困ったことがあったら、なんて言ったくせに、別に呼ばなくたってユースタス屋はしょっちゅう俺の前に現れた。ホストってそんなに暇なんだろうか。純粋に疑問で訊ねたら、出勤前の貴重な時間割いてるだの、仕事終わってへとへとだと余計に顔見て癒されたいだの、要するに返ってきたのは寝言だらけだった。道理で昼過ぎから夕方の早い時間か早朝かの二択なわけだ。そんな暇があるならギリギリまで寝て、仕事終わったらさっさと帰って休めばいいのに。

「冷てぇな。ご主人さまの顔見ないとぐっすり眠れねぇのに」

「じゃあ起きてれば、一ヶ月くらい」

「会いにくんなってことかよ…一ヶ月なんて無理に決まってんだろ、寂しくて死ぬ」

「ふぅん、お前うさぎだっけ」

「俺の栄養はご主人さまなんだよ」

「じゃあ別にメシいらねえよな。お仕事いってらっしゃい」

「いやだお前の料理美味いんだもん、食わせて」

ご主人さまごっこはまだ続いているらしい。
あの日以来ユースタス屋ははぐらかすみたいに耳も尻尾も何も見せてくれなくて、だから俺は今ひとつあれが夢じゃないかという想いを捨てきれないでいる。というかこの時点でおかしい、何だよ『夢じゃないか』って。『夢に決まってる』って思うのが普通なのに。

「…ユースタス屋、あのさ」

「耳も尻尾も見たいならキス一回ずつな」

「じゃあ頼まねえよ、一生しまってろ!!」

どれだけ素っ気無くしてもユースタス屋は笑うばっかりだったし、隙あらば俺に触りたがる。「お前ってホモなの?」と聞いたことはあったが、「ご主人さまは特別」とやっぱり良く分からない答えが返ってきただけだった。
ご馳走様、と箸を置いて、出勤前の大分早い夕食を終えたユースタス屋が食器を集めて台所に消える。
ほどなくして流れる水の音と食器が触れ合う音を聞きながら、手持ち無沙汰にテレビをつけて面白くもない画面を眺めるのにももう慣れた。ユースタス屋がここを出るまであと三十分足らず。食器を洗い終えて、簡単に髪や服を整えて、嫌がる俺を無理やり抱きしめてほんの数分撫で回したらもういなくなってしまう。
触るなだの香水臭いだの喚いて暴れる決まりごとが、だんだん形ばかりの抵抗になり始めたのはいつからだったか。「ちゃんと戸締りしろよ」と最後に掛けられる声とドアの開く音が、いつのまにか嫌で嫌で堪らなくなっていた。
考えてみたら俺はユースタス屋のこと何ひとつ知らない。仕事場も、住んでる場所も、教えられた名前が本名かどうかさえ知らない。俺たちを繋いでるものなんて、それこそ夢みたいな曖昧な出来事とユースタス屋の気紛れだけだ。
この部屋の扉が明日もノックされる保証なんてなくて、少し前までの俺なら喜んだって良いはずのことなのに、今はそのことを考えるとここが世界の終着駅みたいな気分になった。あんな胡散臭い男相手に、救えないにもほどがある。




「……お前、ほんとに何でいるの?」

「素直じゃねえな、呼んだくせに」

「呼んだ…っけど、でも…ッ、」

「泣くなって。もう大丈夫だから」

「…泣いてねえ、し…」

「ん、怖かったな…ちゃんと頑張ってえらいぞ」

二人ともぼろぼろだった。服は俺の方がめちゃくちゃだけど、傷はユースタス屋の方が多い。ワックスで固められていた髪も乱れていて、口元には痣と血がこびり付いていた。いつものスーツの下だって何発か殴られているはずだ。でもこいつは案の定平気だと笑って、俺の頭を撫でるばっかりだ。
ユースタス屋と初めて会った人通りのないあの夜道で、後ろから口を塞がれて身体を拘束されたのに、暢気にもそれがユースタス屋の悪ふざけだと思って抵抗が遅れた。複数の声と容赦ない力に青褪めたときにはもう身動きなんて出来なくて、道端の車に押し込まれて上に圧し掛かられるまで本当に僅かの間だった。
馬鹿じゃないのかとか、男なのにとか、ここ数ヶ月でもう何度繰り返したんだろうか。既に一度この場所で痴漢にあったっていうのに、我ながら頭が足りないんじゃないか。あのときの痴漢はユースタス屋だったけど、今日助けてくれたのもやっぱりユースタス屋だった。口は塞がれてたけど、身体中を好き勝手触られてパニックになった頭の中で百回くらい呼んだら本当に来た。乱闘と怒号が繰り返されたあと、車の座席から俺を抱き起こして頬を撫でた手のあったかさに、血が滲むくらい唇を噛んでまで我慢してた涙がぼろぼろ零れた。

「…耳出てる」

「あぁ、さすがにちょっと疲れたから今はしまえねえんだ。ごめん、やっぱ気味悪いか」

「そんなんじゃない!ふわふわしてるの好きだし…っ」

「…今のもう一回言って」

「え…?」

「俺のこと好きって」

「い、言ってねえよそんなの!耳がふわふわで好きって言ったんだ!」

「じゃあ、それでいいからもう一回」

「…ふわ、ふわで…好き」

「もっかい」

「もうやだ…」

「もう一回だけ、な?」

「………」

「ロー」

「……好き」

「…え、」

「う…るせえな、面倒だから縮めただけだ!あとなに呼び捨ててんだよ!ご主人さまだろ!」

「お前ほんっと素直じゃねえな。そこが可愛いけどな」

「うるせえ、変態のくせに…!」

「はいはい、それでいいよ。どうせ俺はいたいけな高校生がご主人さまの変態だもんな。おまけに男だしな、可愛いけど」

多分暴れたときに捻った足首が熱くて、眉を顰めた俺に気付いたのかユースタス屋が顔を覗きこんでくる。「どっか痛ぇのか?」と聞かれて首を振ったけれど、よいしょ、と年寄りくさい声がして身体が宙に浮き上がった。びっくりして咄嗟に目の前の首にしがみつくとユースタス屋が嬉しそうに頬をくっ付けてきて、何となくムカついて出しっぱなしの耳を引っ張った。

「…ユースタス屋」

「ん?」

「ほんとは来るわけないと思ってた」

「来るよ。約束しただろ」

「…でも、いつもそう思ってた」

「ロー?」

「だってご主人さまとか、意味分かんねえしっ…!いつか絶対俺に飽きて、面倒くさくなって、もう会いに来なくなるって、いつも…」

「そっか」

「…なんで俺といるの?」

「お前が好きだからに決まってんだろ」

「……主人だから?」

「ローだから。一目惚れかもなぁ、でなきゃ一回会って終わりにしてる」

スン、と匂いを確かめるように鼻先が髪に埋められる。ユースタス屋の唇が耳たぶに触れて、頬に二回落とされて、それから俺の唇の端ギリギリで止まった。睫毛がくっ付きそうなくらい近くにある赤い瞳が細められる。「ちゃんとキスしていい?」と聞かれて、見る間に顔が熱くなるのが自分でも分かった。反射的にいつもの罵声を吐きそうになって、寸前で飲み込んで俯いた俺をユースタス屋はものすごくびっくりした顔で見てる。それはそれで腹が立つけど。
だけど素直になるなんて芸当が俺にできる訳もなくて、手探りでふわふわした耳を探り当てて少しだけ噛み付いた。ユースタス屋はそれに文句も言わずに優しい手付きでずっと背中を撫でてくれた。ゆっくりとした歩調で、割れたガラスでも蹴ったのか、カシャンと澄んだ音が夜道に響いた。

「…寝るとき、尻尾触らせてくれたら考えてやってもいい」



拝啓、ワンダーランドにて


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