とりあえず、と気を取り直して立ち上がったのは五分後のことだった。キッドにしては切り替えに随分時間の掛かったほうだ。
グランドラインに入ったからには常識を捨てろと口を酸っぱくして言われてきたが、どうやらグランドラインではないここでそれを適用していいものか否か、たっぷり五分悩んで、キッドはこれを夢だと結論付けた。非常識を通り越して、あまりにも非現実的だ。それにもっと差し迫った問題として、キッドは空腹で凍えていた。

何処か食事のできる場所は、と訊ねると、この先をずっと行くと町に出ると教えられた。自分も買い物に行く途中だったいうローを片腕に抱き上げて、雪の深い木々の群れを縫って歩いた。子供の足でこの銀世界を渡りきるのは大変だと思ったのだ。
高い視点にはしゃぐ幼いローには成長後のあの陰鬱さの欠片も窺えず、時間と環境と経験というものはまったく恐ろしいとキッドは心の底から思った。もっともキッドも大概他人のことは言えない身の上だが。
キッド達のいた林は小高い丘の上にあったらしい。十五分ほど進むと、開けた坂の下にそれなりの規模の町が見えた。
すっかり懐いて降りようとしないローに道案内をされながら、賑わう食堂で早めの昼食をとった。
十年以上も遡ったからには当然といえば当然だが、ここには誰一人として海賊であるユースタス・キッドを知る者はいない。コートの前を掻き合わせてホルダーに納まった武器を隠してしまえば、無邪気な幼子を連れているせいもあって、少々身なりの派手なただの青年でまかり通った。
高すぎる椅子のせいで床に付かない足を揺らしながら、ローはキッドの向かいで挽肉と野菜の詰まったパイを半分だけ食べ、硬めに焼き上げたパンを千切ってチキンベースのスープに浸している。相変わらずどうにも食が細いやつだと呆れ、キッドは店員を呼びつけて子供の好きそうな甘いプディングを追加で注文した。湯気を立てる焼き立ての菓子にローは目を輝かせたが、かなり奮闘しても結局運ばれてきた厚切りの一切れを三分の二しか食べられなかった。申し訳なさそうにお腹がいっぱいだと告げるローに苦笑して、キッドは残ったパイと菓子をそれぞれ二口で平らげた。
腹を満たしてポケットに捻じ込んであった紙幣で支払いを済ませたあと、買い物をしなければと真面目な顔で言うローと手を繋いで町を歩き回った。
何を買うのかと聞いたら、食材や油や調味料だと胸を張って答えるから、そんな重そうな物を普段どうやって持ち帰っているのかと心配になったが、食料品店は顔馴染みらしく注文をリストに記入しただけで店を出た。あとで届けてくれるのだという。

「お前ひとりで暮らしてんだよな?」

「うん、前はひとりじゃなかったけど」

ローの声からは何の感情も窺えず、そうか、とだけ言って手を握り直した。
キッドはまだこれがいやにリアルな夢だという思いを捨てきってはいなかったが、たとえ夢であっても、無防備なローに付け込んで彼の個人的な何かを聞き出すというのはいただけなかった。夢が覚めて、現実の可愛げのないトラファルガー・ローに会ったとき、キッドはそれが本当がどうかなど到底聞けないのだ。かといって幼いローの言葉をすべて無かったことにできる自信もなかった。

何がそんなに楽しいのか、キッドの手を引っ張ってあちらこちらへ案内しながら、ローは始終にこにこしていた。
メインストリートには大きな書店と、少し離れた場所にも図書館があって、町の規模に比すればなかなかに立派なそれらは特にお気に入りらしかった。面白かった、と捲くし立てられる書名には、とても子供向けとは思えないものも混じっていたけれど。
当てもなく町中を見物して回ったが、ふと後ろに手を引かれて、ローが立ち止まったことに気付いた。軽い身体をうっかり引きずりそうになって慌てて踏みとどまる。
大きなショーウィンドウの向こうを眺めていたローは、どうした?と掛けられた声に慌てて何でもないと首を振った。

「あれか?欲しいのか」

「え…べ、つに、そんなんじゃない」

「そういや白熊好きだもんな」

分かりやすい否定を気にも留めず、キッドーはローの手を引いておもちゃ屋の扉をくぐった。チリ、チリン、とベルが鳴り、店内の幼い子供たちの喧騒が耳に飛び込む。
ぬいぐるみの積まれた一角に歩み寄り、首にリボンを付けたひときわ大きな白熊を掴んでローに押し付けた。

「わっ…!」

「隣に茶色いのもいるけど」

ようやく両腕が回るほどの熊の胴体を抱え、白いのが好き、と首を振る子供を連れてカウンターで支払いを済ませた。ねだってしまったと思ったのか、少し申し訳なさそうに礼を言うローの頭を撫でて、ともすれば引きずってしまいそうなぬいぐるみを持ってやろうと手を出したが、よほど気に入ったのか、自分で持てる、と抱きしめる力を強くする。
俺が名前付けていい?と嬉しそうに聞くローに、好きにしろと返して家路に着いた。
太陽が傾いて、気温がいっそう下がっていた。

町から離れるごとに深くなっていく雪道にまたローを抱き上げ、しかし大きな熊がおまけにくっついてくるせいでどうにも視界が狭い。キッドは足元に意識を向けながら慣れない雪をひたすら踏みしめ、ローは先ほどから黙りこくってじっと何かを考えている。十中八九白熊の名前だろう。真剣な横顔は可愛らしかったが、相変わらず白熊ばかりを溺愛するものだと大人気ない気分にもなって、そこでキッドはふいに、トラファルガーに会いたい、と思った。あの皮肉げな笑みばかり浮かべる、素直さの欠片もないトラファルガー・ローがひどく懐かしかった。ほんの一日前にあの痩せっぽちの身体を抱きしめて眠ったはずなのに、もう何ヶ月も体温を忘れていたような気がした。腕に抱えた小さなローはキッドのよく知るローよりも随分と温かくて、そのぬくもりとは裏腹になんとなく薄ら寒い気分になる。

「ベポ」

突然ローが呟いた。沈黙を破ったそれは唐突ともいえたが、何を指す言葉かキッドには十分に理解できた。
「ベポにする!良い名前だろ!」はしゃぐローに「あぁ、そりゃあ付き合いの長そうな良い名前だ」と幾許かの皮肉を込めて褒めたが、当然通じるはずもなく、機嫌のいいローはにこにことベポに頬擦りをしている。

「おにいちゃんは?」

「俺…?」

「名前、まだきいてない」

言われてみれば、とキッドは呆れた。今更ローを相手に名乗るなど考えもしなかったのだ。
じゃあこいつは名前も知らない大人に一日連れ回されていたのかと思うと、あまりの無用心に説教の一つもしてやらねばならないと思ったが、大人しく返事を待つローと、見覚えのある踏み荒らされた雪に叱り付ける言葉を飲み込んだ。
気付けば最初にキッドが倒れていた場所に戻っていた。

「ユースタス・キッドだ」

「ユースタス屋」

「…やっぱりガキの頃からの癖なんだな、その呼び方」

抱いていたローを雪の上に降ろす。
サクリと雪に埋まる足元を不思議そうに見て、ユースタス屋?とローは首を傾げた。

「帰り道、ちゃんと分かるよな?」

「うん、ユースタス屋は?一緒に来ないのか?」

「そろそろ戻らなきゃならねえ頃だと思う。なんだかさっきから眠いからな」

ユースタス屋、ローが自分を呼ぶ声がところどころ二重に聞こえる。子供の声に混じるのは、キッドのよく知る低い男の声だ。
ようやくか、と思った。夢にしたってずいぶん長かった。そう悪くない夢だったが、覚めないならただの悪夢だ。スタート地点のこの場所に戻ったとたん頭の芯を鈍く揺らすような眠気が襲ってきて、正直に言ってほっとした。

「…ユースタス屋、帰るのか?」

「あぁ、そうだな…馬鹿、そんな顔すんな。二度と会えねえわけじゃねえんだ」

「またここに来る?」

「いや、ここには多分来れねえと思う。けどお前が大人になったときにまた会えるから」

「……うそだ」

「嘘じゃねえって。あー…困ったな…なんて説明すりゃいいんだ」

蒼い瞳に盛り上がった涙を懸命に零すまいとしているローの姿に、ガシガシと乱暴に髪を乱しキッドは困り果てて空を仰ぐ。
説明など、キッド自身が誰かに求めたかった。すべては理解の外なのだ。けれど夢でしかないはずのこの場所が、いつかどこかの未来で自分とローを繋ぐのだと、ただそれだけの確信があった。

「トラファルガー。今のお前に納得するような説明はしてやれねえけど、俺の名前をちゃんと覚えておけ」

「ユー…スタス、屋?」

「そうだ、忘れんなよ?そうしたらお前はちゃんと俺に会える。それでな、その…会ったとき、俺は何も覚えてなくて色々口先で嫌がるかも知れねえけど…気にしねえでお前の好きなようにやれ」

「ユ、スタス屋は…俺のこと忘れるのか?」

「そうじゃねえんだけど…でもお前がその時に俺のこと好きだったら、時間が掛かってもちゃんと応えてやれるから。今はこれしか約束できねえけど、絶対だ」

「…うん、分かった」

抗えないほどの眠気にキッドは堪らず膝を付いた。
ローが背伸びをして首にしがみ付いてくる。雪の上に放り出されてしまったベポに苦笑して、徐々に霞のかかっていく意識の中で柔らかな頬にひとつだけキスしてやると、別れを悟った子供は今度こそ涙を零してしゃくりあげた。




「#エロ」のBL小説を読む
BL小説 BLove
- ナノ -