(転生で現パロ)



表通りからは少し分かりにくいこの路地も日当たりは決して悪くない。午前十時はローの最も好きな時間だった。こぢんまりとした喫茶店の店内には、燻した黒い窓枠を透かして遅い朝の光が差し込んでいる。磨き上げられた皿と銀のフォークが機嫌よく光っていた。開店まであと三十分足らず。
サイフォンのコーヒーがこぽりと泡を吐くのを眺め、カップを三つ出してカウンターに並べたところで入り口のドアが開いた。

「ロー!腹減った!」

「いらっしゃいボニー屋、相変わらず開店前だぞ」

「ちょっとくらい変わらねえよ。キッドは?」

「おつかい頼んでる」

言い終わると同時に再度ドアが開く。
おかえりなさい、と二つ揃って合唱する声に呆れたような溜息をつき、オレンジとレモンの詰まった紙袋がカウンターに置かれた。

「これくらいで足りるか?」

「充分だ。いい子だな、ユースタス屋。迷子にならなかったか?」

「なるか。ボニー、てめぇはちゃんと店開けてから来いっていつも…」

「別にローは気にしてないだろ。小姑かお前は」

ひくりとこめかみを引き攣らせたタイミングで差し出されたカップの繊細なラテアートに毒気を抜かれ、キッドは喉まで出かかっていた悪態を呑み込んでしぶしぶスツールに腰を落とす。ボニーは勝ち誇ったように鼻で笑ったが、ほどなくして出された山盛りのクラブハウスサンドにたちまちキッドのことなど忘れて食事に専念し始めた。
見慣れたいつもの光景だった。切り取られた日差しと、三つのあたたかいカフェラテと、一人分の遅い朝食。フォームミルクの細かな泡を舐めながら、ローはカウンターに肘をついて買ったばかりのレモンをころころ転がしている。

「そういえばロー、二丁目のアンティークショップが何か届いたから取りに来いって言ってたぞ。えぇと、何だっけ、昨日聞いたんだけど」

「多分ランプだな。揃いのやつなのにユースタス屋が一つだけ壊しちまったんだ。古いやつだから、当てがあったら教えてくれって頼んであった」

「あぁそれだ、そんなこと言ってた。型はちょっと違うけど、同じ作家の似たタイプの作品だって」

「そりゃあ何よりだ。陶器製のランプでな、デザインに少しクセがあるから埋め合わせが難しかったんだ。ボニー屋、通り道なら今日の夕方に取りに行くって声掛けておいてくれるか」

「うん、いいぞ」

あっという間にパン屑だけになった皿を名残惜しそうに見つめ、カフェラテを綺麗に飲み干すとボニーは背の高いスツールからひょいと滑り降りた。ここの支払いは一月分まとめることにしている。ローの作る簡単な料理と、なによりコーヒーの味が好きだった。ボニーは食べることが好きだったが、そこまで食事に拘りを持っているわけでもない。食べられてそこそこ味が良ければ何でもいいと思っているボニーにとって、それこそ普段なら腹の足しにもならないおまけ扱いのコーヒーにこんなに感動するなんて夢にも思わなかったのだ。
なんかすっごい特別なコーヒーなのか、と息せき切って訊ねた剣幕にローは驚いていたが、数秒考え込んで、水かもなぁ、とこっそり教えてくれた。そういえばローが出してくれるレモン水は、冷たい水晶の欠片を舌に乗せているような感じがする。

「じゃあな、ロー。また明日。キッドもちゃんと働けよ」

「仕事中断してメシ食ってる奴に言われたくねえよ」

「いいんだよ日課だから。ロー、明日は卵とベーコンがいい!」

「厚切りのやつだろ、準備しておく」

顔見知りの客が多いこの店でも特に付き合いの長いローとボニーを、キッドが時折ほんの少しだけ拗ねた風に眺めているのに気付いていた。けれどボニーにしてみたらそれこそお互い様だと、冗談みたいに綺麗な赤毛を毟ってやりたくなる。
ほんの数ヶ月前に突然ここに来たはずのキッドは、いつの間にか随分昔からいるみたいにすっかり馴染んでいた。この赤毛がローの隣に寄り添っていることに妙な懐かしささえ覚えるくらいに。どこで何をしていたのか、自分の名前すら一切の記憶がないなんてふざけたことを言う男に、胡散臭いにもほどがあるとローを心配していた頃が嘘みたいだ。
長い付き合いで、ローがこんな風に懐に入れて安心したみたいに笑う相手を他に知らない。




「まだ何も思い出せねえ?」

「ん、全然だな…悪い、迷惑掛けっぱなしで」

「思ってねえよ。お前は俺が雇ってるんだからここに居ればいいんだ」

髪の生え際、引き攣れた傷跡を指でなぞる。
痛かったか、と訊ねるローの声もひんやりと冷たい指先も優しくて、どこまででも甘やかしてくれる気がした。くるくると髪で遊ぶ手を捕まえて、ロー、と呼ぶと涼しい色の目許が少しだけ赤く染まる。普段はトラファルガーとしか呼ばないから、澄ました顔をしていても照れているのがよく分かっておかしくなった。
逃げようとする薄い身体を腕の中に閉じ込めて何度も耳元で囁いてやると、笑い声交じりに嫌がっていたローがふと何ともいえない表情で見上げてきた。
困ったような、泣き出しそうな、時折見せる顔だった。

「なぁ、なんで俺の名前がローって知ってるんだ?」

「は?なんでって…てめぇの名前だろうが」

「でも俺、お前に下の名前教えてねえんだけどな」

「嘘つけ。じゃあ客が呼んでるの聞いたかなんかだろ」

「ふぅん。お前が俺を呼んだのって、まだ店に出す前だったけど」

「…え…?」

「いや、なんでもねえ。多分俺の勘違いだろ」


怪我をして行き倒れていたキッドを拾ったのは、銀色の雨が降る夏の夜だった。
一目で分かった。真っ赤な髪と、血の気をなくしていっそう白い肌。まだ会ったことはなくてもちゃんと知っていた。忘れるはずなんてなかった。
目を覚ましたキッドはその日からずっとここに居付いている。
頭でも強く打ったのか自分自身の名前すら覚えていなかったくせに、ファミリーネームしか名乗らなかったはずのローをちゃんと呼んだ。一緒に暮らして、季節がひとつ過ぎて、ある日好きだと言って抱きしめられた。嬉しいのか悲しいのか分からなくなった。
キッドはローのことなんて知らない。何も覚えてない。少し話をしただけでもそれは明白で、なのに欠片みたいな何かは確かに残っている。だから余計に恐ろしくなった。芽を出す保証もないそれは、期待を掛けるにはあんまりにも脆い。
もしも。
もしもキッドの記憶がちゃんと戻って、それでもローのことなんて知らないままだったら。
そのとき自分は、生まれて初めてみっともなく泣き喚きながら誰かに縋るのかもしれない。


「なんの因果だろうな、そういえば年もあの頃と同じくらいだ」

「…さっきから何言ってんだ?」

「んー…別に。なぁ、ユースタス屋」

「なんだ?」

「ユースタス屋」

「なんだよ」

「ユースタス屋。ユースタス・キッド」

「…おい、トラファルガー?」

「はは、なんでもねえよ。なぁ、その名前気に入ってるか?」

「…まぁ、お前が付けてくれたし。別に嫌いじゃねえ」

「そりゃ良かった」

「つうかこれ誰の名前なんだよ。いい加減教えろ」

「お前もしつこいなぁ。昔飼ってた犬の名前だって言っただろ。でかくてモッフモフで可愛かったぞ、マテが苦手で噛み付き癖もあったけどな」

「犬にしちゃあご立派な名前だな。…昔の恋人かなんかじゃねえの?」

「妬くな、ばぁか。俺の恋人はお前だけだよ」

本当にお前だけだったよ。
今も、昔も。

キッドの腰に手を回してしがみ付くと大きな掌が髪を撫でてくれた。トラファルガー、と控えめに潜めた声が擦り寄った部分から直接響いてくる。ローと呼ばれるのも嫌いではないけれど、少し素っ気ないこの呼び名がきっと一番愛しかった。
何も思い出さなくていい。何ひとつ知らないままここにいればいい。
そう言ったら困らせるだろうか。
けれど限りなく本心だった。
結局ローは何年経っても、遺物みたいな記憶から逃げ出せない。雪に閉ざされた北の街が懐かしくてたまらない。ここがあの場所だったら。世界の片隅のこの小さな店で、色ばかりは鮮やかな思い出を氷漬けにして大切に飾っておけたら。


古びた壁掛け時計が、寝呆けた声で正午を告げる。
このまま客なんて来なければいいと呟いたら、珍しいくらい甘えるんだな、とキッドに笑われた。


のこない冬の話

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