」

喉を裂くような叫びは、キッドの耳に馴染んだ女たちのどれよりも悲痛で、望まれるままにその首に手を掛けなかったことが奇跡だった。代わりにその細い背骨が軋むほど抱きしめた。いたい、くるしい、と初めて抱いた時のようにローが泣き喚いても、やっぱりあの時と同じに離してやれなかった。
人々の心臓を凍えさせる殺人鬼も、ローの前に引きずり出されては、ただのひとりの男だった。
ありきたりな愛の言葉しか知らず、嘘つきだと泣きじゃくるローに、いっそ扱い慣れたナイフでこの胸を裂いて中を見せてやれたらいいのにと思う。泣き止んでくれるなら、なんだってしてやるのに。

「嘘じゃない、ロー…好きだよ。もうどんな女にも指一本触れない、殺したくなっても我慢する。信用できねえなら両腕切り落としたっていい。ずっとお前といるし、お前だけのもんだよ…。だから…なぁ、泣かないでくれ…」

「…だい、きらいだ…!」とローがしゃくり上げる。神にも万人にも穏やかな愛を紡ぐローが、唯一その言葉を向けるのはキッドにしか有り得なかった。それを知っていたから、女たちが我先に差し出す甘い腐臭のどの言葉より、形ばかりのローの拒絶が嬉しかった。きらいだと吐いて、そのくせキッドが傷付かないかと怯える目が愛しかった。
きっとローは知らないのだ。どんなに安っぽい愛だろうと、キッドはそれをローの他、誰にも囁いたことがない。


泣きくたびれて眠りに落ちたローを背負って、そっと人通りの少ない街に踏み出した。霧は出ていない。惨劇の生々しい部屋にも、もう間もなく朝日が差し込むだろう。
その頃にはキッドたちは教会に帰り着いている。湯を沸かして、血まみれのローの身体を拭いてやって、糊の利いた新しい服に着替えさせてやらなければ。小さなトランクに少しばかりの荷物を詰めたら、いつものように寝ぼけ眼のローを可哀想に思いながら揺り起こして、あたたかいミルクティとトーストを食べさせるのだ。
そうして、そうしたら、二人でどこかへ行ってしまおうと思う。聖書もロザリオもナイフも置き去りにして、息苦しいほどの神の愛に満ちた教会を捨てて、二人しか知らないどこか小さな部屋で抱き合って眠りたかった。


晴れ渡りそうな日曜日だった。
もう小一時間もすれば、ミサのために人が集まり出すだろう。教会の門は、万人へと、大きく開け放たれていた。空っぽの礼拝堂は静まり返り、細かな埃がきらきらと朝の光に輝いている。
間もなくざわめき出すだろう子羊のことなど気にも留めず、ステンドグラスとマリア像がキッドを迎え入れた二十年前のまま、ただ冷たくうつくしくそこに在り続けている。



Killing me softly.


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