(キャスケットさん捏造だらけ)



「…俺とお前の心臓、交換しちまおうか」

平坦な、温度のない声だった。
紺碧のはずのローの瞳が今は塗り潰されたような闇色で、キャスケットはいやな具合に溜まった唾液を飲み下す。喉がカラカラで、粘膜が貼り付くような感覚が不快だった。
しかしローの言葉は彼に向けられたものではない。底の読めない瞳は、医務室のベッドにいる男を見据えていた。

「なぁ、ペンギン。悪くねえだろ?お前の寄越せ。代わりに俺のをくれてやるから」

口元はかすかに笑っている気がする。けれど抑揚のない声は、ローが冗談や酔狂で言っているのではないのだと知らしめていた。万に一つペンギンが頷けば、この場で刀を抜いてしまうかもしれない。肋骨ごと肉を切り開いてあたたかい血潮の源が取り出される光景は、手を伸ばせばすぐにでも届く場所に転がっている。
正気の沙汰ではないと思うのに、間に割って入ることができなかった。
ローと、ペンギンと、キャスケットと。三人が等しく共有しているはずのこの部屋は、それぞれの前に薄いガラスを張ったようだった。もっと正確に言えば、キャスケットだけがあとの二人から取り残されて途方に暮れていた。今のローはペンギンしか見てはおらず、ペンギンは基本的にいつだって自分の船長しか見ていない。

「…何を言っているのか分からない。そんなことをして一体何の意味がある?」

「意味?意味だと?さぁな…ただお前が要らなさそうだから、引き取ってやろうと思っただけだ」

「…ロー、怒っているのか…?俺は、」

「黙れ」

命令することに慣れた声は、一切の反論を許さない圧力を持っている。
氷点下の怒りを投げつけられたペンギンが身を強張らせ、それでも尚なにかを言おうとしたが、発作的に込み上げた激しい咳に一切が押し込められた。口元を押さえていた掌に血がついている。肺が傷付いているのだ。
すまない、と謝るペンギンの掠れた声に、深淵のように翳っていたローの瞳が僅かに揺らぐ。
その色だけで、表面上は氷のように冷たいローがその内ではひどく動揺して荒れているのが分かった。
ペンギンには分からなくとも、キャスケットには手に取るように分かってしまった。
今のローはまるで真冬の嵐だった。

戦闘中、ペンギンがローを庇って負傷した。
それだけならローもここまで怒り狂いはしなかったかもしれない。
だがペンギンの居た場所からでは、どう考えても攻撃を受ける瞬間には間に合わなかった。足りない時間の帳尻を合わすべく、攻撃も抵抗も一切を放棄して、ただローの盾になったのだ。邪魔になる武器をその場に放り捨て、目の前の敵を倒すでもなく銃弾と刃の嵐にただ突っ込んで、その時点で充分すぎる重傷を負いながら瀬戸際でローを突き飛ばし、そしてそのまま身代わりになった。
全てはたった数瞬の間に終わり、血塗れで投げ出されたペンギンが目を覚ますまで、ローは一言も喋らなかった。
無我夢中だったであろうペンギンが、悠長に『死んでも構わない』などと考えて行動したわけではないだろう。
けれどローはそう受け取ったし、誰の目から見ても弁解の余地などなかった。

「ガラクタみてえに捨てられるんだもんなぁ…だったら心臓のひとつも引きずり出して、代わりに俺のを入れてやったらもう少しくらいは大事に守れるんじゃねえか、なぁ?」

ペンギンは何か言いたそうだったが結局黙ってうなだれただけで、些かの感情を覗かせていたローの瞳もまた深淵へと潜ってしまった。
部屋を満たす重苦しい沈黙に、困ったな、とキャスケットはこっそり溜息をつく。
本当に困った。この場で庇ってやるとしたらペンギンの方だろう。ローをとりなして、赦しを乞うてやればいい。
けれどたったそれだけのことが、今のキャスケットにはできないのだ。
たとえ形だけだとしても、ローを嗜める気になど到底なれない。庇ってやらなければと頭では思うのに、ペンギンに対して溶けた鉛にも似た怒りを抱いている。
氷のように頑なになりながらも、ローはひどく傷ついていた。
嵐の海のように荒れて、怒り、後悔して、そしてなにより傷ついていた。
ペンギンにはその痛みの深さが分からないのだ。
きっとロー本人と、キャスケットにしか分からない。




キャスケットの色素の薄い瞳は陽の光に弱くて、明るい所ではサングラスを手放せなかった。
その代わり、なのだろうか。やや不自由な視界を補うように、子供の頃から気配や雰囲気のようなものを読むのが得意だった。ある程度の範囲の中なら人や動物のうごめく気配が分かったし、すぐ側にいる人間の気持ちがなんとなく伝わってきた。成長するにつれてその精度は少しずつ上がっていき、同時に自分が普通ではなく、そのことを無闇に人に言ってはいけないと悟った。
グランドラインに入って、それが覇気と呼ばれるものの一種であることを知った。

「見聞色だろうな。まだまだ研ぎ澄ます余地はありそうだが」

思考が読めるというほど明晰ではないにしろ、側にいるだけで感情の流れやある程度の思いは伝わってしまうというのに、感心したようなローの声には嫌悪も拒絶も滲んでいなくて、涙が出そうなほど安堵したのを覚えている。
他人に対して壁を作ることに慣れたキャスケットが本当にローに心を許したのは、多分このときからだった。




無言で医務室を出てしまったローを追って出た甲板は、冷たい夜風に吹き晒されていてお世辞にも居心地がいいとは言えない。
飛ばされそうな帽子のつばを押さえ、ローは黙りこくったまま船縁から夜の海を見下ろしている。

「…船長、ひどい顔してますよ」

「してねえよ」

「してますよ。俺には分かるんですってば」

どうせ夜だからと、少しでも視界がクリアになるようにサングラスを外した。真昼の光に弱い分、キャスケットは夜目が利く。
視界が遮られていると伝わる気配が濃くなるのだ。荒れたローの内面を直視するには、この冷たい甲板ではあまりに寒々しかった。

「そんな顔するくらいなら、仲直りしてきたらどうですか?」

「別に喧嘩してねえし」

「そりゃ、あんなのは喧嘩って言わないですけどね…ペンギンは責められても仕方ないかもしれませんけど、あいつが悪いわけじゃないですよ。守られるのはしょうがないでしょう。だって船長なんだから」

「知らねえよ」

「…子供ですか、あんたは」

それきり会話は途切れ、波間に揺れる月明かりをただ黙って眺めていた。凍えそうな夜の中でも変わらないパーカー一枚の姿に、これならいっそ船内から出られないよう海に潜ってくれればよかったと、少しだけ航海士を恨めしく思った。
長い長い沈黙の後、ふいにローが口を開く。
「なぁ、キャス…俺は怒ってんのか?」ポツリと転がったのは、なんとも奇妙な質問だった。
肯定も否定もできたが、迷いに迷って、結局キャスケットはそのどちらも選べなかった。
怒っているのかどうか。それがペンギンに対してなのか、他の何かなのか。そもそもその感情を怒りと括っていいものか。
おそらくローは本当に途方に暮れていて、こんな素直で似合わないことを聞いてきたのだろう。
俺は翻訳機じゃないんですよ。よほどそう皮肉を言ってやろうと思ったが、思いのほか弱っているローに追い討ちを掛けるのは憚られた。

「…そんな事も分かんなくなるくらいボロボロなんですよ。今日はもう寝ちまって下さい。あんたも、ペンギンもです」




ローとペンギンは、互いに半身のようなものなのだろう。
似ているとは思わない。真逆なのだ。合わせ鏡のように。
欠けた部分を埋めて、足りないものを補って、そしてなにより二人は近すぎた。半身であるが故に近すぎて、焦点すらぼけてしまうんじゃないかと思った。確かに向き合って喋っているのに、互いの姿はちゃんと見えているんだろうかと時々うすら寒くなる。
キャスケットはどちらかというと、離れた場所からこの二人を眺めていることが多かった。
数歩離れた場所から見ると、何もかもが良く分かるものだ。
おそらく当人たちよりもずっと。




「船長」

船内へ入ろうとしていたローの背に投げたのは呟くにも等しい声量で、気付かれなければそれでも構わなかったが、ローは足を止めてこちらを振り向く。
聞いてみたいことがあった。
けれども、この人が気付かずに行ってしまえばよかったとも思った。

「実際のところ、交換したかったんですか?」

「…あ?」

「心臓」

あるいは罵声が飛んでくるかもしれないと覚悟した上での問いだったが、キャスケットの剥き出しの瞳を珍しそうに覗き込んで、ローは静かに瞬いただけだった。

「お前でも分かんねえのか」

「別に俺は船長の頭の中が覗けるわけじゃないんですけどね」

「そうだったな…相変わらず、中途半端でかわいいやつだ」

失礼なことを言って、ローは口元だけをほころばせて笑った。皮肉げな、慈しむような、どこか困ったような笑みだった。
それきり遠ざかる足音を聞きながら、返ってこない答えにキャスケットは数度目の溜息をつく。
本当に、どうしょうもない人たちだ。




数日後、一人で立って動けるほどに回復したペンギンは、以前と何ひとつ変わらずローに接している。ローも別段わだかまりを抱えている様子はない。
常と変わらない二人を見て、船員たちは揃って胸を撫で下ろした。それほどまでにあのときのローは近寄りがたかったのだ。

あの夜、休むよう促したにもかかわらず、あの後ローが医務室に戻ったことを知っている。
長い長い夜の間にあの二人が何を話したのか。
或いは一言も喋らずただそこにいたのだろうか。
それはキャスケットの与り知るところではなかったが、こればかりは歩み寄る場所などないと思っている。立場の違いは主張の違いで、きっとなにも解決などしていない。ローの痛みの深さをペンギンは知らないままだ。
それすらも丸ごと呑み込んで、あの二人は日常の喧騒に戻ったのだろう。

今までだって決して口には出さなかったけれど、全く救いようがない人たちだと嘆きたくなることはあった。
けれど何処かで羨んでいるのも事実だった。
どんなに望んでも、きっとペンギン以外の人間があそこに立つことはできないのだ。あの完結した世界に踏み込もうなどと、狂気の沙汰でしかない。
自分が一度たりともそんな大それた望みを持たなかったことを、キャスケットは幸いだと思っている。
そして万に一つでもそれを願ってしまうことを、何よりも恐れていた。




窓の外は深い色をした水ばかりで、等間隔に据えられたランプが薄暗い船内を照らしていた。針路の相談だろうか、船内の一角でローは海図を広げ、ペンギンはそれに相槌を打っている。
何事もなかったかのように寄り添って立つ二人を眺めてぼんやりと考えた。
結局、あの二人は心臓を交換したのだろうか。




神を見知らぬ者たちよ


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