「とりあえず解熱剤入れといた。多分、冷えて風邪こじらせたんだろうけど……医者はまずいか、やっぱり」
「……診せないと、ロー…死んじまうのか…?」
「…熱下がってくれれば大丈夫だと思うけどな…今晩は俺がずっと見てるから、あっちの部屋で休んでろ。お前だって疲れてるんだろ?」
「疲れてねえよ!俺も看病…、」
「お前までぶっ倒れたらさすがに面倒見きれねえぞ。分かったら寝ろ、って、あー…その前に風呂だな」
タオルでおざなりに水気を拭っただけの髪と、耳、を目に留めて、キッドはバスルームを指して促す。
耳。そうだこの耳、これが問題だった。病院に連れて行けないのも、ひとえにこの耳が。
うさぎのような、としか形容できない。暗がりで倒れていた方の男の頭に見た奇妙な白いものは、やはり錯覚などではなかったのだ。五度ほど瞬き、目も擦り、頭をひとつ振り、「……コンパニオンのお仕事でも?」と聞いたキッドを誰が責められただろう。そして、まだ常識の範囲内であったその質問に、まるで意味が分からないといわんばかりに首を傾げた男にも、フードを取り払ったら全く同じ形状のものが付いていたのだ。ご丁寧にもこちらは黒というバリエーションで。乾いた笑いを漏らしたキッドが、無造作に二人の頭の付属物をむしり取ろうとしたのは言わずもがなである。なにが楽しくて男にこんなオプションなど。
そして結果はといえば、見ての通りだ。取れなかった。ビクともしなかった。痛がった男に思いきり引っぱたかれ、罵倒されただけだった。ひょこひょこと揺れる二本の耳を掴んだ掌には、なめらかな毛並みの感触とあたたかな体温だけが残っている。
「……なんも聞かねえのか」
「ん?」
「だからこの、耳…とか」
「尻尾とか?」
「…っ、なんで尻尾まで、」
「こいつ着替えさせたの俺だろ」
それに到底ものを食べさせられる状態ではなかったせいで、使った解熱剤は座薬だったのだが、それは言わない方が懸命だろうとキッドは口を噤んだ。
エレベーターを待つ間に気付いたのだが、二人はまるきり同じ顔をしていた。ローと呼ばれていた行き倒れの男は眠ったままだったが、閉じた瞼など問題にならないほど、二人はそっくりだった。違うのは肌と耳の色くらいなものだ。双子か、と聞いたキッドに、黒い毛並みとシナモン色の肌を持つ男は無言で頷いた。キッドに抱えられた片割れの手を握り、泣くのを堪えるように唇を噛んでじっと俯いていた。
「……助けてくれたことには礼をいう。見捨てられてたら…ローは、死んでたかも……、感謝してるけど、でも…ほんと悪いけど、今は説明できねえんだ…。ローも寝てるし…あんたのこと、どこまで信用していいのかわかんねえ」
「…心配すんな。なりゆきっつうか、まぁ…さすがにこの雨の中叩き出したりはしねえよ。問題さえ起こさなきゃこいつの具合良くなるまでは居ていいから、先のことはまた明日考えろ。な?」
だからほら早く風呂行けよ、と肩を押した手からするりと逃れ、ベッドの側まで行くとその場で膝を抱えてしまう。ピィンと立った黒い耳が、隠しきれない警戒を示すようにキッドの方を向いていた。
「…いい、今日は入らねえ」
「あのな…心配なのは分かるけど、お前が体壊したら元も子もねえだろ。あとはもう、ゆっくり寝かせるしかできねえんだから」
「……知らないとこでローの傍を離れるの、嫌なんだ」
俺が守らねえと。
小さな呟きは決意と心細さに張り詰めていて、キッドはどうにも居心地が悪くてしかたなかった。無理矢理に引き離せば泣き出してしまうんじゃないかという気がした。事実、ぎゅっと眉間に皺を寄せて睨むようにキッドを見ている男は、その表情の硬さとは裏腹に瞳をもろく潤ませている。
深い溜息をついて天井を仰ぐキッドの一挙一動にも、産毛の一本一本まで逆立てているのではないかと思わせた。
「よし、一緒に入るか」
「…は…?え?」
「見ず知らずの人間に預けとくの不安なんだろ?だったらほら、お前の方についてるから」
「そう、いう問題じゃ…!つかなんでそうなるんだよ!」
「服なら貸してやるから」
「ちょ…っと、待てよなにすんだ!」
首をがっちりとホールドされては抵抗もままならず、喚きながらも半ば引きずられるようにしてバスルームに連れ込まれた男は、脱衣所を素通りしてたっぷりと湯の張られたバスタブを前にしたキッドに、さすがに言葉をなくして目を見張った。「どうせもうずぶ濡れてんだろ」と首根っこを掴んだのは半分冗談ではあったのだが、ぶわっと毛が逆立って太くなった耳と、後ずさろうともがく必死さは、到底それをお遊びとは受け取らなかったようだ。
「ゃ…、離…!」
「え、なに、もしかして水怖ぇのか?」
「こわ…くねえよ!」
「じゃあほら、」
「いっ…いきなり入れんなよ馬鹿!自分で入る!入るから…!」
慌てた様子で湿ったパーカーやデニムを脱ぎ捨て、威嚇するように投げつけられた。さすがに躊躇なく裸になるとは思っていなかったキッドは面食らったが、当の本人はそれどころではないらしく、ぎゅっと一瞬目を瞑って覚悟を決めると、足先からそろそろと沈めている。今更、シャワーを浴びてから浸かれ、とも言いにくい雰囲気だった。
縁に掴まって身体を支えながらようやく腰を落ち着けた男は、せっかくのあたたかな湯の中でぎゅっと身体を丸めて膝を抱え、不貞腐れたようにキッドを睨んだ。「…放り込まれるかと思った」と呟く唇が湯に触れ、ぷくぷくと泡を吐いて声を揺らす。
「風呂苦手なの?」
「…不潔な言い方すんな。シャワーは全っ然平気なんだからな」
「それじゃあったまらねえだろ」
「……足滑ったら溺れそうだろ…。ここは狭いからどうってことねえけど、前いたとこは…でかくて…嫌いだった」
「狭くて悪かったな」
質問を差し挟む余地はおおいにあったが、前いたとこ、とたったそれだけを紡ぐのにひどく苦痛そうな顔をされて、なんとなく聞くのが躊躇われた。ぱしゃん、と微かなはずの水音が嫌に反響して聞こえる。じっと見下ろしているキッドに居たたまれなくなったのか、男が苛立ったような声を上げた。
「…なに突っ立ってんだよ。あとは自分でやるから出てけよ」
「いや、その耳洗うとこちょっと見てみてえんだけど。こう、引っ張って下ろすんだろ?」
「アホか!出てけ!」
「じゃあちょっと、ロー…だっけか?様子見てくるから、」
「だっ…ダメだ!勝手にローに近寄るな!!そこいろ!」
「どっちだよ」
「…うるさい!そこの、脱ぐとこで待ってろ!」
どこにもいくなよ!と妙な可愛げを含んだ言いつけを寄越し、キッドを追い出して間もなくシャワーの音が聞こえだす。もっとゆっくり浸かっていればいいものを。どうもバスタブは苦手らしいことと、一人残している片割れへの心配が気を急かせているのだろうか。
シャンプーのボトルが触れ合う気配、ザァァアと流れる単調なシャワーの水音は、キッドに忘れかけていた泥のような疲労を思い出させる。少し冷える夜にはなおさら、ぬくもりを感じさせる音でもあった。壁を背に律儀に座っているうちに、うとうとと眠ってしまいそうだった。なにか話していれば、少しはましかもしれない。手持ち無沙汰もあいまって、ふと聞きそびれていたことに思い至る。
「なぁ、お前さぁ、名前なんていうの」
身体でも洗っているのだろう、水音は止んでいる。聞き逃したわけでもあるまいに、返ってきたのはしばらくの沈黙だった。
「教えてくれてもいいだろ、そんくらい」
「……ロー」
「あ?じゃなくて、お前の、」
「…だから、ロー…。…トラファルガー・ローだ、どっちも」
「どっちも?なんでだよ」
「なんで…って、言われても…」
「呼ぶとき不便だろ、お前らどうしてんだよ」
「…不便じゃねえよ。お互いローって呼んでるし…」
「へぇ…まぁいいけど、じゃあとりあえずお前のことトラファルガーって呼ぶな、あっちはローで」
「……トラ、ファルガー…」
「ダメか?」
「………」
「トラファルガー?」
ガチャリと扉が開いて、髪からぽたぽたと雫を垂らした男が、なんともいえない顔でキッドを見下ろしていた。
「…別に、いいけど」
なにを堪えて、呑みこんだのだろうか。
ぽつんと転がった呟きは、ひどく頼りないものに聞こえた。
「そういや、さっきのローのときも思ったんだけどな…」
「なんだよ」
「…お前ら、パンツは?」
「パンツ?」
「下着、中、なんで穿いてねえの」
キッドの手の中には、濃く色を変えた黄色いパーカーと、斑模様のデニム、それしかない。あるべきものがないことに、バスルームや脱衣所の床を見回したが、落ちているわけでもなく。
「…あれ嫌いだ。窮屈だ」
「窮屈だじゃねえよ、穿けよ」
「尻尾挟まるから嫌いだ」
「あー…尻尾……あー…そりゃあ、なんつうか」
お気の毒に、としか返せなかった。
よく見ればデニムもずいぶんなローライズだ。濡れてしぼんでしまっている黒い尻尾をタオルドライし終えたトラファルガーは、この話は終わりだといわんばかりに使用済みのバスタオルをキッドの腕に押し付け、出してやった着替えに手を伸ばす。新品の下着を脇に避け、長袖のTシャツを被ったトラファルガーがまだ完全に腕を通し終わらない隙に、「いいから聞け」と伸びる両耳をまとめて掴み強引に上向かせる。
「…まぁ言い分もあるだろうけど、とりあえず下着は着けろ」
「いやだ」
「なんでノーパン野郎に服貸さなきゃならねえんだよ。しかも二人も」
「……いやなもんはいやだ」
「…あのな、トラファルガー」
「い、や、だ」
小憎たらしい口調にひくりと口元を歪ませたキッドを気にも留めず、トラファルガーは大急ぎで引っ掛かったシャツを下ろして耳を引き抜くと、まだ身に着けていないボトムだけを掴んでスタスタと寝室の方へ歩いていってしまった。ローの隣で夜を明かすつもりなのだろう。
脱衣所にぽつんと残された下着を指先に引っ掛け、もう何度目になるか分からない溜息を肺の底から搾り出して、キッドはその背を追った。
「んなこと言ってると大変なことになるのはお前だぞ」
「ならねえ。俺もローもパンツなんか大嫌いだ」
「じゃあ今日を境になるかもな。別に言うつもりなかったけど、」
わざともったいぶった物言いに怪訝そうに振り返ったトラファルガーの顎を掬い、にこりと笑いかける。胡散臭いとでも言いたげに顔をしかめたその鼻先に、ちゅ、と唇を落とした。
「俺、男もいけるクチだから」
強張った耳の付け根を掻いてやり、まぁるく見開かれた瞳を覗き込んで、一言一言、言い聞かせるように。
「だからパンツ、穿こうな?」
丈の余ったシャツの裾から探り出した生乾きの尾を掴むと、トラファルガーが声も無く硬直するのが分かった。
口角を吊り上げ、自分でも人が悪いと自覚している笑みを浮かべて、わななく唇すれすれに囁く。
「いうこと聞いていい子にしねえと、取って食っちまうぞ」
一分後、盛大な音を立てて閉じられた寝室の扉と、ガチャガチャと騒々しく掛けられた鍵は、その晩キッドが何度ノックして声を掛けようとも、翌朝まで一度も開けられることはなかった。
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