コール音が十回は続いたろうか。
通常ならばとうに諦めて切ってしまうところだが、相手はほぼ確実に電話の側にいるのだ。あるいは眠っているのかもしれないと思って、更に三回、ようやく『……もしもし、』と仏頂面さえ目に浮かぶような返答が帰ってきた。

「トラファルガー?」

『……うん』

「出るの遅ぇよ、寝てたのか?」

『…寝てねえけど、知らないやつからだったら…やだし』

「そしたら間違いだって言っとけ。今から帰るからな、ローの具合どうだ」

『ずっと寝かせてたし朝よりだいぶいい。仕事終わったのか』

「おう、飯もう食ったか?まだだったらなんか買って帰るけど、食いてえもんあるか」

『…なんでもいい、ローの食えそうなもんがいい』

「ん、ローにはじゃあ、またなんか作ってやるよ、出来合いじゃきついだろ。お前は?」

『別に…ローと同じでいい』

「もうちょっと食い応えある物にしろって。適当に見繕うか…リクエストねえなら俺の食いたいもんでいいのか」

『それでいい……さっさと帰れよ』

それきりプツンと切られてしまった携帯電話を耳に当てたまま、しょうがねえなぁ、とキッドは苦笑うしかなかった。朝はああ言い残して出かけたが、もしかしたら居なくなっているかもしれないと、ほんの少しは思わないでもなかったのだ。別段それならそれで仕方ないとは思っていた。トラファルガーはお世辞にも心を開いている風ではなかったし、事情があるとも言っていた。見ず知らずの人間の元に長居をすることを拒んでも不思議ではない。
一晩宿を貸してやっただけで情も何もあったものではないだろうが、それでも、トラファルガーが大人しくキッドの帰宅を待っていたことが、なんとはなしに気分を浮上させているのも事実だった。




閉店も近くなっていたデパートの地下食品売り場で目に付いたものを買い込み、自宅に帰ると、予想通りの仏頂面をしたトラファルガーが出迎えた。手には何故か電話の子機を持っている。もしや携帯に掛けてこようとしていたのでは、と思ったが、口にすれば怒らせる気がしたので、ただ「遅くなって悪いな」と頭を撫でるに留めた。耳を押さえ、釈然としない顔で子機をスタンドに戻しに行く男の後ろでは、寝癖なのか少し毛並みの乱れた黒い尾がふわふわと揺れている。

袋から次々に出てくる惣菜や菓子類に目を丸くしていたトラファルガーは、フォークを持ってきてスモークサーモンのサラダマリネを嬉しそうに食べはじめた。やはり軽食じみた食事や有りあわせでは物足りなかったのだろうか。たまねぎを次々避けているのはご愛嬌だろう。サクサクとレタスを咀嚼している姿は、その容姿も相まって本当にうさぎのようでもあった。
綺麗に箱詰めされたコロッケが気になってしかたない様子に笑い、ゆっくり食べていろ、と言い残して寝室へ向かう。トラファルガーは反射的に腰を浮かせて着いてきたそうな素振りを見せたが、キッドが目だけで大丈夫だと笑うと、心配そうにしながらも椅子に座り直した。
軽くノックして「入るぞ」と呼びかければ、すぐに了承の返事が返ってくる。

「おかえり」

「ただいま。具合どうだ?」

「ん…平気、明日には起きれそうかも」

「起きんな、ちゃんと寝てろ。飯作るけど、米とうどんとどっちがいい?」

「うどん」

「分かった、ちょっと待ってろな」

「ユースタス屋」

踵を返そうとしたキッドを呼び止め、ローはにこにこと小首を傾げるようにして手招きをした。

「あのな、ちょっとこっち来て」

「なんだよ」

「いいからこっち…あ、ドア閉めてな」

斜め向こうのダイニングのテーブルでは、サラダを半分ほど食べ終えたトラファルガーがコロッケの箱を引き寄せている。数種類のコロッケに対応した幾つかのソースの袋を手に取り、頭を悩ませているようだった。注意を引かないように、なるべく静かにドアを閉める。なんとなく、後ろめたいことをしているような気分になった。

「俺たちのこと助けてくれたんだよな、ありがと。ちゃんと礼言ってなかった」

「あぁ…気にすんな、あんなとこ見ちまったら素通りすんのも目覚め悪いだろ」

「うん、でもありがとな、ほんと助かった。見かけによらず優しいんだな」

「一言余計だ」

「…なぁ、」

「ん?」

「…ローからなにか聞いたか?」

「別になにも…あいつあんま話したがらねえ感じだし、まぁ普通は昨日今日会ったやつにベラベラ事情喋ったりしねえだろ」

「そんなんで納得して俺らのこと置いてくれるんだ?」

「…なにが言いてえんだよ」

「なんで助けてくれたんだ?」

「だからあんな雨の中で、」

「こんな見るからに怪しいのに?」

いつの間にか、ローの顔がとても近くにあった。灰がかったトラファルガーのものよりもう少し鮮やかな青さの虹彩と、吸い込まれそうな深い瞳孔のコントラストが印象的だ。瞳の奥を覗き込まれているような眼差しに居た堪れなくなり、身を離そうとしたキッドの首に、するりと温かな腕が絡みつく。

「俺にしておいてな」

「……なにをだよ」

「色々。ローには手出さねえでって言ってるんだ」

「あー…その、なんだ…痴漢云々ってやつなら悪かったよ、別にそんなつもりじゃねえから…」

「…うん、分かってる。あんたいい人そうだし。でも、もしそんな気になることがあっても、ローにはなにもしねえで。俺がちゃんと相手するから」

「…あいつが聞いたら怒るんじゃねえのか。お前のことずいぶん大事にしてたぞ」

「俺だって大事だ」

ぐっと引き寄せられ、唇に吐息が触れた。とっさに顔を背けようとしたが、後頭部を抱え込まれて身動きが取れなかった。下唇をやんわりと噛まれ、あたたかく濡れた舌がなぞっていく。睫毛の一本一本が数えられそうに近い瞳がじっとキッドを見つめていた。硝子玉のような眼球に曖昧に浮かぶ笑みが、本心からのものかは分からない。
ベッドから身を乗り出すローと、中腰で上体を屈めているキッドと、どちらの体勢がより不安定だったか。いずれにしろ引きずられるようにベッドに膝をついたキッドの脇腹を、明確な意図を持ったローの掌が這っている。シャツのボタンを外そうとする指先を押さえ込めんでも、意にも介さず身体ごとすり寄せられ、布越しに熱い体温がじんわりと滲んだ。まだ反応していない下肢を膝で割ってこようとするローには、男同士であるという躊躇いは欠片も見受けられない。からかい混じりに口付けただけで動揺したトラファルガーとは、逆しまの極みもいいところだった。
片方の耳ごと短い髪を鷲掴むようにして引き剥がすと、ローは不満と怪訝さの混じった表情でキッドを見上げた。

「…よせ」

「…なんで?男も範囲内なんだろ?俺じゃ嫌なのか?」

「嫌とかそういう問題じゃねえだろ…いきなりなに言い出してんだ」

「こういうの、結構自信あるけど。ちゃんと満足させてやれると思う」

「いい加減にしろ!」

食い下がろうとするローの襟首を掴んで引き剥がすと、責めるような眼で見上げてくる。あたかもこちらが悪いと言わんばかりに。拒否する端から遮るかのように、なおも唇を重ねようとするローの頬を両手で掴み、嫌がるのを押さえ込んでがっしりと固定した。

「やめろっつってんだ」

「なんで」

「トラファルガーの身にもなれ」

「………」

「あいつがどんだけ心配してたと思ってんだ。それともてめぇは、トラファルガーの目の前でもそんな風に俺を誘えんのか」

「…だって、」

「別にてめぇの性癖やらモラルやらに説教するつもりはねえよ、俺だってそんな褒められたもんじゃねえしな……けど、あいつに顔向けできねえような真似すんな。泣かれるぞ」

「………」

「…これだけ言っても聞かねえなら、どうなっても責任取れねえからな」

浮き上がった鎖骨の窪みに触れるとびくりと震え、反射的に身を引こうとする。橙のサイドランプに陰影を強調された首筋の皮膚が、いかにも滑らかそうだった。意趣返しの意を込めて肩に顔を埋めたキッドをどう思ったのだろうか。薄い肉と細い骨に歯を立てれば、逃げ出したそうに身体を捩った。喉が震えて押し出される小さな声が、密着した部分から直接伝わってくる。今の今までふしだらな振る舞いをしていたとは俄かに信じがたいしおらしさだ。
溜息をひとつ吐いて身を離したキッドの顔をちらりと見て、ローは少し気まずそうに俯いている。短くはない、幾許かの沈黙の後、「…ごめん」と頼りない呟きが転がり落ちた。

「…分かればいい」

別に苛めたいわけではないのだ。そもそもが病み上がりで弱っているせいもあり、しゅんとしてしまったローをあまり追い詰めるのも気が引けた。枕の端をぎゅっと握って項垂れている様子は、どことなく小さな子供を思わせる。飯作ってくるから、と布団に戻ることを促したが、ローはゆるゆるとかぶりを振り、躊躇いがちに服の裾をつまんでキッドを引き止めた。

「…頼みがあるんだ」

「頼み?」

「…しばらくここに置いて欲しい」

まったく予想外のような、どこかで漠然と想像していたようなその言葉に、大袈裟に驚きこそしなかったが、いくらか面食らったのは確かだった。

「身の振り方もなにも決まってねえんだ…」

「まぁ…そうだろうな、行き倒れてたくらいだし」

「…だめか?」

「…体調戻るまでは置いとくつもりだったし、だめってわけじゃねえけど……この先ずっと面倒見ろってことならさすがに困るぞ」

「…そんなんじゃねえよ、しばらくでいいんだ。明日とか明後日には出なきゃいけないってなると、俺もローもどうしていいか分かんねえから…」

「断られたら路頭に迷うか」

「……うん」

「だけどお前、俺が下心でお前ら連れこんだって思ってたんじゃねえの?いいのかよ」

「うん、ごめん、思ってた。でもそうじゃなさそうだし…それに、」

「それに?」

「ローがあんたのこと嫌ってねえから」

「…いや、めちゃくちゃ警戒されてんだけど」

「自業自得だろ。でも、少なくとも嫌ってはいねえよ。珍しいんだぞ、ローがそんな風なの」

人見知りだし人間不信気味なんだ、と苦笑するローはどこか悲しそうな顔をしている。互いを隔てる扉を透かした向こう側を、慈しみと物寂しさの混じった眼で眺めていた。仏頂面をしているか、なにかしら怒っているトラファルガーと違って、双子であるはずのローはずいぶんと曖昧で揺らぐような表情を見せる。どちらとも、過剰に踏み込むことを許さない点は同じだったが。

「…分かった、状況も状況だし仕方ねえな。トラファルガーにも言ったけど、面倒事は起こしてくれるなよ。お前らの事情とか…その、耳とか…俺だってよく知らねえのにフォローのしようもねえんだから」

「居ていいのか…!」

「治ったら掃除洗濯くらい手伝えよ」

長らく居座りすぎたのだろう。ぴったりと閉まった扉と、一向に出てこないキッドに焦れてか、怪訝さとわずかの苛立ちを孕んだトラファルガーの声がした。椅子がガタンと引かれる音がし、足音がぱたぺたと近づいてくる。「…ロー?大丈夫か…?」とドアをノックされ、ほら見ろ信用されてねえ、とキッドは視線だけでそちらを示して苦笑した。ローは共犯のように悪戯っぽく笑って、唇の動きだけでそれに答えた。
だから、自業自得だろ。

「ユースタス屋」

鍵の掛かっているわけではないドアは、あと数秒も放っておけば蹴り破らんばかりの勢いで開かれるだろう。汗の浮いたローの額を手近なタオルで拭ってやり、小さな声を拾おうと身を屈める。

「ありがとな、世話になる」

「おう」

「ローのこともよろしくな。俺がこんな事になっちまったし…強がってるけどずいぶん参ってると思うから」

「あれでもか」

「あれでもだよ。優しくしてやってな?」

ぴったり三秒後に予想通り眉を吊り上げたトラファルガーが押し入ってくるまで、そうして二人、顔を寄せ合うようにして笑いを噛み殺していた。





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