ぬかるんだ泥のような空気が満ちていた。
自身の荒い息遣いとベッドの軋む音を半分意識の外で聞きながら、ローは熱く脈打つ下腹部を押さえてうっとりと笑った。薄い腹の肉を微かに盛り上がらせ、膨れ上がった性器が収まっている。食い締めたままぐるりと腰を回せば、絡みつく腸壁に逆らって暴れる感覚がいとおしかった。
「…ん…ふふっ、元気良いなあ…ユースタス屋」
ベッドの上に無造作に転がったキッドには四肢が無かった。両腕は肩の真下から、足は太腿の中ほどからぷっつりと失われていた。手足の在った場所は、肉の生々しさを残しつつ、ガラスのように滑らかな断面を晒している。
ほとんど体幹しか残していないキッドに跨ったまま、ローは上半身を折って腕の断面に口付けた。潰れることすらしていない血管に唇を当て、ちゅうと幼い音を立てて吸い付く。なみなみと鮮血を留めたまま一滴も零さなかった其処は、ローが望めばたちまちに口腔を温かな温度で満たした。
塩と鉄の味。キッドの命そのものの、この男が抱える海の水。
「お前は優しいな、ユースタス屋、ユースタス屋、ユースタス・キッド。聖人君子みてえな名前してるだけあるよ、ふふ…怒るなって、嫌味なんかじゃねえ。凶悪な面してるくせに…お前の中身はあったかくて優しくて綺麗だなあ」
謡うように言葉を紡ぐ。息を弾ませて、瞳を潤ませて、唇には鮮血の名残を留めたままで。
何処か遠くの、それこそ夢の淵を覗いているような瞳が気に入らなくて、キッドは腹筋だけで起き上がって目の前の浅黒い咽喉に噛み付いた。しかし、痛ぇと鼻に抜けるような甘い声に仕置きにもならないことを悟る。
「…おい、腕返せ」
「嫌だね…大体、足は要らねえの?」
「てめえの動きが焦れってえんだよ。とりあえず腕返せ、ちょっとはましになるように揺さぶってやる」
「相変わらず素直だなぁ、ユースタス屋…んなこと言われて返すと思ってんのか」
口先とは裏腹に、床に放られていたはずの腕が魔法のようにローの手に収まり、次の瞬間には自由な両腕が戻っていた。掌を何度か握りこむが、違和感はない。相変わらず奇妙な能力だと思った。刻まれた筈の皮膚は線すら残してはおらず、足りていないのは両足と啜られた一口分の血液だけだった。
向き合っていた身体を持ち上げると、強制的に抜け出る性器にローがむずがるような声を上げた。いやだぁ、と子供のような舌足らずな声で、逃げるペニスを捉えて再び腰を落とそうとする。構わずに半回転させ、自分も起き上がって暴れるローの体を抱きこんだ。ちょうど椅子に凭れる様な体勢になり、汗ばんだ肩甲骨に歯を立てると薄い肩がびくりと跳ねた。
いまだ硬度を失っていない性器を、ローは相変わらず必死で後ろに咥え込もうとしている。しかし動けないように腰を抱えて固定しているせいで一向に入っていかないそれに、とうとう泣き声混じりの抗議を始めた。
「な、んでっ…揺さぶってくれる、って…言っただろ…!」
「分かってるからちょっと落ち着け」
「やぁ、あ…はやく…っ、焦れ…たいのは、おれのほうだ…!」
空腹で、好物を目の前にして食べられない。まさしくそういった風に取り乱すローの様子はひどく目に楽しいものには違いない。しかしこれ以上は本当に機嫌を損ねると判断し、キッドはようやく押さえつける力を緩めた。すぐさま張り詰めたペニスが握り締められ、とろけた胎内に収まっていく。半分ほど呑み込んだところで胸元に手を伸ばし、赤く腫れた乳首を弾いてやった。ひっ、と短く息を詰める音がして、膝から力が抜けたのだろう、へたり込んだローは自らの体重で残りを押し込まれながら断続的な喘ぎを上げた。
「おい、大丈夫か」
「うっせ、うあ…動、かすな、ぁ…気持ちい、ユースタス屋ぁ、あ…苦し、」
微かに揺れている腰は、本人は懸命に動いているつもりなのかもしれないが、満足に座っていることもできずキッドにぐったりと背を預けた状態では気休めでしかなかった。ぐっしょりと濡れている前に触れてやると、だめだ、と息も絶え絶えに喘ぎ、すぐさまもっと、とねだられる。緩急をつけて抉ってやれば身体を震わせて呆気なく吐精した。
「は…っん、ユースタス、屋…なぁ、もっかい腕、切ってい?」
「…息も整わねえうちから何言ってんだ」
「いいだろ、だってみたい…お前のなかみが、いちばん安心する」
涙に沈んだ瞳でまた何処か遠くを見ながら、ローは手を伸ばして欠けた膝の断面を愛おしそうに撫でた。指先に力が込められ、整然と収まった肉を掻き分けようとする。さすがに幾らかの痛みを感じて咎めたが、素直に言うことを聞くなどとは微塵も期待していない。
「だめか?なら…これ、こっち、貰ってもいいか…?一人寝は好きじゃねえ、から…玩具代わりにしてやるよ」
ぐち、と触れた音を纏わり付かせて億劫そうに腰を上げる。
四半分程引き抜かれた性器の根元を輪を描くように撫でて、なぁ良いだろ?ユースタス屋ぁ、蕩けきった声でねだられる内容にキッドは瞬間瞠目して、しかし拒絶も嫌悪もこの男を喜ばせるだけだと分かっていた。腹の上の男は、性質の悪い猫のような笑みを湛えてキッドの罵倒を待っている。
「お前…大概にしろよ、さすがに萎える」
「ははっ、そりゃ大変だ…萎える前にさっさと出せ」
それまで不規則な収縮を繰り返していた肉が意図的に締め上げられる。咄嗟に奥歯を噛んで耐えようとしたが、思いがけず優しい声で名前を呼ばれて力を抜いた。考えてみれば別段堪える理由もないのだ。膝立ちになったローに数回抜き差しを繰り返され、そのままで、とねだられるままに腹の中にぶちまけた。
「…ん、んー…いっぱい出たなあ、ははっ、まだびくびくしてる…最後まで全部出せよ」
「お前…本当に中に出されるの好きだな。後始末面倒じゃねえのかよ」
「いいだろ別に…中にくれねえなら、もうユースタス屋なんかとやってやんね」
それだけが目的と言わんばかりのそれはキッドにとっては充分すぎる暴言で、思う壺と分かっていながら機嫌が急降下していくのを止められなかった。お前は顔に出やすい性質だとしょっちゅうからかってくるだけあって、ローは拗ねたような怒ったようなキッドの表情を実に楽しそうに観察していた。
「怒るなよ、本当にお前は可愛いなあ…ユースタス屋。俺なんでこんなにお前のこと大好きなんだろ」
「な、にお前いきなり、気持ち悪いな」
「何だよ、お前だって人のこと言えねえだろ…だってお前海好きじゃねえか」
「それはまあ当然だろ」
「なら俺のことも好きだろ?」
「…なんでそう繋がるんだか全然分かんねえよ」
「だろうなあ…ははっ、それでも…嘘でも嫌いって言わねえお前が好きだよ」
人は皆、胎内に海を孕んでいる。
目を閉じて呟くと、キッドが首を傾げたのが気配で分かった。
こういう感傷的なことに興味は無いだろうと思ったのに、少しして、あぁと納得する声がした。
眠れない夜を数えて、いつしか心臓からこぼれる漣の音を子守唄に代えることを覚えた。
温かくて重い赤。涙の温度をもった漣が寄せては引いていくのを、いつまでも聞いていたいと思った。刀を一閃させればいつでも逢える色がいとおしかった。名前も知らない相手、姦しく口汚い罵倒、薄皮を撫でていく鉛弾。それもこれも、母なる赤に沈めてしまえば等しく穏やかだった。安寧ばかりがそこにあった。
言わずもがな、青い海には嫌われている。
後悔などしないと決めて生きてきて、それなのに自分は思ったよりも一途に恋をする性質だったらしい。身体の奥にぽっかりと口を開けた空洞と、ふとした時に眼が合うのだ。背筋が凍ってとっさに眼を背けても、訳の分からない感情が渦をなって混じり合っていく。肺を満たして、咽喉の奥までごぽりごぽりとせり上がって、ゆっくりと窒息していく。酸素を求めて口を開けば、哀しい、と零れ落ちた。手を伸ばせば触れることはできるのに、こんなに愛しているのに嫌われるのは哀しい、苦しい、寂しくて仕方がない。
「だからかもなぁ、ユースタス屋。お前のことが好きだし、お前の中の海はもっとどうしょうもないくらい大好きだよ」
息が詰まるほどの赤ですね