午前中まで晴れていたのに、昼を過ぎるや否や崩れ始めた天気はあっという間に大雨に変わった。
こんな日は外になんか出ないに限る。買い置きのスナック菓子とトラファルガーに借りた海外ドラマをボックスごと引っ張り出し、丸一日を引き篭もって過ごしてた。俺はこういうもんはまとめて見る派だからちょうどいい。あいつがやたら推してきただけあってすぐにのめり込み、ソファでじっとしてた身体が凝り固まって目が疲労の限界を訴えるまでぶっ通しだった。
バキバキ鳴る背骨を伸ばしながら時計を見るととっくに日付が変わってる。
いい加減寝ようかと思った矢先に、放り出してあった携帯がメールの着信を告げた。『まだ起きてるか?』とだけ書かれているそれはトラファルガーからで、返信をする前にドアが控えめにノックされた。
「…ユースタス屋」
小さいけど聞き慣れた声に、こんな夜中に何かあったのかと急いでドアを開ける。明かりが目を刺したんだろう、携帯を持ったままのトラファルガーが眩しそうに顔を顰めて立っていた。
何だか途方に暮れたような顔をしてて、ユースタス屋、と俺を呼ぶ唇が寒さのせいかすっかり色を失くしているのを見て慌てて中に引っ張り込んだ。
「…って、お前何やってんだよ!すぶ濡れじゃねえか!」
「しょうがねえだろ…すげえ雨降ってんだよ。なぁ、悪いんだけど一晩泊めてくれ。部屋の鍵失くしたみてえ」
「よりにもよってかよ……俺が寝てなくてよかったな、もう一時過ぎてるぞ」
「ほんと悪い…寝てたら漫喫でも入るつもりだったけど、まだ部屋の電気点いてたから」
「いいからとにかく風呂入ってこい。すげえ冷えてんだろ」
掴んだ手が氷みたいだった。どれだけ雨に打たれてたのかと思ったら、居酒屋で散々飲んだ後、電車に傘を置き忘れたとか言いやがる。「暑かったからちょうどいいかって」、そんなノリでこの大雨の中歩いて帰ってきたんだから、もうすっかり醒めてるみてえだけどその時点じゃ間違いなく酔ってたんだろう。おまけに鍵もねえって、何やってんだと思ったが今更しょうがねえ。
「服、適当に出しておくからな」
「うん、ありがとな。電気とかちゃんと消しとくから先寝てていいぞ」
「あー…なんか目冴えちまった。気にしなくていいからちゃんとあったまれ。腹とか減ってねえか?」
「平気だ、さっきまで飲んでたし。でもお前が食うなら食う」
「俺も微妙なんだよな…まぁいいや、風呂上がってから決めろ。酒入ってんなら長湯すんなよ」
上着まで水が絞れるくらい濡れてて、ここまできたら乾かしてどうこうってレベルじゃねえなと諦めて洗濯機に放り込んだ。
ところどころ濡れた床を軽く拭き、茶くらい淹れてやろうと湯を沸かしてる最中に風呂を終えたトラファルガーが出てきた。俺の服はやっぱりでかすぎて首元が大きく開いてる。下も腰周りが緩いのか、だらしなく裾を引きずっていた。なんとなく直視できなくて眼を逸らす。
「DVD、貸したやつか。面白かっただろ、それ」
「結構はまった、こういうの見始めると止まんねえんだよな」
濡れた髪を適当に拭いながら、トラファルガーはリモコンを弄って一時停止してた画面をまた再生し始めた。ボリュームを小さく落とし、ソファの端にもたれかかって少し眠たそうに瞬きを繰り返してる。
見慣れた部屋のはずなのに、深夜の静けさの中にトラファルガーの気配があるだけでなにやら落ち着かない気分になった。考えてみたらこいつがこんな遅くに部屋にいるのは初めてだ。隣なんだから日頃からいちいち泊まるわけもねえ。
喉が渇いたという催促にティーバッグを放り込んだマグを渡し、手持ち無沙汰もあって冷凍ピラフをレンジに放り込む。中途半端な時間で小腹も減っていた。
「お前も食うか?」
「何?」
「ピラフ。冷凍のだけど」
「んー…俺はいい」
そのくせ、皿を持ってソファに戻ると横からスプーンを奪われた。
「…いらねえって言ったくせに。食うならまだあるぞ」
「そんなにいらねえから一口寄越せ。冷凍のやつあんまり美味くねえもん」
「前は散々食ってた奴が何言ってやがんだ」
「ユースタス屋のせいで舌肥えた」
本当に一口だけ、さして美味くも不味くもなさそうに咀嚼して飲み込むと、トラファルガーは本格的に眠そうに欠伸をして膝を抱え込んだ。
テレビの画面の中ではまだ何やらおどけた遣り取りがされているが、到底見る気分じゃなくて黙々とピラフを腹に収め続ける。話しかけるでもなくぼんやりこっちを見ている瞳の青さから必死に意識を逸らそうとした。
妙な気分だった。何となく、泊めるんじゃなかったという後悔が頭の隅をよぎったが、じゃあこいつを雨の中放り出せたのかと聞かれたらそんなわけもなかった。
とにかくさっさと寝てしまおうと最後の一口を掻き込んだのを待っていたように「俺ソファ借りるから」と小さな声が呟く。
なら毛布持ってくる、と言いかけて違和感に気付いた。
「…お前、風呂でのぼせた?それともまだ酒残ってんのか?なんか顔赤いぞ」
「分かんねえ、酔ってる気はしねえけど…つうか俺はむしろ寒い」
「…熱出てねえか、これ」
額に触れるとじんわりと熱い。さっきから膝抱えて小さくなってると思ったら、どうにも寒気がしていたらしい。湯冷めしただけかと思った、なんて暢気にぼやくトラファルガーを有無を言わさずベッドに押し込む。本当にこいつは放っておくとろくなことにならねえ。
俺の機嫌が悪いのを察したのか、何やかんやとごねたがるこいつにしては大人しく従ってる。体調が悪くて気力がないだけかもしれないが。説教でもされると思ったんだろう、少しだけばつの悪そうな顔をしてたが、さっさと寝ろと促すと素直に頷いた。
「…雨の日って何かすげえ身体だるいんだよな…」
電気を消そうとした手が一瞬止まる。
少しでも昔の記憶に掠る話が出るといつもこの様だ。こいつに他意なんかないと分かっていても心臓が跳ねた。
「…そうだな、俺も昔から雨はダメだ。濡れるの全般苦手だな」
「マジでか、ペンギンとかに言っても全然分かってくれねえんだ。本気で身体が重いっつってんのに…」
「ならこんな遅くまで飲んでねえでさっさと帰れよ……あいつらには分かりようもねえだろ、俺たちとは違ぇんだから」
「…何がだ?」
「…別に。平気な奴には分かんねえだろってことだ」
少しの沈黙が流れ、ギシ、とベッドが軋む音がする。振り返ると、上半身だけ起こしたトラファルガーと視線がぶつかった。困惑とも好奇心ともつかないものが滲んだ表情は今までにも何度か見たことがある。そのたび、こいつの聞きたがっていることに薄々感づきながらも俺は知らない振りを決め込んでいた。
「ユースタス屋はたまに変なこと言うよな」
「気のせいだろ」
「じゃねえよ。何か俺のこと何でもかんでも知ってるみてえな口ぶりっつうか…実際結構当たってたりするしなぁ」
「お前が分かりやすいんだよ」
「そんなのユースタス屋以外に言われたことねえよ」
「………」
「最初の頃とか、こいつ実は知り合いだったっけって思ったくらいだし」
「…何か、思い出したか?」
「何をだよ?俺が越してきたのが初対面だろ?」
心底不思議そうな、頭の中にある事実を何も疑っていねえ言葉だ。
腹の底が嫌な具合にざわめいた。落ち着けと自分に言い聞かせても、体内を羽虫が飛び回るような不快感が這い上がってくる。
「…本当に、何も覚えてねえんだな」
分かりきってたことをわざわざ口に出して、馬鹿だと思いながらも抉られる傷の痛みを確認したかった。申し訳程度に貼り付いたかさぶたに爪立てて引っぺがして、じくじく疼いてる胸の内をいっそこいつに見せてやりたい。まだ痛いと生々しく思える、何ひとつ褪せてなんかいねえんだと。
可笑しくもねえのに笑いが込み上げた。
気付いたらトラファルガーが下にいて、驚いた顔で俺を見上げていた。
「ユ、スタス屋…?」
「………」
「…どうしたんだよ」
押さえつけた肩がベッドに沈んだ。
思いきり掛けた体重に痛そうに眉を顰めて、細い腕が俺を押しのけようとする。重いだろ、と呟いて最初は促す程度だったその力が、退く意思がないことが分かったのか次第に強いものに変わっていく。ただ困惑してただけの表情が段々本気で焦りだすのを、妙に冷めた気分で眺めていた。
「おい、何の真似だ!重いって、どけよ…!」
「…元はといえばてめえから誘ってきたんだろうが」
「…っ、頭沸いてんのか!?今なら悪ふざけで済ませてやる、さっさとどけ!!」
「悪ふざけ?」
「ユースタス屋…!」
「…あれだけ付きまとってたくせに、今更悪ふざけか」
「だからっ、さっきから何言ってんだてめえは!!」
言葉尻に被せて顔の真横に拳を叩き付けた。そこそこでかい音はしたが枕がへこんだだけで大した衝撃はない。もがいて逃げようとしてるトラファルガーが一瞬怯めば充分だった。両手首をまとめて頭の上で押さえつける。何か言おうとした唇に噛み付いたら、出し損なった声が喉の奥でくぐもった悲鳴に変わった。
信じられねえというように見開かれた眼には拒絶の色が浮かんでる。
初めて見たかもしれない。思えば昔から、どんなに罵り合って手が出た時だってこいつは一度も俺を拒んだりしなかった。
あんなに欲しがってたくせに、忘れたら全部なかったことにして終わりか。
今更遅えよ。
「ユ、スタ……!」
前置きもなく下着の中に突っ込んだ手にトラファルガーが硬直した。
キスまでされてもまだどこかで高括ってたんだろうか。呆然と俺を見上げてるのが可笑しくて、手の中の萎えてるもんを揉みしだいて握り込む。途端に弾かれたように暴れだした身体を抱き寄せ、必死で抵抗するのを嘲笑って鼻先に唇を落とした。
「離…せ、離せよ…!てめえマジでイカれてんのか!そんな趣味ねえっつってんだろ…!」
「どの口がほざくんだ、散々自分からねだったくせに」
こいつの弱いとこくらい全部知ってる。
指の腹を擦り付けるように先端を弄りながら、耳の縁を舐めて中に舌を入れるとぶるりと身を震わせた。
「…っ触、んな…!」
「…なんだ、勃つんじゃねえか。飲んでるし、もしかしたら無理かと思ったんだけどな」
「やめ、ろって、言って…」
「こんなんで説得力ねえんだよ。昔の方がまだ可愛げあったぞお前」
「…何、が…っぁ、ふ、っ…やめ、きもち、悪…」
「いいの間違いだろ。もっとしてやるからさっさと脚開け、どうせビッチ具合は変わってねえんだろうが」
吐き捨てた台詞に、トラファルガーが憤りと混乱でぐちゃぐちゃの顔で俺を睨んだ。
散々暴れたせいでサイズの合ってない服がずれて、骨ばった肩が見えそうになっている。上は捲りあげて下は邪魔にならないように片足だけ引き抜いた。身体のほとんどを露出させられてトラファルガーの頬にカッと血が上る。
鎖骨の窪みを舐めて晒された首筋に噛み付くと、短く息を詰める音がして身体が硬直した。薄いけど弾力のある皮膚にギリギリと歯型を刻みつける。痛みに耐えかねたトラファルガーが切れ切れに俺を呼ぶのがすぐ傍で聞こえて、苦痛の滲む声にもかかわらず下半身に血が集まっていく。わざと中心を合わせるように腰を擦り付けたら固くなってんのが伝わったんだろう、一瞬絶句した後、嫌だやめろと涙の混じった罵声が飛んできた。
「こ、の…変態野郎が…!」
「じゃあその変態に触られて喘いでるお前は何だよ…ったく、人の手派手に汚しやがって…どろっどろじゃねえか」
「…っ、お前、が…」
「変わんねえなぁ、そういう強情なとこ…ほら、脚開けっつってんだろ」
急所弄られながらじゃどうしたって抵抗は弱まる。
まだ往生際悪く俺を蹴り飛ばそうとしてた両脚を強引に広げ、閉じられないように身体を割り込ませた。
「大人しくしてろ、よくしてやるから」
「ぁ、頼んで、ね…っ…何で、こんな、どけって…!」
「イイコに出来ねえならこのまま突っ込むぞ」
痛いくらい張り詰めてるもんを取り出してすっかり濡れてる入り口に円を描くように擦り付けたら、トラファルガーの腰が揺れて手の中の熱もびくびく震えた。
身体が多少なりとも覚えてるんだろうか、それとも単純にここが気持ちいいだけか、自分の後ろ弄ったことなんかねえから分かんねえけど、どんどん蕩けてく表情に少し安心する。目尻に涙が浮いていた。舐め取ったら同じ味がするのに、昔とは全然違う。トラファルガーはもうあの頃のように俺を見ない。
嫌というほど分かっていたその事実を、今はどうしたって認めたくなかった。
乱せば乱すだけ俺の知ってるトラファルガーに近づいてく気がして、馬鹿みたいに必死だった。
昔みたいに縋りついて泣き喚けばいい。そしたらどれだけだって甘やかしてやるのに。
「…ぶち込まれたくなったら言えよ。てめえのいいとこなんて知り尽くしてんだ、一発で飛ばしてやる」
「…ぁ、あ、ん…っんぁ、はっ…も、はなせ、出、る…ッ…」
「はっ…このまま出したって物足りねえだろ……つうか結局俺に弄られて気持ちいいんじゃねえか、ほんと口先だけだな」
「ん…っ…ぁ、やぁ、痛…、」
「後ろに欲しいってねだってみろよ、ザーメン沁み込むまで犯してやるから」
今にも破裂しそうな前を強く押さえつけて、声もなく背筋を撓らせるトラファルガーと無理やり唇を合わせた。
噛み付かれるかもしれないと思ったのに、頬の内側を舐めて舌を吸い上げたら自分から絡めてきた。驚いて思わず手が止まる。押さえてた力も緩んで先端から少量の体液が吹き零れ、トラファルガーがまた腰を震わせる。出したくて堪んねえのか無意識なのか、どろどろのそこを俺の手にこすり付けて扱いて欲しそうにしてた。いっぱいに溜まった涙が音もなく滑り落ち、唇を塞がれたまま、ユースタス屋、と苦しそうに俺を呼んでる。
もう一度、今度はトラファルガーから舌を差し出されて夢中で互いの口内を貪った。
粘膜擦り合わせて溢れる唾液を舐め取っていると頭の中がぐちゃぐちゃに溶けていく。トラファルガーがちゃんと俺を受け入れてくれてるような錯覚に呑まれそうになる。大きく開かせた太腿を撫でたら付け根にピンと筋が浮いて、もう我慢させるのが可哀想になって腹の間で擦れてた俺のも一緒に握り込んだ。
ほんの数回扱いただけで先に達したトラファルガーは、小さく奥歯を鳴らしながら俺が出し終えて手を止めるまで全身を痙攣させてた。
放心したような顔してるくせに、唇を離すと無意識に目が追ってくる。まるで足りないとでも言ってるみてえに。薄くてあまり血の気のないそこが今は少し腫れぼったい。
腹の上に溜まった二人分の白濁を掬い取り、濡らした指で後ろを撫でて押し込もうとしたら、はっと我に返ったトラファルガーが今まで抵抗を忘れてた両腕で懸命に押し返してきた。
「ユ…スタス屋、いや、だ、やめろ…そっちやだ…!」
「…ヤられてえって言え」
「だめだ、嫌だ…っ…頼むから…!」
「今更なにが嫌なんだよ…!てめえが…っ、」
あんなに、どうしてやろうか困るような眼で見てたくせに。
「てめえが俺のこと好きだって言ったんだろうが!」
だから俺はずっと。
勝手にいなくなっても、きれいさっぱり忘れられても、それでもまだお前のこと。
気付いたら二人して息を弾ませて、夜も明けてない静まり返った部屋で呆然と互いの顔を見てた。
耳鳴りのしそうな沈黙の中、今まで入ってこなかった雨の音が急に大きく聞こえた。
「ユ、スタス…屋…?」トラファルガーがびっくりした顔してる。今の今まで泣いて嫌がってたのに、その表情がどうしょうもなく無防備に見えて痩せた肩に顔を埋めた。
ぎゅうっと喉元が絞められるように熱くなって、うまく声が出せなかった。
「…ユースタス屋…泣いてるのか?」
「泣いて、ねえよ…」
「…嘘吐け」
情けねえ顔。
呆れたような声なのにさっきまでよりずっとやさしい。ひでえことしたのは分かってて、それでも振り払われるのが嫌でしがみ付いたら、仕方なさそうな溜息をひとつ吐いてトラファルガーの身体から力が抜けた。
「…ずるいだろ、それ。泣きてえのは俺の方なんだぞ…」
「…分かってる…っ…悪、かった」
「…謝ってすむか」
触れた分だけ高くなる体温と、こんなふうに髪を梳いてくる指を、俺は他に知らない。
ずっと考えないようにしてた。
何を思ったところで死んだ人間が生き返るわけでもねえ。あの頃の俺にはそれが全てだった。トラファルガーと場末の酒場で飲み明かすことも、あのへし折れそうな身体を抱くことも、生涯もう二度とそんな日は来ない。
感傷じみたことを思えばそこから全部崩れて灰になってしまう気がしてた。
だけど頭の片隅に死んだ男の影がよぎるたび、舌の付け根を焦がすような後悔があったのも事実だ。
俺を好きだと言った声も、少し悔しそうだった表情も、何年経とうと忘れることすらできねえくせに。
なんであの時、ちゃんと応えてやれなかった。
「…昔ってなんのことだ」
息を整えたトラファルガーがぽつりと呟いた言葉は、俺が一番聞きたくないことでもあった。
期待なんかする方が馬鹿だって散々自分に言い聞かせて、それでも、思い出や記憶なんて明確なもんじゃなくても、こいつの中にほんの欠片でもあの時代の名残があって欲しいという望みをどうしても捨て切れなくて、女々しさに反吐が出る。
「…妙なこと言って悪かった……殴っても何してもいい、お前が嫌なら二度と近づかねえ。だから、こんなことしといて最悪だけど…できたら忘れてくれ」
「俺たち前に会ったことあるのか?」
「トラファルガー…頼むから、」
「ちゃんと話せ。本当に全部無かったことにされてもいいのか。…こんなことまでしといて今まで通りとかもう無理だろ」
「……っ、」
言葉に詰まった俺の顔を覗き込んで、掌で頬を包むように固定された。「…泣くなよ、怒れなくなるだろ」そう言って熱っぽい目許に指が触れる。
「昔、俺はお前に好きだって言ったのか」
「………」
「ユースタス屋」
「…言った…でも、信じねえだろ…こんな話」
「まぁ…意味は分かんねえな。…でもお前が本当のことだっていうなら、ちゃんと信じる」
「…嘘吐け。頭のおかしいやつに絡まれたで片付けるだろ、普通」
「だよなぁ、なんで納得してんだろうな、俺……それでも信じられると思うよ、なんとなく思い当たる節もあるし」
しょうがねえな、と言いたげな顔したトラファルガーに頭を抱きかかえられ、鼻の奥がツンとしてまた涙が出そうになった。無理やり裸に剥いて今だってまだ組み敷いたままなのに、どう見たってあやされてるのは俺の方だ。格好悪い。
胸の内を察したみたいにトラファルガーが少しだけ笑う。
「…ユースタス屋、俺のこと好きだったのか?」
「……好きだよ。でなきゃこんなこと、」
「…なんだよ、俺はてっきり……お前すげえ怒ってたから何かやっちまったのかって…腹いせでこんなことされてんのかなって」
ホモじゃねえなら絶対嫌われたんだと思った。
眼を伏せてそう呟いた語尾がわずかに震えてた。
「許してねえからな…好きなら何してもいいと思ってんじゃねえぞ」
「うん……ごめんな」
「…大体なんだあの罵倒の仕方。お前、昔の俺に何してたんだよ…」
「…そりゃあ…色々、だけど」
「………」
「トラファルガー…?」
「…だめだ、なんか…熱上がってる気がする。ユースタス屋が無茶するから…」
疲れきっただるそうな声がして、慌てて額や首筋に触ったらさっきまでよりずっと熱い。改めて見たらトラファルガーは随分ひどい格好で、布団どころか服もちゃんと着せてねえんだから悪化するのは当たり前といえば当たり前だった。密着してた身体を離すとぶるりと震えて、寒い、と腕が絡まってくる。
「悪い…もうなんもしねえからこのまま寝ろ。朝になったら何か作って薬飲ませるから」
「こんなべたべたの身体でか、せっかく風呂入ったのに…」
「…タオル絞ってくる」
「…あと水もな、喉渇いた」
「分かった、すぐ持ってくるから布団出るなよ」
「それと朝飯は卵粥がいい…ちゃんと出汁から取ったやつ」
「…もうこの際だから何でも聞いてやるけど」
「……美味く作れたら、今日のことは許してやってもいいぞ」
なんて言っていいか分かんなくて黙ったら、ずっと怒ってる方がいいのかよ、と不機嫌そうに髪を引っ張られた。照れ隠しみたいなどこか拗ねた声で、顔を見ようとしたら嫌がって抱きつく腕に力が篭った。
「べそかいてるユースタス屋も見れたしな」
「いい…のかよ。あのまま最後までやってたかもしれねえのに、」
「…そこはよくねえけど…とにかくもういい。もし明日起きてユースタス屋が俺のこととか、こんなことしたのとか…全部忘れてたら俺だってムカつくしお前のこと責めると思う。……お前の話信じるって言ったからいい、今回はお互い様だ」
湯に浸したタオルで身体を拭って着替えさせ、水を与えて一息ついた頃には、もう夜中というより早朝に近くなっていた。
長い一日だった、とぼやくトラファルガーは本当にくたびれきっているように見えて、ごめんなと頭を撫でたら少し不思議そうな顔で俺を見ていたけど、やがて気持ち良さそうに息を吐いて目を閉じた。
「なぁ…お前ってよく俺の髪弄ってたか?」
「…時々な、…覚えてんのかよ」
「覚えてねえし、思い出す予定もねえよ…諦めろ」
「……分かってる」
「…でもなんか、お前に撫でられるとどうしょうもねえ気分になるんだ。うまく言えねえけど…懐かしい、みてえな」
薄く瞼を持ち上げたトラファルガーが一瞬だけ泣きそうに見えた。
すぐにまた目を瞑ってしまったけど、ベッドの中から伸ばされた手に撫でていたのとは逆の手を取られる。浅く指を絡められて、これじゃあ俺ここから動けねえよと苦笑したら、「一緒に寝るか?」と案外真面目な顔でとんでもないこと言われた。熱で頭惚けてるんだと思いたい。いくら何もしないって言ったからって、あんまり無条件に信用されたって困る。
「…他にもあるなら話せよ、その昔とかいうやつ」
「…いいから寝ろ。熱、結構高いぞ」
「ちゃんと寝るから話せ……聞きてえんだ」
トラファルガーはベッドの中でうとうとしながら、俺は床に座ってずっとその頭を撫でながら、夜が明けて朝になるまで纏まりもとりとめもない話をした。
故郷の海のこと、俺自身や仲間のこと、立ち寄った島のこと。それからトラファルガーといたあの場所と、別れた後のこと。
寄り添って何かを共有して生きるなんて、あの頃の俺たちにはどうしたって叶わなかったことだ。その隙間を埋めるように、ぽつぽつと思いつく端から言葉にして、こいつと過ごした時間の短さとその記憶の鮮やかさに心臓の裏側がじんわりと鈍く痛んだ。途中トラファルガーは何度かまどろんで、またぼんやり目を覚まして、それを繰り返しながら黙って俺の声に耳を傾けてた。
多分、起きた後でも全部は覚えていないだろう。夢見心地で内容なんかぐちゃぐちゃかもしれない。
だけど、それでいいとも思った。
猫みたいに掌に擦り寄って細められた目許に唇を落としたら、海の色をした瞳がくすぐったそうに笑った。
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