タクシーに揺られている間も、ローが何度か利用したことのあるホテルに連れ込むときも、キッドはほとんど何も喋らなかった。部屋の写真の並んだパネルの前で「どれがいい?」と尋ねても、不機嫌さの拭えていない顔で手近なボタンを無造作に押し、カードキーを掴んでさっさにエレベーターに向かってしまう。その背中を追いながら、結局こいつはノーマルなのかゲイなのか、バイセクシュアルなのか、と今更すぎる疑問が浮かんだ。これからセックスをする直前になって考えることでもないのだが、それくらい、ローはこの男のことを何も知らない。

「風呂、ガラスのやつが好きなのか」

「は…?知るか、見てねえよ。別にどの部屋でも変わんねえだろ」

「そうでもねえよ、おれは隣の左のとこが気に入ってる。ふっかふかのでかいソファがあってさ、ベッドでやるより寝心地いいんだ」

「…よく来てんのか」

「よくっつうか、時々だけど。駅からまぁまぁ近いから待ち合わせも便利だしな」

「待ち合わせる相手がいるのにおれとこんなことすんのかよ」

「別にカレシとかじゃねえし……カノジョでもねえよ?セフレ…っていうのも変だけど、出会い系が近いか?」

「…マジで最悪だなてめえは」

「ついでに売ってるっつたらヒく?」

キッドの顔から今度こそ表情が消えた。ポォン、と場違いにやわらかな電子音がエレベーターの到着を告げる。動かないキッドが、次の瞬間には踵を返してここから出て行ってしまうのではないかと思った。滑らかに開いて、数秒の後にまた閉まろうとするドアを、壁のボタンを押して無理やり留める。ここまで来てひとりで眠るのは嫌だった。ユースタス屋、と促す声は半ば懇願だった。

「…いくらだ」

「お前から金取ろうなんて思ってねえよ。今はただ本当にやりてえだけで、」

「いくらで売ってんだって聞いてんだ」

「…三万。ホテル代は込みの時と別の時と、相手によるけど」

「高いのか安いのか分かんねえな」

不愉快さと侮蔑の混じったキッドの眼は確かに心臓のやわらかな部分に爪を立てるのに、底冷えのするそれに見下されると足元からぞくぞくとした震えが這い上がる。

「…ユースタス屋」

「……」

「なんでもしてやるよ、なにされてもいい…だから、なぁ、今日だけ付き合えよ」

「…おれはホモじゃねえんだよ」

「そんなのどっちでもいい、おれはただお前が犯してくれりゃ満足なんだ…、ただセックスしてえだけ」

つま先で伸び上がって、少し高い位置にある唇を舐めた。屈んでくれるなどと期待もせず、薄い肉の表面にばかり舌を這わせて何度も何度も、無言でねだる。
多分、なにかがひどくキッドの気に障ったのだと思う。
まだ一度も触れられていないローの下肢は、キスとも呼べないキスだけでまた緩く勃起していて、嫌がられると分かっていながら腰をすり寄せた途端、荒々しい仕草で舌を噛まれた。頭をつかまれ、半開きの唇をこじ開けて歯を立てられる。本能的な恐怖で身を竦ませたローの腕を掴んだ手は骨の一本くらいへし折ってしまいそうな力で、叩き込まれるような乱暴さでエレベーターの中に放られた。
部屋までの短い距離をほとんど引き摺られるようにして歩きながら、甘ったるい期待と苦く焦がされた後悔がローの胸を浸していく。多分、キッドは頭に血が上って見境がなくなっている。だから男なんか、よりにもよっておれなんか抱く気になっているんだと。突っ込んで一度か二度射精すれば、きっとキッドが浮かべるのは自己嫌悪だ。これからするのは、もしかしたらローのことを好きでいてくれたのかもしれない過去まで、ぐちゃぐちゃに丸めて精液まみれにしてゴミ箱に放り込むような行為でしかない。

オートロックのドアが閉まるか閉まらないかのうちに、一回り太さの違う腕に壁に叩きつけられた。肩甲骨の辺りに痛みが走ったが、文句を言う間もなく掌で口を塞がれる。ユースタス屋、と喘ぐように口にした名前も喉の奥に押し戻され、まるで溺れているような気分だった。
夏物のシャツのボタンを性急に外されたのは最初の二個までで、あとは引き千切るとしか言いようのないやり方だった。ブツン、と糸が弾け切れる音がする。結構高かったのに、と頭の隅にちらりと浮かんだが、脇腹を這って降りた手にデニムを緩められるともうどうでもよかった。前戯も雰囲気もあったものではない、目的のためだけのような始まり方のセックスだった。それでも文句のひとつも言う気にならず、頭も身体も熱に浮かされたように期待ばかりしているのだから、本当にどうしようもない。
口を塞いだままだった手がふいに外される。指先がローの唇を一度だけなぞり、すぐに指が二本無遠慮に口腔に押し込まれ、ぐっと舌を押さえられて反射的に吐き気がこみ上げた。視線だけを動かしてキッドを見ると、舐めろ、と素っ気なく返される。言われたとおりに素直に唾液を乗せた舌を絡めれば、平素よりいくらか熱を帯びた赤い瞳がスゥと細められた。口の中に指を含ませたまま、掌がぐい、とローの顔を仰け反らせる。晒された首筋に噛みつかれ、幾度かに分けて歯型を残されていく。見た目よりも柔らかな赤毛が頬や顎をくすぐった。ワックスが落ちかけて少し崩れたその髪に頬ずりをしながら長い指を根元までふやかすように舐めていると、陶酔にも似た幸福感を覚える。

「…ユ、スタス屋……下、脱がせろ…服とか、やばいから、もう…」

「…まだなんもしてねえだろうが。よくこんだけ濡らせんな」

「だ、だって、も…ぅ、ぁ、触るなっ…イっちまいそうだから…ッ、」

キッドの呆れたような表情を見た後のことが、もう、よく分からない。
手首まで唾液が垂れるほどローの口内を弄んだ指が引き抜かれ、下着ごと着衣を剥ぎ取られたむき出しの脚がざらついたカーペットに押し付けられたところまではまだ正気だった、辛うじて。
フェラチオをしたときから、我慢に我慢を重ねたローの下肢はどろどろに蕩けていた。ローをうつ伏せに押し倒し、ぐっしょりと濡れてまだ足りないとばかりに先走りの零れる性器ごと掌で包んで、女みてえ、とキッドが嘲笑する。ローを傷つける意図が少しだけ含まれているその言葉にすら興奮して、はしたなく腰が揺らめいた。男に抱かれることに慣れた身体は、唾液と先走りを絡めた指でおざなりに掻き回されただけで、いとも容易く開いていく。

「ッ、あ、ぅあ…っ、痛、まだ…ぁ、あ…!」

「…っ、んだよ…欲しがってんじゃねえぞ、始めたばっかだろうが」

「ゆ、ユースタス、や、ぁ…っ、ダメ、だ、から…!前、さわったら…も、う…!」

一切の抵抗なく、ただ塞き止められていた栓を引き抜くようにキッドの手で射精させられる。煮詰められた頭の中がどろどろで、ただ気持ちが良かった。ガクガクと痙攣する身体が無意識に逃げようとカーペットに爪を立てる。涙と唾液で汚れた頬を粗い繊維の上に押し付け、熱く張り詰めた肉が尻の間を幾度か行き来するのを濁った期待感の中で感じていた。はやく、と唇が声にならない声で囁く。はやく、この今にも内側から溶け出して崩れてしまいそうな身体に杭を打って、繋ぎ止めて欲しい。
背中にぴったりと体温が寄り添う。待ち侘びたペニスが狭い壁をこじ開けて入ってくる間、息をするのも忘れていたかもしれない。見開いた眼からぼろぼろと零れる涙は、火照った頬の上で冷える暇もなく伝い落ちていく。

「ぅ…あ、ぐ…ッ、あ、あ、まだ、入る、から…ぜんぶ、まだ…」

「だ…ったら、緩めろ…、食いついてんじゃねえ…!」

「…だ、だって…きもちい…!これ、おまえの、やば…ぁ、っ…おく、あた、って、…!」

きつく食い締められてキッドが苦しげに呻く。達する瞬間にも似た、奥歯を噛むその表情を肩越しに振り返って、ローの口の中にじわりと唾液が溢れる。緩めろ、とまた叱られても、慣れているはずの身体がうまく言うことを聞かない。挿入されたその部分でしか触れられないから、こんなに離すまいと貪欲になるのだ。繋がったまま必死に身を起こし、半回転して、どうにか向き合ったキッドの首に両腕を絡めた。抱きしめられたキッドが硬直したが、構わずに何度も深呼吸して、もっと深く飲み込もうとする。気持ちいい、と回らない舌でも全身でも訴えて、限界に近い脚を更に広げようとする。きっと酷い顔をしているだろう。下品な水音を立てて揺れる下肢に熱い手が触れ、太腿の中ほどを爪が食い込むほどきつく掴まれた。

部屋を満たすのは粘着質な水音と、肌のぶつかる音と、ローの嬌声ばかりだ。キッドはあまり喋らない。時折口を開いても出てくるのは皮肉を帯びたローを辱めるばかりのもので、その度に少しだけ胸が痛く、それすらもあっという間に快感に流されていく。初めてのセックスの時だって、こんなに焦れて、こんなに乱れたりしなかった。ユースタス屋、ユースタス屋、と壊れたオルゴールのように繰り返すローの首の後ろにやわらかく歯が立てられる。慈しむように食まれたかと思えば、すぐに皮膚を食い破りそうなほどに尖ったエナメル質が沈み込み、けれどローは捕食寸前の獲物のように身を震わせてどちらつかずの仕打ちをただ受け入れることしか出来ない。

「……てめえは、」

長い行為の最中、一度だけローの頬に頬をすり寄せるようにして耳元で小さな囁きが落とされる。傍から見れば甘えるような仕草でもあった。尻切れとんぼのその続きが気になって、なに、と蕩けきって掠れた声で問い返しても、キッドは低く舌打ちをしただけで答えない。

「なぁ…、ん、今の、もっかい…、」

「何でもねえよ、黙って集中してろ…セックスしてえだけ、なんだよなぁ、てめえは…っ、だから望み通りにしてやってんだろうが」

ぐちゅ、と埋められた性器が胎内を掻き回す。腸壁と溶けて境がなくなったように感じていたペニスも、こんな風にされるたびに荒々しく肉を擦ってローを苛んでいく。がっちりと腰を掴む手で固定され、三度目か四度目か、それ以上か、回数も曖昧になった射精がまたやってくる。前立腺を潰していた性器が大きく脈打ち、マグマのように熱い精液が腹の中に注がれた。一度たりとも掻き出してもらえず、ペニスで栓をするように注ぎ足されていく体液は、擬似的に孕まされているようで苦しかった。

「ゆ、すた、すや…むり…破裂する、吐く…も…ッ、いっかい、抜け、っ…」

「あ?……吐けよ、別にてめえがイこうが吐こうが止めてねえだろ、好きにしろ…。そしたら次は風呂場で犯してやるよ」

キッドが楽しそうにくつくつと笑う。限界まで押し込んだ性器で中に溜まった精液を泡立てるように掻き回される。他人の肉を強引に収められた薄い腹を探り、少し膨れたような気もするそこをぐっと押し込まれ、粘ついた吐き気が込み上げてくる。いっそ外からペニスの形を掴みだそうとでもするように、キッドの手には遠慮がない。

「や、めっ…!…ほんとに、気持ち、わりぃ…」

「だから別に吐いてもいいっつってんだろうが」

「ふ…ざけんな、床汚す…っ」

しかたねえな、という呟きにほっとしたローを尻目に、キッドは少し離れた位置に脱ぎ捨てていた自分のジャケットを引き寄せる。ローを抱き起こし、薄手のそれを床に広げると、覗き込むように眼を合わせてにやりと笑う。

「楽にしてやるよ」

とっさに逃げをうったが、下肢はまだ未練がましくキッドの性器を銜えこんだままなのだ。仰け反っただけに留まった身体を、伸びてきた腕に軽々と引き戻された。暴れようとするローを抱きかかえ、再び四つん這いの体勢を取らされる。左腕はがっちりとローの腰に回され、右手が顎を固定する。歯を食いしばって、唇を引き結んでも無駄だった。トラファルガー、とこんな時だけ甘ったるい砂糖漬けの声が吹き込まれ、耳の後ろに何度もキスを落とされる。体位を変えたことでほとんど抜け出てしまった性器をもう一度、深く深く、ゆっくりと押し込まれていく。ダメだと思うのに、たちまち緩んだ唇はだらしない喘ぎを溢し、そこをこじ開けるようにキッドの指がするりと入ってきた。ぐっと舌の付け根を押さえられ、喉が引き攣れて生理的な涙が滲む。はっ、はっ、と苦しげな吐息を洩らすローの耳朶をやわく噛み、キッドがもう一度名前を呼んだ。トラファルガー。声の甘さとは裏腹に、再び繋がった下肢がガツガツと乱暴に揺すられる。舌の上を滑るように、長い指がもっと、喉の奥に触れそうなくらい深く押し込まれ。
濁音まじりの悲鳴の切れ端だけを上げて、逆流するような嘔吐感に逆らえず、胃の中身をジャケットの上にぶちまけていた。胃液が喉を焼き、苦しくて堪らないのに今もなお口腔に差し込まれているキッドの指が邪魔をして、満足に息をつくこともできない。無慈悲な指先がさらに舌の根を押し、胃と喉が絞り上げられる。思わずキッドの指に歯を立ててしまったが、吐息のような低い笑い声はその中に興奮を滲ませていて、咎める気さえ窺えない。

「ぅ、あ…あ、ぐ…ぁ、っ、」

「ほら、全部出しちまえ」

「ぃ、あ…っ、やめ、…ぅ、ごめ、ごめんな、さ…ッ」

「謝んなよ…えっろい顔しやがって、なぁ、それすげえクる」

「やだ…っ、も、ごめっ…、ゆー、すた…ぁ、あ…いや、だ…!」

ぐちゅりと結合部が音を立て、嘔吐の衝撃できつく食い閉めていた後孔を無理矢理に性器が出入りする。自分が何をされているのかも分からなくなりかけて、ごめん、ごめんなさい、と謝罪して震えるローの頬を、吐瀉物にまみれた掌がやさしく撫でていく。粘ついた快感と、内臓を掻き回されるような苦痛の中、惰性のようにこみ上げる不快感をどうすることも出来ず、何度も何度も促されるままにえづくローを後ろから犯し、吐くものも無くなった頃にようやく射精したキッドの溜め息は、どうしょうもないくらいに満足そうだった。





長時間のセックスによる消耗に質の違う疲労が合わさり、ぐったりと深く眠っていたローが眼を覚ましたのは翌朝の9時過ぎだった。泥のような眠りから抜け出したばかりの頭は重く、ここがホテルの一室だということを思い出すまでにたっぷり十秒はかかった。軽い脱水症状でも起きているのか、こめかみが痛む。部屋はシンとしていて、元凶の男の姿が見当たらない。ダブルベッドに一人きりというのはなんとも寒々しく、すでに底辺だと思っていたローの気分がまた少し落ち込んだ。

「…確かに何してもいいっつったのはおれだけど……つうかヤリ捨てかよあの野郎」

二度寝がしたかったが、いい加減チェックアウトの時間ではなかったか。いっそ延長するかと考えながらもう一度毛布に包まったが、眼を閉じると余計なことばかり浮かんでうまく寝付けない。いつの間に風呂に入れられたのか、精液やら吐いたものやらで酷い有様だった身体はきれいに始末されていた。腹の中にも、なにも残っている感じがしない。しね、あの野郎、ノンケのくせにご丁寧な気遣ってんじゃねえよ、と胸の内だけで悪態をついた。散々酷使した喉はカラカラで、声なんて出る気がしなかった。

ふいにガチャリとドアの開く音がして、無理矢理にでも不貞寝を決め込もうとしていたローは毛布を跳ね除けるように飛び起きた。腰が鈍く痛んだが、我慢できないほどではない。見開いた眼に、明るい午前の部屋で昨夜より少し彩度を上げた赤い色が飛び込む。

「起きたのか」

「…え?なにお前…帰ったんじゃねえの」

「お前の服破いてダメにしただろ、適当に代え持ってきた」

ベッドに放られた紙袋から、淡い色のニットと黒いデニム地のボトムがはみ出ている。困惑してキッドを見上げるが、「そろそろ延長掛かるから早くしろ」と素っ気なく言われただけだ。少しサイズの大きい衣類は自分のものとは違う匂いがして、柄にもなく赤面しそうになる。壁に凭れて着替えを眺めているキッドは、昨晩のことなどまるで夢だったかのような涼しい顔だった。

清算を済ませた後、そのまま駅へ向かおうとしたローの首根っこを掴むようにして押し込まれたのは、駐車場に停められた見覚えの無い車だった。有無を言わさず助手席に座らされ、キッドが隣に乗り込んでキーを差し込み、エンジンをかけるのを呆然と眺めていた。

「…お前、昨日車だったっけ」

「寝惚けてんのか。この時間じゃ着替え買うにも店開いてねえだろ、服取りに帰ったついでに乗ってきたんだよ」

「つうかどこ行くんだよ、おれん家方向全然違えぞ」

「朝メシ」

それこそ戻ってくる途中でコンビニでもファーストフードでも買ってくればよかったのではないかと思ったが、ハンドルを握るキッドが昨夜より幾分、あるいはずいぶんと機嫌がよさそうに見えて、ローは反論を丸ごと飲み込んだ。一夜限りだと思っていたこの男とこれ以上一緒にいない方がいいという理性の声はあったが、ほんの少し手を伸ばせば届く場所にいるキッドの横顔を盗み見るだけでそんなものはたちまち溶けて崩れてしまう。朝食くらい別に、と誰に向けるでもない言い訳を思い浮かべた。

連れてこられたのは白を基調とした内装の洒落たカフェで、男二人で来る場所じゃねえな、とローは些か鼻白んだのだが、キッドは気にした様子もなくさっさと入っていく。清潔感のある純白と木材の淡い色で揃えられた窓際の席で、どう足掻いても派手な見た目の男はなんともいえず浮いている気がして、ローはこっそりと忍び笑った。

トーストの添えられたスクランブルエッグは驚くほどに美味しかった。向かいで同じものを食べているキッドが眼で尋ねてくるので、うまい、と素直に感嘆してみせると、仏頂面の口元が僅かに緩む。目の前にはまだバターとメープルシロップの掛けられたパンケーキが置かれているが、元々少食の上に朝は抜くことが多いローには少し容量オーバーだ。

「こんなに食えねえんだけど、おれ」

「前食ったけど旨かったぞそれ、生地にチーズが練ってある」

「半分食ってくれねえ?」

「…いいけど、ちゃんと半分は食えよ。メシ足りてねえみてえな体しやがって…昨日も大して食ってなかったじゃねえか」

「なにお前、合コンでそんなん見てんの。おれのこと大好きかよ」

鼻で笑った直後に失言だったとハッとして口を噤んだが、キッドはじっとローの顔を見た後、別段否定も肯定もせずに黙ってトーストの端を齧った。ノーマルの、というだけならまだしも、自分と寝たノーマルの男に向ける軽口としてはあまりに軽率で、自虐的ですらあった。
居心地の悪さを誤魔化すように温かい紅茶を口にしていたローの目の前に、唐突にフォークに刺さったひと口分のパンケーキが差し出される。

「さっさと食え」

「…、なに」

「食ったらおれん家行くからな」

「は…?お前のって、どこ、え?お前ん家…なんで?」

「帰ってヤるに決まってんだろ」

なにを、とは聞けなかった。10時になったばかりの明るい清潔なカフェで、周りにはギリギリ聞こえない静かな声で、キッドは何でもないことのようにきっぱりとそう言い放った。今度こそ固まったローの口に甘いパンケーキの切れ端が押し込まれる。

「ん、え…なんで、お前ノーマルじゃ、」

「…てめえは放っておいたらまたその辺の男引っ掛けて三万で寝るんだろうが。あんだけ泣き喚いたくせに、一晩経ったらけろっとしてんじゃねえぞ」

「それは…まぁ、そうかもしれねえけど」

「ふざけんな、そんなにセックスが好きならおれにしろ」

不機嫌そうな物言いだった。より正確にいうなら、半分拗ねたような感じの。
期待するのが恐ろしかったくせに、やめろ、と頭の隅で警鐘がなるのに、その顔を見てしまったらもうだめだった。胸の左側で心臓の音が煩くて、さざ波のように血液を伝って指先までを震わせて、反対の右側ではゆっくりと綻ぶものがある。

「…なにお前、おれのこと大好きかよ」

「うるせえな、六年前に気付かねえてめえが悪い。狸寝入りしやがって」

「そうかよ…、…そうだな。そういえば言い忘れてたんだけどな、」

高校一年生の文化祭の午後の、騒ぎ疲れて天気が良くて、ローはうとうとと眠りかけていて、けれど誰かが屋上に上がってきた足音には気付いていて、薄くだけ開けた視界に映った今みたいに陽に透ける赤い髪の色と、思いの他やわらかい唇の温かさを、まだ覚えている。まるで昨日のことみたいに。

「おれ、お前とのあれがファーストキスだった」

飲みかけたコーヒーに盛大に噎せて紙ナプキンを引っ掴む男を見て、今度こそ声を上げて笑いたかった。咳き込むキッドの恨めしそうな視線を受け流し、冷め掛けたパンケーキをもう一切れ口に入れる。メープルシロップとバターの幸せな甘さを、多分、高校生の時分の子供だったら、初恋の味に似ていると思うのだろう。


ここでキスして


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