トラファルガーの顔色が悪いのに気付いたのは、それからさらに半月が経ってからだった。
まさかと思って問い詰めても案の定というのか、平気だ何ともないの一点張りだ。こいつは今更そんな言い分に俺が納得するとでも思ってるのか。

「正直に言え、さっきだって足元ふらついてただろうが」

「…気のせいだろ」

「…どうしてもそう言い張る気か」

「…っ、これくらい本当に平気だ!今度はぶっ倒れたりしねえよ!」

「やっぱり具合悪いんじゃねえか!倒れなきゃ良いってもんじゃねえだろ!」

目の下の隈が心なしか濃くなってる。ここ数日なんとなく元気が無くて、代わりに今まで以上に側にくっ付いてることが多くなった。無意識なのか心細いのか、その様子がいやでも腹を空かして倒れたときのことを思い出させる。あの時とは状況が違うはずなのに、何でまた。
この前ほど目に余るような状態ではなかったが、昼間は一緒にいてやれないことが多いから何かあったらと思うと気が気じゃない。

「…ついて来い。説明書の最後、ショップの住所が載ってた。お前が何も言わねえなら引きずってでも診せに行く」

「な、なに勝手なこと言ってんだ!行かねえからな!」

「引きずってでもって言ってんだろ」

「嫌だっ!離せって…!」

「いい加減にしろ!何がそんなに嫌なんだよ!!」

人が真剣に心配してるのにあんまりにも駄々をこねるばかりだから、頭にきて思わず壁を殴りつけた。ダンッと思いのほか大きく響いた音に俺もハッとしたが、トラファルガーもびくりと身を竦ませて抵抗をやめた。
いやな沈黙が部屋を満たす。
手首を掴んでいた掌から微かな震えが伝わってきて、慌てて手を離すと指の跡が残ってしまっていた。鬱血のようなそれを見ていると急速に頭が冷えていく。

「…悪い」

「ユ、スタス…屋」

「…心配なんだよ。この前だって本当に死んじまうかと思った…何かあるなら言ってくれねえと分かんねえし、心当たりが無いなら一度ちゃんと診てもらわねえと」

「…っ…だって、」

「トラファルガー…?」

「そしたら絶対…っ、俺のこと要らないって言うに決まってる…!」

「何でだよ、言わねえよ。ちゃんと面倒見るって前にも、」

「そんなのただの口約束だろ!ユ…スタス屋が本当に嫌になったら、俺なんか…っ」

「…なぁ、体調悪くなってる原因、自分で分かってるんだよな?」

「………」

「頼むから教えろよ。それを理由にお前を捨てたりなんか絶対しねえから」

「……嘘だ」

「…もしかして、やっぱり餌足りてねえんだろ」

「違っ、」

「…一度もちゃんとセックスしてねえから、か?」

「そんなんじゃねえ!俺は別に…」

「触るだけで充分って言ってたの、嘘だろ」

当てずっぽうに近かったが、こいつがこんなに頑なになる心当たりなんてそれしかなかった。結局はこの前と同じだ。それかもっと質が悪いかもしれない。中途半端に食いつないでいるから、ぎりぎりの状態でどうにか身体を維持してそれで誤魔化そうとしてる。
トラファルガーは言い訳を探すみたいに二、三度口を開こうとしたが、言葉を見つけるよりもみるみる盛り上がった涙が転がり落ちる方が早かった。

「何でお前はいつもいつもそんな大事なこと…!」

「…だって…男なんか抱く趣味ねえだろ!女と付き合ってたって言った…!」

「それは、」

「気持ち、悪いって…そんなんで嫌われて捨てられるくらいなら…っ!俺はずっとこのままでいいんだよ!」

血を吐くような悲鳴だと思った。
思わず頬に伸ばそうとした手を払いのけてトラファルガーが後ずさる。拭い損ねた大粒の涙がぼろぼろ零れ落ち、微かな音を立ててフローリングで弾けた。
慰めようとか、そんなこと考えたわけじゃない。多分吐き出すつもりなんて欠片も無かったんだろう、ずっとしまい込んでいた言葉を引きずり出されてトラファルガーは呆然と泣いてた。心臓を掴まれるようなその顔を見たら、ほとんど反射的に腕を伸ばして立ち尽くしてる身体を引き寄せていた。
こいつが暴れるのなんかいつものことで、押さえ込む方の手際も慣れたものだ。ぎゅっと抱きしめて頭や背中を撫でてやったら押し殺していた泣き声が少しずつほどけていって、やがてトラファルガーは俺にしがみ付いて子供みたいに声を上げて泣きじゃくった。


薄暗いと思ったら、窓の外は雨だった。
いつしか二人とも床に座り込んでいて、泣き疲れたトラファルガーがときおり漏らす小さな嗚咽が雨音に混じる。冷たい冬の雨を眺めていると少し肌寒くて、散々泣いて火照ってる腕の中の体温が気持ちよかった。抱き寄せる力を強めるとトラファルガーもすり寄ってきて、狭いアパートの部屋で抱き合ったまま、雨音と水の中を走る車の音を聞いていた。
あったかい涙に濡れた胸元から、小さな声がぽつりと呟く。

「…黒いネコは人気がねえんだ…他に珍しくてきれいな髪色がいくらでもいるから」

「お前の色だって悪くねえぞ?今日は見えねえけど、光に透かすと青っぽいじゃねえか。充分珍しいと思うけど」

「そ…んなの、誰も気付かねえよ。いつまでたっても売れねえから、福引の景品になんかされたんだ。こんなんでも一応ネコだしな…」

「そんな風に言うなよ、少なくとも俺はお前のこと結構気に入ってる」

「ユースタス屋が知らないだけだ…っ、もっと見た目が良くて性格も良いネコなんかたくさんいる!俺は色もこんなんだし、顔立ちが幼いわけでも可愛いわけでもねえし…っ…口開いたって、いつもろくなこと言わねえし…!」

語尾がまた涙に溶ける。

「……俺、せめてメスだったらよかった」

「………」

「…みんなっ、ネコと一緒に暮らしてると幸せだっていうんだ…!…なのに俺は、お前が喜ぶようなこと、なんもできねえし…それにユースタス屋は女が好きなのに…っ、こんなの…お前の負担になってばっか、で…」

ごめん。
絞り出すような悲痛な声でそう言って、気力が尽きたみたいにまた黙ってしまった。
思わずこぼれた溜息に、萎れた耳がびくっと震えて小さくなった身体がますます丸まった。背中をぽんぽん叩きながら名前を呼んでも俯いたまま顔すら上げようとしない。呆れる反面、可愛くて可哀想でしかたなくなった。
ここに来てからずっと、そんなことばかり考えてたんだろうか。
我侭で甘ったれで態度でかくて、それなのに肝心な所では俺に遠慮ばかりしてる。
後ろ付いて回ってあれこれ手伝おうとしたのも、褒めたらあんなに嬉しそうな、ほっとしたみてえな顔してたのも。少しでも気に入られようと必死だったんだろうか。

「負担だなんて思ってねえ」

「…だってユースタス屋は、もともとネコなんて欲しがってなかった…追い出されるかもって、思って、だけど置いてくれるって…だからもう、それだけでいいっ…て、」

「お前はいちいち悪い方に考えすぎだ」

ぐずぐず泣き止まないトラファルガーを抱え上げ、寝室に引っ張り込んでベッドに放り投げた。思い切り背中から倒れこんで短い呻き声が上がる。
文句を言われる前に覆い被さって真上から見下ろすと驚いたように息を呑んで、瞳がこぼれるくらい真ん丸く見開いた眼がこっちを見た。

「ユ、スタス屋…?」

「今までのじゃ全然足りてなかったんだろうが。最後までちゃんとしたら腹いっぱいになるよな?」

「いいっ…そんなことしなくていい!」

「大丈夫だから大人しくしてろ」

「やめろ!しなくていいって、ユースタス屋…!」

力で勝てないのはこいつにだって分かってるはずだ。
押しのけようとする腕を押さえて、ばたつく脚を絡めて、疲れて諦めるまで退いてやる気なんかなかった。「今のうちに思う存分暴れとけ」と囁いたら途方に暮れたような顔をして、緩みきった涙腺がまた涙を滲ませる。蒼い瞳を沈めた小さな海を見ていると、零れていく水に色が付いていないのが不思議な気分になった。
目尻に唇を押し当て、柔らかい睫毛を舌でなぞるとトラファルガーがぎゅっと目をつむる。

「なぁ、俺はこれでもお前のことすっげえ大事だ」

「……っ」

「俺のこと好き?」

「……だい、好き」

初めて会った日から、俺にはお前だけだった。
そう呟いた小さな声まで涙でびしょびしょに濡れていた。

「…だからっ…ユースタス屋の嫌がること、させたくねえ…」

「お前がいなくなんのは絶対嫌だ」

止まることを知らない涙を舐め取りながら、こんなに泣いたらそのうち縮んでなくなっちまうんじゃないかと真面目くさって言ったら、トラファルガーがほんの少しだけ笑った気がした。




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