We are all alone in this world.
(世界に君と二人きり)


ガキの頃からずっと、古い古い、夢とも記憶ともつかないものを抱えていた。
ともすれば現実世界で生きていくのに邪魔になるくらい鮮明で鮮烈なそれは、俺の一番深いところに根を張ってびくともしない。上にどれだけ新しい経験や記憶を積もらせていっても薄れる気配すらなかった。今じゃとうに諦めて受け入れるしかなくなっている。
そのひとつに昔からずっと探している影がある。
不思議なもので、くっきりとした映像の中でそこだけ奇妙に掠れていた。
『ユースタス屋』
そう呼んでいた人間の顔も知らない。声だってどこかノイズか混じっている。俺にとってそいつがどんな意味を持つのかさえよく分からない。強いて言えば、違和感と喪失感を混ぜてほんのひと匙の砂糖を加えたような、甘くて苦い感情だった。
顔も名前も何も知らない、だけどひとつだけ揺るぎなく確信している。
ほんの一瞬すれ違いでもすれば俺は絶対にそいつを見つけられると。

「あ、こんにちは。昨日隣に越してきた者です」

「………」

「…あの?」

「……嘘だろ」

「は…?いや、嘘じゃねえし」

ましてや、しっかり顔合わせて挨拶なんざされた日には言葉もなかった。




頭が重かった。部屋の中は薄暗く、目覚まし時計の蛍光塗料が浮かび上がっている。
ベッドに潜り込んだときはまだ昼過ぎだったのに、いつのまにか随分な時間眠っていたらしい。凝り固まった身体を動かすと節々が鈍く痛んだ。眠気はなかったけど、頭の芯が掻き回されるように疼いて気分は最悪だった。
引っ越してきたというあいつに会ってからこの有様だ。
確信は正しかった。一目会った途端、名乗られる前から俺はもうトラファルガー・ローという男のことを知っていた。それと同時にあいつに関する諸々の記憶が、水道管が破裂したみたいに頭蓋骨の中で暴れ回る。あまりの圧力に頭が痛くて痛くて、怪訝そうな顔をするトラファルガーを置いて自室に飛び込みベッドで蹲った。吐き気までこみ上げてきて身動き一つできずに、訳の分からない感情ばかりを持て余していた。


トラファルガーが死んだと聞いたとき、自分が何を思ったのかあまり覚えていない。
諸島で別れてから一年と少しが経った頃か。悪名高かったあいつの訃報には色んな噂が飛び交ったが、要はグランドラインのどこかで二つの海賊団がやり合って、その片方が潰れた。ただそれだけの、あの海のどこにでも転がっている話だった。
昔、幾度となく抱いた男が死んだというのに、弔いの言葉の一つさえ出てこなかった。
ただあいつの好きだった酒の味や、髪や眼の色、耳朶をなぞるときに触れたピアスの冷たさ、指先に合わせて動く刺青、そんなものばかりが鮮やかに焼き付いている。




一眠りしたせいか頭痛が治まってくると、昼から何も口にしていない身体が空腹と喉の渇きを訴えた。
面倒で仕方なかったが、どうにか起き上がって冷蔵庫からミネラルウォーターのボトルを引っ張り出す。適当な材料もあるけどどうにも料理するって気分でもねえ。
コンビニで何か買ってくるかと財布を掴んだところで、隣から何やらものすごい音がした。
つうかこれってトラファルガーの部屋じゃねえのか。あいつ何やってるんだと思う間もなく、ドアを開けたらしい音と、重い物が立て続けに落ちるような音が響き渡った。

「…お前ほんと何してんだよ」

気になって外を覗いたら、開けっ放しの玄関先で散乱した物やダンボールと一緒にへたり込んでいるトラファルガーがいた。

「……悪い。荷物、うっかりドアの近くに移動させたら外出れなくなっちまって。ちょっと無理やり動かしたんだけど…」

「雪崩起こしたのか」

「うん、まぁ、次はもう少し上手く積んどく」

「…お前、片付けとかしたことあんの?」

「なくもねえけど、この規模だと勝手が分かんねえっていうか…」

「一日二日でゴミ屋敷みたいになってんじゃねえか……なぁ、手伝ってやろうか?」

「いや、でも自分の部屋だし、悪いだろ」

「てめえが遠慮とかする柄か。似合わねえ」

「……え?」

「……なんでもねえ。別にやることもねえし、お前さえよければ手くらい貸してやる。布団とか生活用品とかさっさと出さねえと困るだろ」

「…じゃあ、頼む。早々に迷惑かけて悪いな…後で飯くらい奢らせてくれ」

途方もないブランク挟んで、久しぶりのまともな会話がこれだった。
片付けどころか、散らかして遊んでたようにしか見えない部屋がどうにか生活できるくらいになったのは真夜中近くだ。常識外れに物が多いわけでもない。片付いてみれば男の一人暮らしに相応なもんしかないのだが、あんな惨状を作り出せるのは一種の才能じゃねえかと思う。

聞けばもう数年一人で暮らしてるらしいが、こいつよくこんなんで今までやってこれたな、と逆に感心する。生活能力が限りなくゼロに近い。
昔から食に無頓着でろくなもん食おうとしなかったトラファルガーが自炊するなんざ期待してなかったけど、案の定外食かコンビニかレトルトの三択だった。ゴミ出しはちゃんとしてる、と真面目くさった顔でいうトラファルガーに頭が痛くなる。馬鹿は死んでも直らないというが、こいつの不養生は生まれ変わっても相変わらずだ。
必然的に、と言うのはめちゃくちゃ違和感があるが、とにかく俺がトラファルガーの飯の面倒を見始めるまでにそう時間は掛からなかった。
当の本人は今も黙々と俺の作った飯を食っている。これが餌付けじゃなくて何なのか。ついでにこいつが嫌いなものを一つ二つ克服するたびに妙な達成感を感じる辺り、何だか色んなものを見失ってる気がする。

「美味いか?」

「ん、これ好きだ。ユースタス屋また腕上げたな、褒めてやる」

「何様だてめえ…」

なんとなく、いつも目深に帽子を被っていた、こいつの過保護なクルーの姿がフラッシュバックした。俺も人のこと言えた義理じゃねえが、気まぐれで我が侭で他人の説教など歯牙にもかけなかったトラファルガーに手を焼きながら、それでも何かと口煩く世話してたあの男もこんな心境だったんだろうか。
ペンギンと呼ばれていたそいつは、この時代でもちゃんとトラファルガーの知り合いらしい。話から推測すると、多分昔のクルーの何人かとも付き合いがあるようだった。それは俺自身にも言えることだ。キラーを始めとする過去からの顔馴染みたち。縁とはそういうもんなのか。

だけど、出会った日に少し話してすぐに分かった。
トラファルガーは昔のことを何ひとつ覚えてない。自分のことも俺のことも、何ひとつとして。
責めるような筋合いじゃねえのは理解してる。誰に聞いたって、こんなもんを後生大事に抱え込んでる俺の方がおかしいと言うだろう。
分かっているけど、それでも、すっかり俺に気を許して寛いでるトラファルガーを見てると薄暗い衝動が込み上げてくることがある。
何も覚えてねえこいつを組み敷いて、こうやって数えるのも面倒なくらいてめえを抱いてきたんだと教えてやったら、一体どんな顔をするんだろうか。




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