アラームが鳴るちょうど五分前に目が覚めた。
七時五十五分。携帯のディスプレイに浮かぶ数字をぼんやり眺め、欠伸をひとつ零す。
遮光のされていない、やたらと明るい部屋に違和感があった。カーテンを引き忘れたのか、と窓を見ようとして、首から肩にかけてが凝り固まっているのに気付き、眉を潜める。頭の下のやや固い感触がソファの肘掛けであることを確認して、昨夜の出来事を思い出す。
あの二人だか、二匹だかに、寝室から締め出されたままだった。

「…ったく、誰の家だと…」

パキパキと鳴る背骨を伸ばし、もう数十秒で喚き出すであろうアラームを切って、キッチンへと向かう。昨晩、誰もがひどく疲れていたこともあって、食事のひとつも出してやれなかったことが気になっていた。食料は買い込んできたばかりだったからどうにでもなるだろうと冷蔵庫を開けたが、病人でも食べられそうなもの、となると意外に頭の痛い問題だ。結局、野菜とともに炊いた粥に卵を割りいれ、朝食とも病人食ともつかないもので茶を濁すことにした。
昨晩のように立て篭もったきりだろうという予想に反して、ノックした扉は一応ではあるが開かれた。

「…お前、寝てねえの?」

「…ちょっとは寝た」

「隈ひでえぞ」

「生まれつきだ」

やっと顔が覗く程度の隙間と、警戒心もあらわなトラファルガーに苦笑し、「飯できてるぞ」と盆に載せた鍋を見せると、一瞬面食らったような表情を見せたが、すぐに眉間にぎゅっと皺を寄せてかぶりを振った。

「いらねえ、ローがまだ起きねえのに…」

「熱は下がってんのか」

「昨日よりは…でもまだしんどそうだし」

「つってもなぁ、食わなきゃ治るものも治んねえぞ。水だってもう少し飲んだ方がいいだろ」

入るぞ、と促してドアに手を掛けると少しうろたえる素振りを見せたが、案外に大人しく道は譲られた。「…ローになんかしたら蹴り飛ばすぞ」と低い脅しが掛けられたのは、やはり昨夜の言動が原因なのだろう。
遮光カーテンの引かれた寝室は暗い。ベッドの上には比較的規則正しい寝息を示している布団の塊がのっている。ベッドサイドにはペットボトル入りの水や薬の箱、冷却ジェルシートなどが置かれていた。壁の一面を覆っているセージグリーンのカーテンを開くと、急激に明るくなった室内に、眠っていた男が小さく身じろぐ。トラファルガーが光を遮るように側に膝をつき、顔を覗きこんでそっとその身体を揺さぶった。「ロー、ローってば…起きて、なぁ、」何度目かの呼びかけに瞼を震わせ、何拍かおいてゆるゆると目を開けたローは、泣き出しそうな顔の片割れに気付いたのだろう。眩しそうにひとつふたつ瞬き、「……ロー…?」とほとんど吐息のように掠れた声でトラファルガーを呼んだ。
どちらも同じ名なのだと、お互いをローと呼んでいるという昨晩のトラファルガーの言葉は本当だったのだと、キッドはどことなく不思議な気分でそんな二人を眺めていた。

「…っ、良かった…!気分どうだ?頭とか、どっか痛くないか?」

「…分かんねぇ…ちょっとだるい…ここ、どこ」

「知らないとこだけど、大丈夫だからな…!ホモの痴漢が助けてくれたんだ」

「放り出すぞてめえ」

あまりの言い草に顔を顰めつつ、ぼんやりと瞳の焦点をさまよわせているローを覗き込む。掌を押し当てた額も、精一杯散熱しているであろう耳も、昨夜よりいくぶんマシとはいえまだじんわりと熱かった。見知らぬ人間に触れられているのを理解できているのだろうか、ローは別段嫌がるでもなく、じっとキッドを見上げてゆっくりと瞬きを繰り返している。

「食えそうか?少し腹に入れたほうがいい」

「…ん、たぶん…起きる」

「トラファルガー、お前の分も一緒だから二人でちゃんと食っとけ。着替えも出しとくから、薬と水飲ませて、あったかくして寝かせとくんだぞ。一人で看病できるか?」

「できるけど…どっか行くのか」

「仕事あるんだよ。お前らこのままいるよな?鍵掛けとけよ、誰か来ても開けんな」

「仕事って、寝坊じゃねえの?もうすぐ九時だぞ」

「フレックスだから。帰りはちょっと遅いぞ、腹減ったら冷蔵庫に色々あるからな」

昼食まで準備してやる余裕はなかったけれど、幼子でもあるまいしどうにかするだろう。十分で身支度を整えて出社時間ぎりぎりといった所だった。訳ありの匂いしかしない、ましてや片方は病人である二人を残していくことに躊躇いはあったが、こればかりは仕方がない。
あれほどローの側を離れるのを嫌がったくせに、手早くスーツに着替え、ネクタイを締めるキッドの後を、トラファルガーは不機嫌とも何かを言いあぐねているとでも取れる様子で玄関までついてきた。まさか見送りに来たわけでもあるまいと苦笑して、手持ち無沙汰にしている男の頭をぽんぽんと叩く。長い耳が根元から折り曲げられ、トラファルガーは今度こそ嫌そうに一歩下がってキッドを睨んだ。

「そうだ、電話、使い方分かるか?」

「…馬鹿にすんな。それくらい知ってる」

「ん、じゃあ何かあったら連絡しろ」

「…仕事なんだろ、抜けてくんのかよ」

「ほんとにやばかったらなんとかして戻るから。ちゃんとしろよ?」

「……うん」

「七時か八時には帰る。晩飯、先食ってていいからな」

九時を回ってしまった腕時計をちらりと見て、もう行かねえと、と開こうとしたドアが、後ろから伸びてきた腕によって押さえられた。さほど強い力でもなく振り切ろうと思えば容易かったが、見上げてくる青い瞳がどこか縋るようで、キッドの足をその場に縫い止めている。「…遅刻する」そう緩やかに嗜めた声に非難らしい非難の色はなく、トラファルガーは一瞬だけ躊躇ったが、じっと見つめるキッドの視線に促されるように口を開いた。

「…あのな、」

「なに」

「…誰にも言わねえでな、俺たちのこと」

「言わねえよ。大体なんて言うんだよ、バニーガールみてえな双子の男拾って自宅に連れ込んでますってか、俺の神経が疑われんだろ」

「………」

「昨日も言ったけど、俺だって面倒ごとはまっぴらだ。こっちこそ頼むから大人しくしててくれよ。ひとまず事情は問い詰めねえ代わりに、それが条件だ」

「…分かってる、間違っても出歩いたりしねえよ」

「うん、じゃあお前も戻って休め、体持たねえぞ。ちゃんと食って、俺が戻るまでローと一緒にゆっくり寝てろ」

誰にも絶対言わねえから。
俯き加減の顔を覗き込んでそう念を押すと、ようやくドアから腕が下ろされる。ぎゅっと引き結ばれた唇ばかりが強がっていて、瞳は拭いきれない不安の色を浮かべていた。信じられない、だけど他にどうしょうもないから、裏切らないで。捨て犬に食事と毛布を与えて、何も心配いらないここに居ていい、と撫でたら同じ目をするのではなかろうか。
後ろ髪を引かれる思いで後にしたマンションの外は、腹が立つほど涼やかに澄んだ雨上がりの晴天だった。




寝室に戻ると、ローは少し気だるそうにしながらも起き上がって、ペットボトルから直接水を飲んでいる最中だった。部屋を離れていた間に、1リットルのミネラルウォーターが半分近くまで減っている。夜中に幾度か水分を取らせてはいたが、やはり喉が乾いていたのだろうと痛ましい気分になったトラファルガーの胸中を知ってか知らずか、熱に潤み気味の瞳がうれしそうに細められた。伸ばされた手を取って、ベッドサイドに膝をつく。火照った掌にすり寄せた頬を優しく撫でられ、「心配かけてごめんな」とひどく久しぶりに思える、聞き慣れたはずの声に涙が出そうになった。

「さっきの、いいやつじゃん。顔怖ェけど」

「…よくねえ、セクハラされたし。絶対下心あったんだ」

「はは、思ってねえくせに。でなきゃロー、とっくに俺連れてここ出てるだろ」

「……今ちょうど出掛けてんだし…別に急ぐこともないだろ。でもあいつがまた何かしたら出てくからな!だから、今のうちにちゃんと体休めとけ」

「うん、そうだな…。なぁ、ロー」

「ん、」

「もし何かされたら、ちゃんと俺に言えよ?」

「………」

「俺のためとか、そんなんで嫌なこと我慢する必要ないんだからな」

「…それはお前の方だろ…!いつも我慢ばっか…大丈夫じゃなくても、平気って言うし…」

「お前は俺が守るよ」

「…俺だってそうだよ。もう寝ろって…熱、上がる」

「飯まだだけど」

「…早く食え」

「うん、一緒に食おう?」

盆ごと膝の上に置いた鍋から、とろとろに炊き込まれた米をれんげでひと匙掬い、口元に差し出される。熱そうな湯気の立つそれにたじろいだが、にこにこ笑ってこちらを見ているローを無下に拒む気にもなれず、仕方なく自分で吹き冷ましたれんげにおそるおそる口をつけた。薄い塩味と卵のやさしい甘みが舌に触れ、そういえばまともな食事を摂るのも久しぶりだと思い至る。ほんのひと匙、たっだそれだけでもあたたかく食道を滑り落ちて胃に納まれば、本能的な安堵がみるみる全身を浸し、ほっと溜息がこぼれた。「うまいか?」とローに力の抜けた耳をそっと撫でられ、あの不遜な赤毛の男を認めるようで癪ではあったが、意地を張ることすら面倒に感じられてただ素直に頷いた。

「ほら、ローも。食わせてやるから貸せ」

「だめ、風邪移るだろ。お前が先に半分食って」

「…分ける用の茶碗あるけど、」

「いいじゃん、こんなのんびりするの久しぶりだし…。ほら、あーんってしろって」

「…甘やかしたがり」

「お前もな、おまけに甘えたがりだ」

いつもこうだと、トラファルガーは内心で憤慨した。双子なのに、兄だからといって自分を小さな子供のように扱いたがる。ぼやっとしていて危なっかしいのはローの方なのに、といつも不服を覚えている。けれど、甘えたがりはどっちだと反論したところで、澄ました顔で「お前だよ」と言われるのは目に見えていた。
ぶすりとしたまま、それでも素直にひとくち、またひとくちと差し出される匙に口を付けるトラファルガーを、ローはかわいくてたまらないと言いたげな眼差しで見守っている。退かない熱を帯びて潤んだ瞳が、遅い朝の光に透かされ水面のように揺らいでいた。

「ん…食べた、交代」

「もうちょっと食って、俺こんなに入らねえかも」

「だめだ、食えるよ……案外うまいし」

「やっぱ気に入ったんだ?あいつの飯」

「案外だって…!腹減ってたし…ローもだろ!」

トラファルガーよりも随分と時間をかけてようやっと半分の雑炊を食べ終え、水と薬を飲んだローは、またうとうとと眠りの淵を漂っている。うっすら汗ばんだ額をタオルで拭ってやり、鼻先まで掛け布団を引っ張り上げた。軽くてふかふかの上等の羽布団に包まれ、透けるような肌を少し上気させ、白いシーツに揃いの色の耳をくったりと投げ出して眠る双子の兄は、欲目を差し引いても大層かわいらしいと思っている。頑固にこびりつく隈まで揃いの同じ顔なのに、自分とは似ても似つかないと、心の底ではそう思っていた。

「…ちゃんと守るから」

お前は俺が守るよ、と何度も言われてきたローの言葉が、本当は少しだけ嫌いだ。
誰がなんと言おうと、ロー自身すらなんと言おうと、世界で一番半身を愛しているのは自分なのだと知って欲しかった。





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