ひんやりしたものが額や頬に触れて、意識が浮上する。

相変わらず頭も身体も重くて、自分が眠っていたのだと理解するまでに些かのブランクがあった。覚醒しきっていないままに、目の前にあった掌に無意識にすり寄ると、すぐ側で小さく笑う気配がする。火照った頬にひやりと冷たい感覚が気持ちよかった。
先生、と呼ぶ声と、そっと肩を揺する手にローはぼんやりと視線を上げる。
霞の掛かったような思考ではうまく情報が処理できず、何もかもが遠く感じる中で、赤い色ばかりが鮮やかだ。

「起きられそうか?」

問われた内容はろくに頭に入ってこなかったが、気遣わしげな声にとりあえず頷いた。
キッドがそっと頬を撫でてやると、潤んだ瞳はそのまま閉じてしまいそうになる。「ほら先生、ちょっとだけ頑張って」眠たいのか熱に浮かされているのか、ふわふわとした視線を彷徨わせたまま動かないローの背中を支えて起き上がらせた。さっきより、また少し熱が上がっているようだった。
部屋には暖房が入っていたが、それでもベッドの中との温度差に震える薄い肩にカーディガンを羽織らせる。

「簡単なもん作ってみたけど、食えそう?」

小さな鍋の蓋を開け、卵と野菜の入った粥をよそいながらローに声を掛けるが、相変わらず反応は鈍い。
キッドは特に気にすることもなく、れんげに掬った粥を少し冷ましてローの口元に差し出した。

「センセ、口開けて」

「…いらねえ…食欲、ねえし」

「昨日の夜も食わなかっただろ。ちょっとでも腹に入れねえと…これ嫌ならリンゴでも摩り下ろしてくるけど、それじゃ栄養足りねえし、一口でもいいから食えねえ?」

「…これ、お前が作ったのか?」

「ほとんど一人暮らしみてえなもんだしな。料理は結構得意だけど……やっぱり、俺の作ったもんなんか嫌?」

「違っ…そういう意味じゃ…!」

しおらしく項垂れてみせると、ローはあっさりと思惑に乗って焦った声で否定した。
ほんの半日前に手酷い目にあったくせに、こんなにほだされやすくて一体どうするつもりなんだろうかと少し呆れる。お人好しというか、どこか抜けているというか、今みたいに頭が鈍っていなくたってこの人は同じ反応をするだろうという確信がキッドにはあった。
「全部は…食えねえと思うけど、」そう言いながらも、差し出されたれんげに素直に口を付けるローは、結局のところ底抜けに甘いのだ。付け込む隙なんていくらでもあって、その甘さが自分ひとりに向けられているわけではないことが、キッドは何よりも気に食わなかった。

「もう一口。ほら、あーんてして」

「じ、自分で、」

「いいだろこれくらい、俺がしたいんだから」

譲らずに半ば強引にれんげで唇を割り開くキッドに、ローは居た堪れないという顔をしながら少しずつ粥を含んで嚥下していった。
かなりの時間を掛けてようやく半分を食べ終え、キッチンに食器を片付けたキッドに、今度は温かいレモネードを手渡される。市販のシロップの味ではないから、これもキッドが作ったのだろう。蜂蜜を溶かした液体が傷んだ喉をすべり落ち、思っていた以上に渇いていたローは大振りのマグにたっぷりのレモネードを飲み干してほっと息をついた。
少し眠って胃に物を入れたおかげか、気分は大分ましになっていた。

「もう少し飲むか?」

「いい、ありがと。もう腹一杯だから…」

「じゃあもうちょっと寝てて。まだ熱下がってねえし」

再びローをベッドに押し込み、キッドは音楽プレーヤーと雑誌を持ってその隣に潜り込んだ。
同じベッドという状況にか、ローはひどく緊張した面持ちでこっちを窺っていたが、イヤフォンを装着して壁にもたれ、膝の上に広げた雑誌に目を落とすと、細く息をついて身体の力を抜くのが伝わってきた。雑誌は既にあらかた目を通したものだったが、こうして意識を逸らした方がローは安心するだろう。
布団の上からぽんぽんとローの身体を叩いてやれば、まるで小さな子供そのままに目が閉じられる。


とろとろと眠って、中途半端に目が覚めて、どっちつかずの繰り返しだった。
キッドはずっと隣にいて、ときおり熱を測ったりそっと頭を撫でてくれた。二度か三度、背中を支えられて水を含まされた気がする。曖昧に濁った意識では夢と現の境目がよく分からなかったが。
濡れた唇の端を舐められて抗議しなければと思うのに、啄ばむように繰り返される口付けををぼんやり数えているうちに、また眠りの淵に沈んでいく。


再びローが揺り起こされた頃には、日が暮れて枕元のサイドランプが灯されていた。
一体何時間眠っていたのだろうか。寝起き特有の気だるさはあるものの疲労感は大分消えている。
随分汗をかいたらしく、湿っぽい服が気持ち悪かった。

「気分はどうだ?もう夜だけど」

「…シャワー浴びたい…ベタベタする」

「身体拭いて着替え出すから、それは明日な」

言いながらローの服に手を掛けた途端、思いがけない力で振り払われた。
無意識だったらしく、「あ、」と小さな声を上げて固まったローは、行き場を失くしたままのキッドの手を見ておそらくは謝罪を口にしようとしたのだろうが、結局は音にならなかった。うろたえたように視線を彷徨わせ、震えだした身体を自分の両腕で抱えている。

「先生」

「…っ、」

「俺のこと怖い?」

別に返事を期待していたわけではなかった。
湯に浸したタオルを絞って手渡し、自分でできる?と訊ねると、また強引に押し切られると思っていたのか、ローは一瞬ぽかんと呆けてそれから慌てて頷いた。
食事を持ってくるからと言い残して部屋を出たキッドは、後ろ手に閉じた扉に凭れ溜息をついた。扉一枚隔てた向こうから、かすかな衣擦れと水の音が聞こえてきた。閉じた瞼の裏にはローの怯えた表情が焼きついている。

ずいぶんな怖がりようだった。
無理もないと思う。服を剥いで押さえ付けて、泣き喚いても懇願されても耳を貸さなかった。きっとローにとっては、今までの人生でも最悪の部類に入る経験だ。
罪悪感が全くないといえば嘘になる。しかし罪悪感でいっぱいかと聞かれたら、それもまた否定するしかなかった。
実のところ、ローに拒絶されたからといって、キッドはさほど傷付いたわけでもないのだ。
見ているだけしかできないことに慣れてしまったせいかもしれない。何度諦めようと思ったかも分からない。ローがキッドを気に掛けるたび、嬉しいと思うと同時に、ひどく凶暴で投げやりな気分にもなった。

生徒としてしか見てくれないくせに。
好きだといって抱きしめたら、きっと裏切られたような顔をして振り払われたのだろう。そんなこと考えもしなかったというように。

教師としてのローの関心など、キッドにとっては無関心にも等しかった。
何にも繋がらない空っぽのそれに比べたら、拒絶も嫌悪もいくらかはましな気がしている。
ローが何を思っていようが、少なくとも今は、他の誰でもないキッドの元にいる。手を伸ばせば届くのだ。
それだけでも、それなりに満足できた。




部屋に戻るとローは着替えを済ませていて、ぎこちなさは残るもののひとまずは落ち着いているように見えた。
遅めの夕食を、また一口ずつキッドの手から食べさせていく。嫌がっても聞き入れられないと散々学習したローは半ば諦め気味だった。
しかし片づけを終えた後にベッドに入ってきて、「先生、ちょっと詰めて」と言うなり早々に電気を消されたときには、さすがに狼狽を隠せなかった。昨晩、気を失うように眠った後のことは分からなかったが、少なくとも目が覚めたときは一人きりだったのに。

「ユースタス屋…一緒に寝るのか?」

「うん、駄目?」

「だ、駄目じゃ…ないけどっ……でも、その、」

「分かってるよ、何もしねえって約束する。一人にしとくの心配なだけだから。夜中に苦しくなったり欲しい物とかあったら、遠慮しないで起こしてな」

「……ん、分かった」

隣でキッドが身じろいだと思ったら、ローの身体はあっという間に腕の中に引っ張り込まれていた。
驚いて押しのけようとしても力では敵わず、脚を絡めてすっぽり抱き込まれ、宥めるように背中をぽんぽんと叩かれる。

「おやすみ、センセ」

何もしないといったくせに。
早々に約束を破って正面から唇が触れ合い、柔らかく食まれた。
眠りすぎていたローに睡魔が訪れたのは、キッドがすっかり熟睡した一時間も後のことだった。




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