(キッドさんとはらぺこ狼)



午前中には整然として、太陽の恵みを享受していたはずの草地が踏み荒らされていた。
初夏の森、油を塗ったように鮮やかに光る木の葉、低木のそこかしこに下がった小さな実。森の小道から少し先に見えるログハウスまで、土一面に施された奇妙な落書きや、その辺から毟ったのだろう葉やら小枝が点々と落ちているのを目にして、キッドのこめかみに筋が浮く。こんな当て付けがましい自己主張をする輩の心当たりはたったひとつだ。買い出した食糧のたっぷり詰まった重いバスケットを抱え直し、さてなんと怒鳴りつけてやろうと考える。その一方で、のんきにも今晩の食事のメニューに頭を悩ませている自分を自覚して、眉間の皺がまた少し深くなった。歩調は自然と早まっていく。早く帰ってやらなければ。腹を空かして、暇を持て余して、ろくでもないことをしでかす前に。


ベッドの上にはこんもりと盛り上がった毛布が乗っていて、規則正しく上下に動いていた。
予想と寸分たがわぬその光景に、キッドは呆れた溜息をひとつ吐くと、丸くなっているそれを揺さぶりにかかった。

「おい、トラファルガー!起きろこのクソ狼!」

「……ん、」

「おいってば、」

「……だって、もう…食えね…し…」

「寝ぼけてんじゃねえぞ…」

業を煮やして毛布を引き剥がすと、あろうことか何も身に着けていない下肢に言葉を失った。眠りを妨げられた当人は迷惑げに眉を顰め、むずかるような声を上げて小さく身体を丸めている。剥き出しの太腿が擦り合わさって尻尾が巻きつく様に、結局目のやり場に困ってせっかく奪った毛布を掛け直してやるしかなかった。
戻ってきた快適な寝床でぐぅっと身体を伸ばし、まだ少し夢の名残を引きずっている瞳がキッドに向けられる。

「ユースタス屋…?おはよ」

「もう夕方だ。…ったく、そんなんだから夜寝れなくなるんだよ」

「俺が寝不足なのは誰のせいだと思ってるんだ…」

「…だったら巣に帰って好きなだけ寝りゃあいいだろ」

「寂しいくせに」

「アホか、清々するに決まってる」

「なんだよ、冷てえの…」

くぁ、と億劫そうに欠伸をひとつして、ベッドから身を乗り出し、床に落ちている服を取ろうと指先がもがく。だらしなく丸まったまま脱ぎ捨てられたそれを拾ってやり、のそのそとベッドから起き上がるのを見届けて、キッドは帰ってきたまま開け放してあったドアへと踵を返した。

「赤ずきんちゃん、どこ行くの?」

「その呼び方やめろ!…裏から野菜とって来るだけだ、どうせうちで飯食うんだろ」

いつものことだと言外に滲む程度には、ローの訪問は日常と化している。
いってらっしゃい、と機嫌よく手を振るローに、「戻るまでに下穿いとけよ」と念を押すのも忘れなかった。キッドを困らせることを生き甲斐にしている節のあるこの狼は、キッドが呆れて説教を始めるか、頭が痛いと眉間を指で揉みほぐすところを見ると、どことなく嬉しそうな顔をする構われたがりでもあった。




空腹に苛まされたやせっぽちの狼が、初めてキッドの元にやってきたのは、もう一年も前の話だ。
草木も寝静まった夜の帳をかきわけて現れた侵入者を、最初は物盗りか何かだと思ったのだ。キッド自身まどろみの淵をさまよっていたが、中の様子を窺うように入り口でしばし逡巡していた気配に気付いたのは僥倖だった。タイミングを見計らって引き倒した身体が思いのほか軽々と吹き飛んで、その呆気なさに驚いたことを覚えている。
キッドがすっかり寝ていると思ったのだろう。床に叩き付けられ、つかのま状況が掴めず呆然としている者が人間でないことに、そこで初めて気付いた。「…狼?」ぱさついた毛並みの尾を引っ張ると、我に返った狼はキッドの下から逃げ出そうと暴れ始める。薄い唇から覗く牙に、猛獣を前にした緊張が走り、開放してなるものかと骨が軋むほど強く押さえつけた。
しかし攻防は数分と持たなかった。押し返してくる力があまりに弱々しく、キッドは「こいつは実は逃げる気がないんじゃないか」と訝ったほどだ。苦痛の滲む呻きを漏らし息を切らす狼が、まだ若くすいぶんと整った姿形をしているのに気付いて、それを組み敷いている状況になんとなく妙な気分になった。眼前にあるかさついた唇を舐めてみると、面白いほどに硬直するのがありありと伝わってくる。からかっただけだと自分に言い訳をしていたはずなのに、急に体温が生々しく感じられた。

「こんな夜更けに何しに来た?」

「……っ、」

「この森に狼が出るなんて知らなかったけどな。ここにお前の興味引くようなもんなんか…」

そこでふと、掴んだ手首の細さに今更ながらに気付いた。拘束した掌にごつごつと骨の当たるような、薄っぺらい身体だ。「…もしかして、腹減ってんのか?」ひ弱いのではなく、満足な抵抗もできないほど衰弱しているのではないかと思い至って眉間に皺を寄せたキッドをどう思ったのか、悔しそうに目尻に涙を浮かべた狼は、それでも気丈に喉の奥で低い唸り声を上げた。
まさか俺を食いにきたわけではあるまい、と些か笑えない想像をして少しだけためらったが、往生際悪く抵抗を続けている狼の、そのマッチ棒のごとくペキンとへし折ってしまえそうな骨の感触に溜息をついた。

「ちょっと待ってろ」

あっさりと手を離したキッドを虚をつかれた表情で見ている獣に、そこ座ってろ、と椅子を示す。背もたれに引っ掛けてあった黒いエプロンを身に付け、ログハウスの裏手にある貯蔵庫からパンや肉の塊を抱えて戻れば、狼はまだちゃんと部屋の中にいた。ずっと呆けていたのか、床にへたり込んだままだ。逃げてしまうかもしれないと思っていたキッドは、驚きと、幾許かの安心と、動けないほど弱っているのではないかという心配を一緒くたに抱えながら、かまどに薪を放り込んでその上にフライパンを乗せた。
手早く焼き上げた厚切りの肉とパン、野菜や豆を煮込んだスープの残りをテーブルに並べると、狼はいよいよ不審をあらわにした目でキッドを見上げた。

「ほら、こっち来いよ」

「……」

「別に何もしねえよ。いいから食えって」

「……」

一向に動こうとしない狼に焦れ、パン二切れで肉を挟んで口元に押し付けた。むぐ、と嫌がるように呻くだけで開けようとしない唇に半ば無理やりねじ込んでやると、息苦しそうに顔を顰め、困惑しきった瞳が向けられる。火薬の塊でも押し込まれたと思っているかのような、疑わしげな視線に苦笑した。それでも口の中を満たす肉汁の魅力に勝てなかったのか、おそるおそるといったふうに手の中の即席サンドウィッチに牙が立てられた。
ほんのひとくち、過剰な警戒も堤防が崩されてしまえばあとはあっという間だ。
両手と口の周りをべたべたに汚しながら夢中でむさぼる姿を、どこか微笑ましいと思ってしまったのが、そもそもの敗因だったのかもしれない。キッドは他人に食事を作ってやることが好きだったし、それを食べた相手の喜ぶ顔を見るのはもっと好きだった。そういう性分なのだろうと諦めている。
脂まみれの手と口の周りを満足そうに舐めている狼に「うまかっただろ」と訊ねれば、返事の代わりにぼさぼさの尻尾がパタンと振られた。
その日以来、幾度となく訪ねてきては図々しく食事をねだるローとの奇妙な付き合いが始まった。

「森出たとこに…あー…その、レストラン、あるんだけどな、それ俺の店なんだ」

「赤ずきんちゃん」

「…知ってんのかよ」

「いい匂いするから、近くまで行ったことある。あんたの店とは知らなかったけど」

『LITTLE RED RIDING HOOD』、料理好きが高じて店を開いたキッドが看板に記す名を決めかねていたとき、友人であるボニーが悪ふざけで提案したそれが思いのほか周囲に受け、そのまま定着してしまった不本意なものだった。初めて来る客は『赤ずきんちゃん』という可愛らしい名と、トレードマークの赤毛、そしておよそ似つかわしくない強面の男に、笑いと困惑をミキサーに掛けて一息に飲み干し、噎せて噴出しそうになるのを懸命に堪えるのが通過儀礼なのだ。誰も、かれもが。そのたびキッドのこめかみに血管が浮き上がり、心の中で散々にボニーを罵倒するのは言うまでもない。

「イメージ違ぇなぁ…あの店からあんたみたいなのが出てくるとこって」

「よく言われる。むしろそれしか言われねえ」

「若い女かと思ってた。ちっちゃくて、やわらかくて、血色良くて、食べ頃に肉付いてる感じの」

「……おい」

「冗談だよ。なぁ、飯まだ?腹減った」

ローは歩くときに左足を少し引きずっていた。「昔、人間に撃たれたんだ」と何でもないように笑っていたが、筋ばった足首に残る銃創はひどく痛々しいものだった。そのせいで狩りが上手くないのだと聞いて、実りのそう悪くない森にいて尚、あんなにも腹を空かせていたのかと納得した。




「…キッド……、キッド!」

少し掠れた声が何度も自分を呼んでいるのにはっと気付く。
ぼんやりとローのことを考えていたキッドは、キッチンで布巾とすっかり水気を拭い終えた皿を持ったまま立ち尽くしていて、呆れたようにそれを眺めているキラーが声を掛けなければ、延々と一枚の皿を拭き続けていただろう。

「どうした、ぼぅっとして」

「…なんでもねえ。つかなに起きてんだよ、寝てろ、病み上がりのくせに」

「熱はもう下がったし、これ以上眠れそうにない。水を一杯もらえるか」

「ああ…」

少し気だるそうな様子のキラーは、一週間前にひどく夏風邪を拗らせたばかりだ。知らせを持ってきたボニーが珍しく深刻そうな顔をしていて、店を閉めた後で立ち寄ってみれば、予想以上の高熱にうなされる幼馴染に仰天した。医者を呼び、キッド自身もそのままここに泊まりこんで数日、キラーがようやく起き上がれるようになってから更に一日半、気付けばもう丸一週間も自宅にも店にも戻っていなかった。
キラーの家は、レストランを挟んでキッドの自宅とは反対方向にある。まさかこんなに長期にわたって留守にするとは思っていなかったため、ローに何も言っていないことが気掛かりだった。
この一週間、ローはいつものように通ってきていたのだろうか。一言も告げず家を空けていることをどう思ったか。もしかしたら店まで探しにきて、CLOSEDのままのプレートにがっかりしているかもしれない。キラーに付き添っている間は極力考えないようにしていたことが、快復に気が緩んだのか、次々と湧き上がっては頭を占領して離れない。ローひとりが数日食べられるくらいの食料はあったから、腹を空かしてどうしようもなくなることだけはないだろう。狩りが下手でも森には他に実りもあった。事実、キッドに出会うまでは自力で食い繋いでいたのだから。

「…キッド?本当にどうした」

「え?あ…悪い、水」

「それにしてもすまないな、こんなに店を休ませてしまって。俺はもう大丈夫だから、明日にでも向こうに戻れ」

「そうか…まぁこんだけ動けりゃ平気か。とりあえずもう一晩泊まる。ぶり返されたら堪ったもんじゃねえしな」

「そこまでやわじゃない」

「言ってろ。相当やばそうだったぞお前」

そうしていざ自宅に戻ってみれば、そこにローの姿はなく、それどころか備蓄されていた食糧がまるで手付かずのまま、涼しい貯蔵庫の中とはいえ傷み始めているものさえあった。
皺の寄ったシーツからかろうじて使ったことが窺えるベッドは、しかし触れてみても温もりは感じない。何時間でもここに入り浸って勝手に昼寝をしていたくせに、こういうときに限って尻尾の先さえ見当たらないローに、いくらかの苛立ちと圧倒的な心配が胸を占めた。

夏の盛りでも森の中は街より幾分か過ごしやすいが、木々の間から射す日差しはそれなりに強い。むっと香る草いきれにうんざりした気分を煽られる。やや日陰になったグーズベリーの茂みでは、丸い実が食べ頃に実っていた。もうすこし経てば、この酸味の強い実から作るジャムを店に出す時期がやってくる。ボニーの大好物でもあるそのジャムは、分厚く切ったパンにバターとともに塗りたくられ、その年最初の一瓶はいつも彼女の胃袋に消えてしまうのも、もう決まりごとだった。
グーズベリーのジャムをきっとローは食べたことがないだろう。今年の初物はあいつのために作ってやろうと、そんなことを考えてこっそり微笑んだところで、十メートルほど先の茂みがやや乱れて地面に程近い部分が狭いトンネルのように掻き分けられているのに気付いた。

「…抜け道?」

キッドには少し狭すぎるかもしれない。けれど、ローくらいの体格なら。
なんとなくぴんとくるものがあってログハウスに引き返すと、固焼きのパンやいくつかの果物を小さなバスケットに詰め込んだ。ローがここに通い始めて三月ほどが経つが、その実キッドはローがどこに住んでいるのかを知らない。いつもふらっとやってきては食事をねだり、時にはベッドを占領して気持ち良さそうに惰眠をむさぼるあの気ままな狼は、そう言えばあまり自分のことを話さなかった。
もしかして、ローはいつもここから出入りしているのではないか。
グーズベリーの枝には鋭い棘がたくさん生えている。小さすぎるトンネルをくぐることは端から諦め、顔も手足も引っかき傷だらけになりながら濃い緑の葉と丸い実の群れを掻き分けて、どうにか茂みを抜けることができた。直線距離にすれば目と鼻の先なのに、あまり来たことのないこちら側はキッドにとって馴染みがない。どちらに行けばいいものか、と辺りを見回すと、樹齢を重ねていそうな大木が目に付いた。
特に当てもないキッドは自然そちらへと足を向け、その根元に、まるで地下室に続くようにぽっかりと開いた洞を見つける。途中で曲がっているのか、奥を見通すことはできない。さて、どうするべきか。熊でも住んでたら俺詰むかもなぁ、と思いながら、「トラファルガー?」と掛けた声は壁に反射してくゎんと響いた。しかし期待していた返答はない。しばし逡巡したが、思い切ってひんやりと涼しい地下へと足を踏み入れる。少し低い天井を首を縮めてやり過ごし、ゆるい斜面を下ると、いくらもしないうちに開けた部屋へと辿り着いた。
隅の方で丸くなっているローを見つけ、ほっと安堵する。伏せられた耳と垂れた尻尾、規則正しい寝息はいつもキッドのベッドを横取りしているままで、一週間ぶりのその姿をひどく懐かしくさえ感じた。
急に押しかけて起こすのは悪い気がしたが、そっと耳の付け根を撫でると、ローの瞼が震えてゆっくりと持ち上がる。

「……」

「…よぉ、久しぶり」

「ユ…スタス屋?……なんで、ここ…」

「心配になったから探してたんだ。…なんで食いもんあったのに手付かずなんだよ」

「……お前が、いねえから」

「勝手に食ってよかったのに。今更なにを遠慮してんだ」

「……」

「飯どうしてたんだよ」

「…適当に」

少し寝ぼけているのか、それとも機嫌が悪いのか、いつもに比べてローはどこか歯切れが悪かった。「黙って留守にして悪いな」と頭を撫でても、小さくかぶりを振っただけで何も言わない。
どうにも続かない会話に少し困り、居心地の悪さを誤魔化すように持参したバスケットを引き寄せる。砕いたナッツをふんだんに練りこんだパンはローの好物だったはずだが、尻尾は垂らされたままいつものように振られることもなく、ぼんやりとキッドの顔を見ているだけだった。小さく千切った欠片をいつかのように口元に押し付けてやれば、薄く開いた唇が素直にそれを銜えてゆっくりと咀嚼する。雛鳥のような仕草に思わず口元が緩んだが、もうひと欠片を毟ろうとしたキッドの手は押し留められた。

「…ユースタス屋」

ふっと視界が翳り、唇の端を何かが掠めた。
ローの顔がとても近くにある。鼻先同士がぶつかって、伏せられた青い眼が瞬く。棘に掻かれた頬の傷を濡れた舌がなぞっていく。ユースタス屋、と囁くように小さな声がして、唇をあたたかな吐息が湿らせた。

「トラファルガー…?」

「お前に、礼とかしたことなかったなって」

「……礼?」

「なんだっけ…『代金』か。飯食わせてもらう代わりに払うんだろ、人間は」

「…おい、」

「最初のとき俺にキスしたじゃん。金とか持ってねえけど、今度は抵抗しねえから好きにしろよ。代金だと思ってくれれば、」

聞き終わらないうちに、ほとんど反射的に目の前の身体を突き飛ばしていた。首に絡みついていた腕が無理やり引き剥がされ、皮膚を掠めた爪が鋭く細い痛みを残す。鈍い音を立てて尻餅をついたローが、唖然とした顔でこちらを見上げている。腹立たしい、と思った。悔しい、とも。

「そんなつもりで世話してやったわけじゃねえ!!」

ビリ、と空気を震わせる怒号に、反射的にローの耳が伏せられる。伸ばされかけた腕を荒っぽく払いのけると、その手酷さに怯えるようにくるりと尻尾が巻き込まれた。「…ユー、スタス屋」かぼそい声が宙に溶けてしまえば、あとには耳の痛むような沈黙ばかりだ。
突き放した拍子に弾いたバスケットから、鮮やかな色のオレンジがころころと転がっていくのが視界の端に映った。張り詰めたこの場にそぐわない甘くみずみずしい匂いが鼻腔に届き、いっそそれがしらじらしく思えて、キッドの頭からすぅっと血が下がっていく。残ったのは熾火のように燻る怒りと、圧倒的なやるせなさだけだった。
「帰る」ひとこと吐き捨てて、ローの顔を見ずに立ち上がった。掛ける言葉が思いつかなかった。質の悪い冗談だと、笑い飛ばしてやることのできない自分にも動揺していた。
けれど踵を返そうとすると同時に、服の裾を掴まれた。

「…ごめん」

「……」

「ごめん、ユースタス屋……怒らせるつもりじゃなかった」

「…本気で言ったんなら尚更悪いぞ」

「……ごめん、でも、」

続く言葉を待っていたけれど、それきり、深い深い溜息をついてローは黙ってしまった。それでも服を握る手は離されない。いつも勝手にふらっとやってきて勝手にいなくなるくせに、執着心なんてものとは無縁そうだったローから伝わってくる必死さに、キッドは戸惑いを隠せないままもう一度しゃがみこんで視線を合わせた。

「…俺は、作ってやったもんをうまそうに食ってるお前を見るのが好きなだけだ。見返りとか、そんなもん要求するつもりねえよ」

「…うん、分かってるけど…他にできることねえから」

全然分かってねえ、と苛立ったキッドに気付いたのか、「だって…俺だってあれこれ悩んだんだ」と慌てたような弁解が寄越される。また怒り出すのではないかと恐れているのは明白で、言葉を選びあぐねている様子を見て、キッドは自分に落ち着けと言い聞かせた。怯えさせたいわけではなく、ただ真意を量りたかっただけなのだ。

「…もうここには戻ってこねえかもって思った」

「そんなわけねえだろ。店だってあるのに」

「行ってみたけどずっと閉まってた。いくら待っても全然帰ってこねえから」

「それは…悪かったって。でもお前に一言もなしにここ出てくなんてことはねえよ」

「分かんねえだろ…。お前は迷惑だとか言わなかったけど、付け込んで甘えてた自覚は…あったし…」

「なんだよ、さみしかったのか?」

「……」

からかったつもりなのに、否定も肯定もせず、ローはただ悲しそうな顔をした。
縋りつくように服を握ったままの指にまた少し力がこもる。逸らされることのない眼がきゅう、と眇められ、泣き出す寸前にも見えるその表情に心臓が跳ねた。

「…どうしよう、ユースタス屋」

「…なにが」

「俺、お前がいないと駄目になったかも」

このときの、わずかに震える声のトーンを、キッドは今でもよく覚えている。

「…今まで何があったって、ひとりでなんとかやってけるって思ってたんだ」

「…俺のせいか?」

「それ以外に何があるんだよ」

「そう、か」

「……」

「…謝った方がいいか?」

「…ふざけんな、悪いとも思ってねえくせに…バカスタス」

「ん、じゃあ撫でてやるから、」

「…じゃあってなんだよ」

「機嫌直せって」

尖ったやわらかい耳の先端に触れる瞬間、必ずぴくんと震えて逃げるのを見るのが好きだった。
髪が乱されるのに文句も言わず、しばらくの間黙ってキッドの掌を受けていたローは、やがてひどく自信なさげに口を開いた。

「…なんでいつもやさしくしてくれんの」

「別に…お前が食ってるとこ見るの好きだから」

「…わかんねえよ、そんな理由じゃ」

「俺だってよく分かってねえよ。ただ、」

「…なに」

「…心配だから」

手探りで拾ったその答えは、口に出した瞬間に不思議なほどしっくりと胸の中に落ちてきた。「お前のこと心配だから」もう一度、噛んで含めるように言い聞かせると、ローはぱっと俯いて強く唇を噛み締めた。なんだか腹を立てているように見えて「むかついたか?」と訊ねれば、答えに困ったような素振りを見せたが、ふるふるとかぶりを振って否定を示された。

「…もう一つ、聞いていいか」

「なんだよ」

「…俺のこと抱きてえって思う?」

「…だから、飯の代金とかそういう話だったら、」

「そうじゃなくて」

そろりと身を寄せてきたローを、つかのま逡巡したが、結局キッドは拒まなかった。
頬と頬が擦りあわされて、ローの柔らかい猫っ毛が耳元をくすぐった。触れあう直前でためらった唇が、小さな音を立てて鼻先に落とされる。キッドの反応を窺う青い瞳がかすかに揺れている。「怒らねえの?」と「怒らないで」が半分ずつ混ざっていて、まるで叱られたばかりの子供そのものだった。いつものふてぶてしさを忘れてしまったかのようなローがおかしくて、無性にかわいいとも思った。
鼻筋と頬にキスを繰り返して離れようとする後頭部に手を添えて引き止め、一度だけ重ね合わせた唇は、確かにキッド自身の意思を伴うものだった。

「…ユースタス屋、俺が要求できる筋でもねえけど」

「ん?」

「…迷惑だったら言って欲しいし、できればいなくなるときはちゃんと教えて欲しい。……でないと、あのときああしとけばよかったとか、置いてかれたとか…そういう女々しいこと考える自分が嫌だ」

「こんなこと言ってやるのは最初で最後だからな」と不貞腐れたように呟いたとおり、こんなにも弱りきって、言い方を変えればずいぶんと可愛げのあるローを見られたのはこのときだけだった。
ローに抱いているのがただの庇護欲だと信じていられた、最後の日でもあった。
自分の身を対価にするような物言いに心底憤慨したくせに、いくらも経たないうちに結局手を出してしまったのだから、それ以来キッドは今ひとつ自制心というものに信頼を置けなくなってしまった。ぐったりと沈んでいる痩せた身体を眺めていると、なんだかとても非道な真似をしてしまったような気さえしてくる。ローは毛並みのもつれた尻尾の先でパタンパタンとベッドを叩きながら、涙が滲んで少し腫れぼったい瞼を何度も擦っていた。汗ばんだ、何も身に着けていない体が冷えたのか、肩が小さく震えたのに気付いてシーツを引っ張り上げてやる。思っていたよりずっと甘えたがりの狼がここぞとばかりに擦り寄ってくるのに苦笑して、肉付きの悪い身体を抱き寄せた。簡単に腕がまわってしまう頼りなさと、さんざん無体を強いたことに少し胸が痛んで、「ごめんな」と思わず謝ったら、なにを勘違いしたのか傷ついた顔をされてキッドはひどく慌てた。無言でシーツにもぐりこんでしまったローを必死で宥めて弁解する声が、夜露に濡れた夏の森にいつまでも響いていた。


それから一年が経った今も、ローは相変わらずキッドの元に通ってきている。
変化といえば、キラーやボニーたちとも面識ができたことだろうか。「狼!狼か!お似合いじゃねえの赤ずきんちゃん!」そう言って大口開けて笑い転げるボニーにこめかみを引き攣らせながら、「どこにも行かねえし、俺は終生ここに店を構えるつもりだから」とローの頭を撫でてやれば、照れたようにそっぽを向いて勝手にしろと言いたげな顔をしていたが、左右にゆらゆら揺れている尻尾が隠しきれない感情を表していた。




いくつかの食材を抱えて戻ると、まだ少し眠たそうにぼんやりしながらも、言いつけどおりきちんと服を身に着けたローの姿にほっとした。見慣れているくせに、と言われればそれまでだが、だからといってあんな格好でうろつかれれば落ち着かないことこの上ない。

「晩飯なに?」

「試作品、かな。今度店に出す予定のやつ、味見もかねて食ってみろ」

「…なんか野菜すげえいっぱいじゃねえ?肉メインがいい」

「絶対うまいから安心しろ。だいたいお前の好き嫌い聞いてたら食えるもんなくなるだろ」

「いいけど…ユースタス屋俺の嫌いなもんばっか入れるじゃねえか」

「なんだかんだで食えてるだろ」

「…なんだかんだでうまいから。あ、ドレーク屋がこの前のランチ褒めてた。あいつもどっちかって言うと肉好きだよな、でもユースタス屋の料理は文句の付け所がないって」

「…そういえばてめぇまた何か悪さしたんだろ。そのドレークがカンカンだったぞ、今度会ったら腹に石詰めて好き勝手動けないようにしてやるって」

基本的に暇を持て余しているローは、大抵森の中をぶらついて遊んでいるか、ベッドを占領して惰眠を貪っているか、すっかり意気投合したらしいボニーと組んで悪だくらみをしているかだ。ほとんどの場合、被害をこうむるのはキッドか、この辺りの警備を任されているドレークと相場が決まっていた。いわく、からかい甲斐があるのだと。

「ドレーク屋は俺にそんなひでえことしねえもん」

「どうだかな、あいつの堪忍袋にだって限界があるだろ」

「まさか。ユースタス屋じゃあるまいし」

「あ?…俺が何したってんだよ」

「だから、腹ん中いっぱいに詰めちまうんだろ。もう無理って泣いても許してくれねえしな」

にやにやと小馬鹿にしたような笑みに眉を顰めたが、たちまちその言葉の示す意味に気付いたキッドは、傾けていたグラスの水に盛大に噎せて咳き込んだ。

「うっわ…ユースタス屋なに考えてんだよ、顔真っ赤」

「…っ、てめえが妙なこと言うからだろ!」

「俺は飯のこと言ってんだけど。これ嫌いって言っても無理やり食わせるじゃん」

しらじらしいにも程がある。
「これとか、」わざとらしくにっこり笑って、フォークに刺したアスパラガスをキッドに押し付けてくる手を捻ってそのまま口にねじ込んでやった。ドレッシングで唇を汚しながら非難がましく睨みつけてくる視線を無視して、キッチンから持ってきたタオルで零した水を拭う。アスパラガスを咀嚼し終えたローが小さく、苦い、と呟いて、飲みかけのグラスを奪って干した。

「好き嫌い言わず食え。いつまでも不健康そうな面しやがって」

「肉食なのに」

「嘘つけ、甘いもんはばくばく食ってんだろ」

手を伸ばして尻尾を毛の流れと逆向きに撫でると、ローの首筋にうっすらと鳥肌が立つ。
「だいぶ毛艶良くなってきたな」と褒めてやれば、自慢げにふさふさのそれをキッドの掌に擦り付けてきた。以前はどちらかと言えばみすぼらしかったのに、狼というより上等な狐のような、みっしりと柔らかい毛の生え揃った黒の毛皮は、素人目に見ても美しいものだと思う。手間ひまかけて手入れしてやった成果だと思うとキッド自身も誇らしい気がした。

「悪さすんのもあんまり度が過ぎると、その毛皮引っぺがして売り払っちまうからな」

「ユースタス屋、豪遊できるじゃん」

「…なんでそんなに自信満々なんだお前は」

キッドが後片付けに勤しんでいる間、ローはベッドの上に這い上がり、窓から少し身を乗り出して、幾分涼しい夜の森を眺めるのがここしばらくの日課だった。
去年作ってやったジャムがよほど気に入ったのだろう。機嫌よく尻尾を揺らしているその視線の先では、今年もグーズベリーがみずみずしく実を膨らませている。暑い日が続いて土が乾いていると、ときどき水をやっているのも知っていた。収穫を心待ちにしている後姿がほほえましくて、洗い物をしながら自然に口元が緩んだ。
これから毎年、最初のジャムの一瓶はお前にやるから、と約束した言葉に、「なんかそれプロポーズみてえだ」と顔を真っ赤にしておかしそうにローが笑ったのも、ちょうど一年前の夏の夜だった。



グーズベリーの茂みの向こう


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