二度と交わることはないのだと思っていたトラファルガー・ローと再会したのは、それから八年が経ってからだった。
ローが俺の手元を離れてから数日後、それまで住んでいた所を引き払って離れた場所へ引っ越すことにした。大学はもういくらもしないうちに卒業するだけなのが幸いだった。多少遠くても何とかなる。
身代金の要求はおろか連絡のひとつさえもローの家に寄越したことはなかったが、俺のしたことはれっきとした誘拐だ。さすがに同じ部屋に留まり続けるのはまずいと思ったし、なによりローの気配ばかりを残す空っぽのこの場所に耐えられなかった。
馴染みのない土地で一年を過ごして、それから一度だけローの家まで行ってみた。けれど白を基調にしたきれいな洋風の一軒家も、手入れの行き届いていた広い庭も、見覚えのないものに変わってしまっていた。掲げられた名前も違っていた。
引っ越してしまったのだろう。俺と同じように、ここから離れた遠いところへ。
ローと別れてから八年。
何事もなくここまで平穏に過ごせたということは、ローは親や警察に何も言わなかったのだろうか。
俺の中でローと過ごした二ヶ月は宝物のような思い出だ。思い出なのだと、納得してしまえる程度には諦めが付いていた。
ローを忘れはしなかったけれど、いい歳をした人間が折り合いをつけるには八年は充分すぎる時間だ。
少なくともこのときまで確かにそう思っていたのに。
「ユースタス屋!」
景色も人込みも喧騒も、視覚からも聴覚からも一切のノイズが消える。
耳を疑った。記憶のものより低い声、けれど忘れるはずのない懐かしい呼び方。
高速で走り抜けていく車の群れと、横断歩道を挟んだ向こう側。
赤く光る信号の下に、学生服を着たローが立っていた。
「やっぱりユースタス屋だ!」
「ロー…?」
信号が青に変わるなり息せき切って駆け寄ってきたローは、ためらいもなく全身で俺に抱き付いてきた。その仕草が幼かった頃と重なってつい昔のように抱き上げようとしたが、さすがに成長した男の体重は子供とはわけが違った。というか真昼間の往来でこのやり取りはあまりに注目を集めすぎている。
「ロー、お前、引っ越したんじゃ…」
「あぁ、うん、あの後すぐにな。でも中学からはこっちに戻ってきたんだ。もしかしたら会えるかもってずっと楽しみにしてたのに、こんなにかかるなんて思わなかった」
「そっか…俺は今年になって戻ったばっかりだからな。お前はもう帰ってこないのかと思ってた…今、中学生なんだよな?」
「うん。八年ぶりだ、ユースタス屋」
一目でユースタス屋だって分かった。
そう言ってローは俺の胸元に頬を寄せた。
家に行きたいとねだるローを連れて自宅のマンションに戻る。
道すがら、ローはぽつぽつと色んな話をしてくれた。
引っ越した先でのこと。通っている中学校のこと。昔の家はやっぱり売却したらしく、今はそこからちょっと離れた場所に住んでいること。幼馴染にまた会えて嬉しかったこと。
途中立ち寄ったコンビニでペットボトルを指差して、「今キャンペーンしてるベポグッズにはまってるんだ」と携帯のストラップを見せてくれた。服やポーズの違う白熊が四つも付いていて、オレンジ色のつなぎのやつはシークレットなんだ、と自慢そうに笑うのがかわいくて心臓がぎゅうっとなった。
それにしても、とベポ付きのペットボトルを二本冷蔵庫にしまいながら、今更すぎるため息がこぼれる。
考えてみたらとんでもない状況だ。かつて自分を誘拐した人間に再会して、挙句家までのこのこくっついて来てるんだから。
俺が言うのもなんだけどちょっと説教でもしておいた方がいいかと悩んでる間に、一通り部屋を回り終えたローが戻ってきた。
「やっぱり昔の部屋じゃないんだな」
「一度は引っ越したからな。つうかお前小さかったのによく覚えてるな」
「忘れるわけねえだろ。置いてあった小物まで覚えてる」
銀色のピアスと指輪。でかいヘッドフォンと英語だらけのCD。子供には読めなかった難しい雑誌。黒い本棚と白いクローゼット。冷蔵庫にはいつも好きなおやつが入ってた。ベッドのとこだけ出窓があって緑のカーテンが掛かってた。ベッド脇のランプがセンサー式で、面白がって何度も手をかざして遊んだ。ふかふかのクッションが気に入って毎日座ってたらぺったんこにしちゃったのが悲しかった。ババ抜きしか知らなかったけど、部屋で見つけたウノの遊び方も教えてもらった。
蒼い目が懐かしむように伏せられる。
「あ、覚えてるっていえばもうひとつ、」
ちょっと屈め、と言われて膝を折ると、ローの掌が目元を覆う。
ちゅ、と可愛らしい音を立てて柔らかい感触が唇に触れた。
「約束してたじゃん」
「約束…?」
「忘れたのか?最後のあの日、俺なかなか寝付かなかっただろ」
「…あぁ、昼寝がやだって。まだ遊びたいって駄々こねてたな。結局くたびれていつもよりぐっすり寝てたけど」
「ユースタス屋がおやすみのキスしてくれて、だけどもっといっぱいしてってねだった気がする」
「ほんとよく覚えてるな。そうだな、それで……あ、」
「続きは起きたらって」
「……ロー」
「なに?」
「お前はもう少し危機感ってものを持て」
「ユースタス屋相手に?今更?」
会いたかったのに。
唇を尖らせて拗ねる表情は年よりも幼く見えて、ほんの一瞬、時間が巻き戻ったような錯覚に襲われた。
「知らない大人に付いて行っちゃいけませんって、ユースタス屋が言うと世界一説得力がないぞ」
「…ごもっとも過ぎて泣けてくるな」
八年前、一度は覚めた夢の続きをまた見てる。
まだ大人になりきっていない、薄い皮膚と細い骨ばかりの身体。八年前よりいっそう弾力ってものを削ぎ落としたみたいだ。なのに、これに勃つのかという自問は一瞬で消える。ローが服の上から俺の股間に触れて小さく喉を鳴らした。
「これ舐めていい?」
「よくない…初っ端から何言ってんだ」
「だって、昔たくさんしてもらったけど、俺からしてあげたことねえもん」
「勘弁してくれ…あんな小せえ口に捻じ込むなんて真似できるわけねえだろ…」
「ユースタス屋は優しかったもんな」
自分から聞いたくせに許可なんてどうでもいいようで、ベッドにぺったり腹這いになると躊躇いもなく前を寛げて張り詰めたものが取り出される。至近距離でまじまじと眺められて顔から火が出そうになった。小さい頃はあんなにもじもじしてたくせに。
先端を少し撫でて、赤い舌が触れる。途端に溢れ出た先走りを薄い唇が啜った。形を確かめるように食まれて、神経が細い部分からじりじり焼けていくような気がした。
「…ん…ユースタス屋、これ全部咥えるの無理かも」
「しなくていいから…!」
「だって丸ごと舐めてもらうの気持ちよかったのに」
口を付けたまま喋られて寒気にも似た快感が背骨を伝っていく。頭の中で素数でも数えていないと今すぐ色んなものが音立てて千切れてしまいそうだった。股間に顔埋めるローから視線を逃がすと痩せっぽちの背中が目に入る。浮いた肩甲骨のくぼみが陰になってて、無意識に手を伸ばしてそこをなぞると下から響く水音に艶めいた声が混じった。ここ弱かったっけ。覚えがない。脇腹とか膝裏とか擽ってやるとすぐ泣き出して…
「…っ、ロー…、1って素数だっけ」
蒼い瞳が不思議そうに瞬く。
咥えたままふるふる首を振られて歯が当たり、呆気なく口の中にぶちまけた。
「……最悪だ」
「そんなにへこむことないだろ…やっぱ不味いなこれ」
出した途端にローが噎せて、半分くらいはまともに顔に掛かってた。顎から垂れていくのを手の甲で拭ってせっせと舐めてるのを慌ててやめさせる。さっきから何なんだこの状況。
一回出したのにあんまり萎えてくれなくて、ローが隙あらば手を伸ばそうとしてくる。
「入れねえの?」
「…どこでそんな知識……入れねえよ、いきなり無理だろ。途中でやめてやれそうにねえし」
「我慢できなくなる?」
「お前な…、ただでさえギリギリなんだから煽るな!」
「あのな、昔は無理だったけど、俺もう精通してるんだ」
「…まぁ、十五だもんな」
「身体もあんなに小さくねえし。昔だったらそんなの突っ込まれたらほんとに死んでたかもしれねえけど、今なら何とかなる気がする」
「……俺は加減してやれる気がしない」
「ちょっとくらい痛くてもユースタス屋にされるんなら我慢できると思う」
「………」
「…入れる?」
「入れねえってば」
触るだけな、と念を押してローを膝に乗せる。すぐに指が絡み付いてきた。
その手に自分の手を重ねて身を寄せて、二人分の熱を一緒に扱きあげた。
ただでさえ昂ぶっていたせいであっという間に息が上がって、しばらくは荒い呼吸音ばかり聞いていたが、肩に顔を埋めていたローが突然上体を起こした。
「ゆ、すたす屋…」
「…どした?」
「もう…子供じゃなくなった、けど…っ、」
「うん…」
「…いま、の俺でも…ちゃんと、抜ける…?」
冗談めいてたけど、瞬きした拍子に転がり落ちた涙が生理的なものなのかどうか、少し迷った。
「子供とかじゃなくて…俺はお前が好きなんだよ」
先端を集中的に弄っていた手が止まった。
見上げてくるローが何ともいえない表情をしてた。唇が小さく動くけど声は出てない。
密着した性器を更に擦り寄せるようにローの腰が動く。昔、俺が教えた通りに。
熱に浮かされた瞳が褒めて欲しそうに見えて、上手だな、と小さな頃してたまんまに頭を撫でたら嬉しそうに笑った。
「…俺も正直、自分がロリコンになったのかと思ってた」
「ロリコンって言わなくね?男なのに」
逃げていく短い髪をくるくる指に絡めながらのぼやきを可笑しそうに笑った後、ローはふいに真顔になって、「まさか他にも連れて帰って可愛がったりしてねえよな」なんて捨て猫を隠してる子供を叱るような口調で問い詰められた。
「んなわけねえだろ、ローだけだよ。俺だって子供相手にあんな風になってすげえびっくりしたんだからな」
「ならいいけど。あの後なに聞かれても宥めすかされても『知らない覚えてない』で通したのに、別の誰かに訴えられたりしたら笑い話にもならねえもん」
「やっぱりお前が庇ってくれたんだ」
「うん、バレたらユースタス屋が困るって分かってたし。親も警察も、医者にも連れてかれたかなぁ…しつこく聞かれたけど、まだ小さかったからショックで記憶が混乱してるんだろうってうやむやになったんだ」
「そっか…ごめん、ありがとな」
「いいよ。また会えたし、八年経ってもちゃんと俺のこと分かったから許してやる」
ねむい。ローが小さくあくびをする。
毛布を引っ張りあげてやろうとしたけど、「もう遅いから帰らなきゃ」と残念そうに言われた。時計を見たら八時近い。確かに心配されてもおかしくない時間だ。
「忘れてた…まだ中三だもんな…泊める気になってた」
「ははっ、もっかい攫うか?」
「…いいな、それ。今度は迷子になんてならねえだろうし」
だけど結局ローは元通り服を着て帰り支度をしたし、俺も無理やり引き止めたりはしなかった。
のどが渇いた、と名残を惜しむようにねだられ、コンビニで買った炭酸飲料を出してやる。付属のストラップを開けると、ローの手持ちとひとつダブっていた。しかもオレンジのつなぎを着たシークレットだ。
「…ユースタス屋、ペットボトル選んだのは俺なんだからな」
「え、うん、良かったじゃねえか。なに拗ねてんだ?」
「ダブったらユースタス屋の携帯に付けてやろうと思ってたんだ…なのにいきなりシークレットとか…俺よりベポに好かれてる感じで憎い」
「そんなにこのクマ好きなのか…」
「嫁にしてもいいと思ってる」
真剣すぎる口調だった。正直俺の方こそ白熊が憎たらしかったが、ローが手ずからストラップを括り付けてくれたから邪険にするのも気が引ける。
ひとりに戻った後、シャワーを浴びてる間に届いていたメールにはいつの間に登録されたのかローの名前が表示されていて、簡素な文面ながら週末デートのお誘いだった。というより素っ気ないような文章なのに堂々と『デートしよう』とか書いてあるのに赤面する。デートどころじゃないことまでしてるくせに妙に照れて返信打つのに三十分くらいかけてたら、待ちくたびれたのか悪口メールが立て続けに二通届いた。
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