自宅のアパートに帰り着くと、ネコは上着も脱がずに物珍しげに家中を探検し始めた。とはいっても寝室を入れて二部屋しかないんだからものの五分で飽きたらしい。さっさとソファを陣取って、喉が渇いたと喚きだした。いいからまずはコートを脱げ。

「…烏龍茶とミネラルウォーターとファンタ、どれだ?」

「カフェオレ」

もう何も言わず、冷蔵庫からオレンジ味のファンタを出してグラスに注ぐ。ちょうど一杯分だけ残っていたからキリ良く消費できて何よりだ。グラスを手渡すと何やら不満そうな声が聞こえたが、無視して使い終わったペットボトルを洗った。
ちらりとソファを見遣ると、ネコは大人しくグラスを持ってごくごく中身を飲んでいた。喉が渇いていたのは本当らしい。

「うまいな、これ。シュワってする」

「飲んだことねえのか?」

「ソフトドリンクってあんまり…あ、あれは好きだ、カルピス」

さっきのカフェオレといい、乳製品系が好きなんだろうか。まぁ猫って言うくらいだしな。

「そういえば俺の名前きかねえの?」

「名前?最初からついてんのか?」

「買われる前は専用の施設で人間と同じような生活してるんだぞ、名前ないと不便じゃねえか。トラファルガー・ローだ。特別にローって呼んでもいいぞ」

「…トラファルガーな。俺はユースタス・キッドだ。ていうかお前本当にここで暮らすつもりかよ」

「ユースタス屋が主人なんだから当然だろ。目隠し取ったくせに、初日から俺を路頭に迷わせる気か。この人でなしが」

高々と名乗られたファーストネームを無視した俺を恨めしそうに睨みながら、トラファルガーがさも心外だといわんばかりに吐き捨てる。こいつは何だっていちいち偉そうなんだろうか。目隠しの件は確かに俺の自業自得かもしれねえけど、事前に一言添えなかった電器屋と、さっさと説明書を渡すなり自分で説明するなりしなかったこいつ自身にも責任の一端はあるんじゃねえのか。今更遅いらしいけど。
グラスを綺麗に飲み干すと当然のようにそれを俺に押し付け、今度は腹が減ったと文句を言われた。
ネコって何食うんだと思ったが、どうやら人間食で構わないらしい。お前と同じものでいい、と言ったわりには「シチュー食いたいから作れ。白いやつな」とソファにふんぞり返ったまま要求してくるトラファルガーに、自分の立場というものを一度でいいから顧みてくれと心底思う。同じものでいいって、俺は別にシチューなんか食いたくねえよ。それから牛乳もねえんだよ。
けれどタイミング悪く冷蔵庫の中身も空だったものだから、諦めてトラファルガーを連れて買出しに出るしかなかった。別に留守番してくれても一向に構わないんだが、トラファルガー自身がうるさく付いてきたがったものから仕方ない。

「だってお前、ずっと面倒くさそうだし。誰か友達の家とか転がり込んで帰ってこなかったら、俺のメシはどうなるんだよ」

「…さすがに腹空かしたやつ放置してそんなことしねえよ。あと提案すんな、マジでそうしたくなってきた」

結局食材のほかにもシチューのルーと牛乳を買わされて、げんなりしながら鍋を掻き回す羽目になった。正直疲れていたから、夕飯なんか適当に済ませたかったのに。部屋に漂う注文どおりの匂いにトラファルガーはいたくご機嫌らしく、鼻歌を歌いながらくるくるとテレビのチャンネルを切り替えている。
夕飯の時間をだいぶ過ぎてようやく出来上がったホワイトシチューを深皿にたっぷり盛って出してやると、ひと匙掬って念入りに吹き冷ましてから口に入れていた。見た目どおりの猫舌らしい。ひと口食べて、澄ました顔で「まぁ悪くねえな」などと言っていたが、でかい耳がパタパタ揺れていた。
よく分かんねえけど何となく嬉しそうに食ってるから、多分素直じゃないんだろう。





翌日の目覚めは最悪とまでは言わないが、断じて爽やかではなかった。
まず外はどんより曇っていてそもそも朝か昼か分かんねえし、トラファルガーがソファで寝ることを頑として拒んで、無理やり同じベッドに潜り込んできたものだから、ろくに寝返りも打てなかった身体が凝り固まっている気がする。俺がソファで寝ようかと一瞬思わないでもなかったが、こいつにベッドを譲って自分がソファなんて、何か負けたようで気に食わなかった。どうにも重い体をほぐしながら、意地になったことを少し後悔した。その元凶はいまだに隣で惰眠を貪っている。

「おい、朝だぞ」

「……ん、あと…三十分…」

「あーやっぱいい、そのまま大人しく寝てろ。その方が平和だ」

「…起きる」

天邪鬼にもほどがある。毛布を引っ張り上げてやって俺がベッドを出ようとした途端にのろのろと起きやがった。本心から寝てていいと思ったのに。できれば本物の猫みてえに一日中。
トラファルガーがふらふらと洗面所で顔を洗って、それでも寝ぼけ眼でもそもそトーストを齧っている最中に、玄関でチャイムが鳴った。ちなみに面倒だからトーストを食わせているものの、時間はすでに正午近い。
昨日買った電子レンジが届いたのかと、洗い物を中断して手を拭いている間にドアが開く音がした。ぎょっとして玄関を覗くと、トラファルガーが勝手に扉を開けて誰かと話しているまっ最中だった。ここに訪ねてくる人間でこいつの知り合いなど一人もいないのに、無用心にもほどがある。

「おい、トラファルガー!相手の確認くらい…って、キラーか。いきなりどうした?」

「いや、一応来る前にメールはしたが……それよりキッド…お前これ、ネコじゃないか…?こんな高価ものどこから攫ってきた!?さっさと返して来い!!」

「攫ってねえよ!人聞き悪ぃこと言うな!!むしろ押し付けられて困ってるんだよ!」

憤慨はしたものの、ほんの二、三日前に来たときにはいなかった馬鹿高いことで有名なペットがいたらそりゃあ驚くだろう。本物の犬や猫と違って、その辺に捨てられてて拾ってこれるようなもんでもないし、キラーの勘違いはもっともと言えばもっともだ。
事情を説明すると、蒼白になっていた顔色が戻って安堵したような溜息がつかれた。お前は俺の保護者か。

「よかったじゃないか。そうそう手に入るものでもないんだろう?」

「よくねえよ…口は悪いし態度でけえし、雑誌とかで見るイメージと全然違えんだけど」

「あぁ、飼い主に一途でべったりな生き物と聞いてるが…まぁ個体差もあるんじゃないか」

「個体差ですむレベルかよ。もし欲しけりゃやるぞ、店員も人気あるから喜ばれるって言ってたし」

「……キッド」

低く嗜めるようなキラーの声にハッとなった。ソファを見ると、トラファルガーは端に座って昨日と同じようにテレビを眺めていたが、黒い耳がこっちを向いている。
しまった、と瞬時に後悔した。物みてえにやるだのやらないだの、本人の前で今のはいくらなんでも言いすぎた。

「悪ぃ…」

「俺に謝ってどうする」

「そう…だな」

まぁせいぜい仲良くしろ、と言い残して、キラーはバイトがあるからと帰っていった。
また二人きりに戻った空間が何となく気まずくて、キラーが作りすぎたからと持ってきた惣菜をしまいながらこっそりトラファルガーの様子を窺う。テレビにも飽きたのか、思い切り伸びをしてブツンと電源が落とされた。一気に部屋が静まり返り、ビー玉みたいな蒼い眼がこっちを向いた。俺が何か言う前に、トラファルガーが口を開く。

「別に、さっきの気にしてねえぞ。お前が迷惑がってんの最初から分かってたし」

「いや、それは…」

「…でも、主人ってのは取り消せねえから。なるべく大人しくしてやるから、諦めて俺をここに置け」

相変わらずの命令口調とは裏腹に瞳は伏せられていて、言い終わると同時に唇を噛むトラファルガーに、言い知れぬ罪悪感が込み上げた。
考えてみれば別にこいつが悪いわけじゃない。むしろ勝手に賞品なんかにされて、よりにもよって俺みたいなのに貰われたこいつの方が憐れだった。
本来のネコのショップがどんなものかは知らねえが、少なくともそこだったら欲しがって大事にしてくれる人間に買われたんだろうに。

「ごめん、トラファルガー…さっきのは俺が悪かった」

「別に…気にしてねえって、」

「お前のせいじゃねえし、こうなった以上は面倒見る。その辺に無責任に放り出したりしねえから、そこは心配すんな」

「…あ、たり前だろ。本来ならお前が気軽に買えるようなもんじゃねえんだからな、俺は」

うわ、うぜえ、と内心で思わないでもなかったが、トラファルガーの声がどこかほっとしたようなもので、心なしか萎れていた耳もぴんと立ち上がったから黙っていてやることにした。
素直じゃない同居人ができたと思えばいい。取り澄ましている本人に耳のことを指摘したら盛大に切れられそうだから、結局俺が寛大な心で口を噤むしかないのだ。




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