『おやすみなさい、また明日』の続き)






全身が重くてだるかった。
血液の代わりに泥でも詰まっているんじゃないかと思うくらいで、指先ひとつ満足に動かない。泣きすぎたせいなのか頭の芯も熱っぽくて鈍く痛む。
身体は睡眠を欲していたけれど、喉がカラカラに渇いていてローは重い瞼をこじ開けた。

「……ここ、って…?」

声が掠れていて呼吸をするとひりひり痛む。
ひとつふたつ咳をして部屋を見回したが、まるで見覚えがない。
ローが寝かされていたのはリビングのソファではなく、いつの間にか清潔なシーツが掛けられたベッドでふかふかの毛布と掛け布団にくるまれていた。パジャマ代わりなのか、見覚えのない薄手の服を着せられている。やや袖が余るサイズからしてキッドのものだろうかと、血の巡らない頭でそこまで考えて、はっと我に返った。
そうだった、何をぼんやりしているのか。ここは多分まだキッドの家だ。
眠りにつく直前までのことを思い出した途端、全身ががたがたと震えだした。極度の疲労に埋もれていた痛みがぶり返してくる。

まだ子供だと思っていたのに、触れてくる手は自分より大きかった。
ろくに暴れることすら叶わなかった拘束する力の強さを思い出す。
痛くて苦しくてしかたなかった。今だって痛い。
あんなに酷くしたくせに好きだと言われた。帰さないとも。

考えれば考えるほど頭が痛んだ。息が苦しくて、空気が粘りを持っているような気さえする。
それでも、震えの止まらない身体を叱咤してローはベッドから這い出した。
少なくとも今この部屋にキッドはいない。耳を澄ませても自分の荒い呼吸がうるさいばかりで、扉の向こうに人の気配がしなかった。時計は見当たらなかったが、カーテンの隙間から見える窓の外は薄らと明るい。ようやく夜明けといったところだろうか。
キッドはこの家にいないのか、それとも別の部屋で眠っているのか、とにかくここを出るなら今しかない。
ほんの少し動くだけで身体が軋んだ。
下肢は確かに痛むのに、冷たい床を踏みしめる感触はどこか遠い。一歩ずつ足を動かすというただそれだけの行為がひどくぎこちなくて、ともすればバランスを崩しそうになる。
すぐそこに見えている部屋の扉が遠く感じて、玄関まではもっと遠かった。
途中、おそるおそる覗いたリビングには、着てきた服も荷物も見当たらなかった。財布も鍵も入っていたそれらに少し躊躇ったけれど、とりあえずここを出るのが優先だと諦めた。
タクシーでも拾って自宅のマンションに着いてしまえばどうにかなる。早朝だが、事情を話せば鍵を開けてもらえるだろうし、それから料金を払ってとにかく眠ってしまえばいい。何かを考えるのも忘れるのも、そのあとだ。
極力音を立てないように鍵を開け、扉に掛かったチェーンを外す。冷たいドアノブに手を掛け、そろりと手前に引いた。
これでやっと帰れる。
そればかり考えていたローは、びくともしないドアを前にしても一瞬事態が飲み込めなかった。

「え……開か、ない…?鍵、これだよな…なんで…!」

逆方向に鍵を回しても扉は頑として開かない。
ひとつきりしかない鍵なのに、なんで。
まるで閉じ込められたような恐怖とパニックで泣き出しそうになりながら、音を立てないようにしていたことも忘れ、ガチャガチャと乱暴にドアノブを揺らす。
ここから出なければいけないのに。半分恐慌状態にあったローは、近付く足音にもまるで気付かなかった。

「何してんの、センセ。こんな朝早くから」

「っ――…!」

突然背中に圧し掛かった重さに、間違いなく心臓が止まりかけた。中途半端に吸い込んだ息がひゅっと音を立てて途切れ、頭のてっぺんから爪先まできれいに硬直したローの姿があまりにも予想通りで、キッドは思わず苦笑を漏らした。
寒い玄関で薄着のままなのに気付き、抱き寄せる力を強めると、ようやく思考が追いついたのか、ドアノブを握ったままのローがかたかたと震え出す。

「あぁそれ、開かねえぞ?ドアに備え付けの鍵とカードキーは別々だから」

「…え…?」

「二重に施錠できるっつうか、カードキーでロック掛けると、中からドアの鍵だけ捻っても開かないんだよ。もう一回カード読み込ませねえと駄目なわけ。逆にアナログの鍵使って掛けたらカードじゃ開かねえの。面倒だから普段は片方しか使わねえんだけど、今日は両方掛けておいた」

先生カードキー持ってねえから、無理。
嘲笑うでも怒るでもなく、ローの手を取ってやんわりとドアから引き離しながら淡々と事実のみを伝える。
実際、ここから黙って出て行こうとしたローに、キッドは別段怒ってなどいなかった。もともと騙すような形で連れ込んだのだ、至極当然だと思っている。さすがにこんなに早い時間に起きてくるとは思わなかったが。
「…これ、開かねえのか…?」ショックが大きかったのか、呆然としたローの声は子供のように少し舌足らずだ。

「そうだな、俺が開けないと無理。ごめんなセンセイ」

「…嘘、だろ」

往生際悪くガタンとドアノブを引っ張ったローの眼に、みるみる大粒の涙が盛り上がっていく。
涙腺が壊れてしまったのだろうか。昨日から本当に泣いてばかりだ。
強張った頬に宥めるようにひとつ口付けると、転がり落ちた涙がキッドの唇を濡らした。触れるだけだった短いキスが、離れる瞬間に小さな水音を残していく。

「もうちょっと寝れば?まだ六時前だぞ」

ローの足元に屈んで靴を脱がせ、腕を引いて寝室に戻るよう促すが、抵抗こそないものの一向に動こうとしない。
ぐす、と涙の気配を残すローがあんまりにも辛そうな顔をしていて、こうなるとは予想していたけれど少し困った。どうやって慰めようかと逡巡しながら濡れた目許を指先で拭ってやり、そこでふと体温の高さに気付く。
泣いているせいだとしてもやけに熱い。そういえば抱きしめた身体も、キッドの方が暖を取れるくらいに温かかった。こんな薄着で寒い所にいたのに。

「先生、ちょっといい?」

ぺたりと掌で額に触れる。なすがまま、ぼんやりと見上げてくるローの頬を両手で包み、首筋まで順にぺたぺたと触れてキッドは眉を顰めた。

「やっぱり熱出てる」

「…熱…?そういえばなんか…頭ふらふらするかも」

「昨日無理させたもんな。早くベッド戻らねえと」

「だったら家で寝る…!いいから帰せって何回言ったら…!」

「それは駄目だって、先生も聞き分け悪いな。何もしねえから、頼むからイイコで寝てて、な?」

ローは嫌がってぐずったが、ただでさえ昨日から消耗しきっている身体でキッドに勝てるはずもなく、結局は宥めすかされながらも半ば強引にベッドに押し込まれた。
鼻先まで毛布を引っ張り上げられ、暴れるなよ、と釘を刺されて体温計で熱を測られる。

「七度五分…そこまで高くはねえけど、頭とか喉とか痛い?」

不貞腐れて枕に顔を埋めたまま、ローが首を振って否定を示す。少しの間を置いて「…喉はちょっとひりひりする」と訴えが追加された。昨晩酷使しすぎたせいだろうか、確かに声が少し掠れていた。
風邪というより、身体に負担を掛けすぎた疲労からの発熱だろうと見当をつけ、背を向けて丸くなっているローの頭を撫でる。
「俺、いないほうがゆっくり寝れるか?」ローは何も答えなかったが、布団の塊がびくりと動いて小さくなっていた身体がいっそう丸まるのが分かった。意地の悪い質問だったとキッドは苦笑する。昨日の今日で気持ちの整理がつくはずもないのに。
こんなに疲労しきっていなかったら、ローは今頃もっと取り乱すか激昂していたかもしれない。

「隣の部屋にいるから何かあったら呼んでな」

くしゃくしゃと髪をかき回され、つむじに唇が落とされる感覚を、ローはきつく目を瞑って気付かないふりを通した。



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