薄いさらし一枚を胸の辺りから巻いただけのライトニングは逃げも隠れもせず、森の間の透明に煌めく泉を凝視していた。
そこにあったのは水の流れに翻弄される、分厚い甲冑によって日焼けを避けた、いくらか白い男の背中。
背を向けているフリオニールは彼女に気づく様子もなく、鼻歌すら歌いながら水浴びを続けている。

どうやら、彼女の方がメンバーによって割り当てられていた順を誤ったらしい。
我に返って、今度はそっと岩影に隠れて泉の様子を窺う。
覗き見だなんて柄でもない。
しかし暫く待っておけばいつかは立ち去る筈だろう。
せっかく脱いでまた着てしまうのは面倒であるし、なんだか癪だった。
苔むした岩に寄り掛かって腕を組み、先客の背中をいつ出るだろうかともう一度垣間見た。

男は一度頭まで潜ってまた上がる。
濡れた背を向けたまま見える、左右の肩甲骨の間の深い谷間。
それを二分するように、筋肉の線が縦一本くっきりと刻まれ、彩るような彼の銀髪が上からこぼれている。
下に視線を移すと、左脇あたりに褐色じみた傷痕が縁取るかのように存在し、またそこの皮膚が引きつれていた。
鋭利な物でも立てられたのだろうか。
戦った証、名誉の勲章というやつだろうか。
回りの皮膚に比べて、影のように濃い色をしたその引きつれから、幻の硝煙の匂いが立ち上っている。

薄い緑色の目で穴が空くほどそこを見つめていたライトニングは、不意に愛しいような何かを感じた。
名づけることなどできぬ劣情を、ただしこの場合彼にではなく、彼の脇から胸にかけてある大きな傷痕に抱いた。
純然たる欲望を通して泣きたくなるような切なさばかりが胸に込み上げてくる。
鋭い刃物で切り裂かれ、その上深く抉り抜かれたように、彼女の胸からも、熱い何かが滴った気がした。


「誰だ、そこにいるのは」


しかしそれも束の間の出来事だ。
ライトニングが後ろを振り向けば、いつの間にか甲冑まで身に付けたフリオニールが険しい顔をしてこちらを覗き込んでいた。
目を見開いたのはお互い様だが、ひっ、と小さい悲鳴をあげたのは他でもない彼の方だった。


「ライト…ライト?」


顔を真っ赤にした彼の口を慌てて彼女が押さえつけ、塞ぐ。


「少し時間を間違えただけだ。言っておくがこれは覗きじゃないぞ」

「違うその格好…」

「だから間違えたんだと言ってるだろうさっきから人の話を聞け!」


派手な音を立てて人を殴るのは、どうやらこの世界に来る前までについた癖か。
憤然とした態度を崩さず、彼のものが伝染したように同様頬を染めきった彼女は遂にあげられたフリオニールの悲鳴を更に大きな声でかき消した。



「…げりら?」


着替えは置いてきてしまった為、代わりに彼の浅葱色をしたマントを羽織らせた彼女は怪訝そうに、射抜くような視線を向けてくる。
萎縮しながらも彼は首を縦に振る。


「うん、ゲリラ戦のゲリラ。俺ら、元の世界で祖国を取り戻す為に皇国の軍隊と戦う反乱軍をやってたから。森なんかに長い間隠れながら様子を窺うの」

「知っている。汚いやり方の」

「ああ…うん。勝率は高いが、俺としてもあれはね」


毒を吐いた彼女に屈託なく笑って返す彼の、まだ水気の抜けない頭髪をライトニングは撫で付ける。


「なら正々堂々と戦いたいか」

「やめとく。ここの奴らに正々堂々なんて言葉、通じないだろう。でもそもそも、ゲリラ戦は村人達のの協力がなければ戦えないからな、大概はその場で奇襲を仕掛けるしかない。ここに来るまでに随分と廃墟は見たけど、人の住んでた痕跡なんて欠片でも残っちゃいない。全部、初めから空っぽだったように感じる」

「村…」

「ゲリラ戦は特に、人のコミュニティなんかからの協力がなければ戦えない。食料を分けてもらい、情報を提供してもらうんだ」

「それは元の世界で?」

「そう、元の世界で。つまんない昔話、聞く?」

「ならお前の髪の毛が乾くまで」

「じゃあ続き。長いよ。
村人への感謝?もちろんしたさ!単純に、感謝していたよ。
例えば博愛主義に富んだボランティアが手を差し伸べてくれるのに対するように、好意に甘え、素直にありがたいと思った。それが何を意味するのか、考えにも及ばなかった。
世話になった村の長は言った。
『皇国軍は言葉を奪い、定住地を奪い、生活様式を奪う。しかし自分達は自分達の神をまつり、自分達の言葉を持ち、ここを渡り歩きながら、誇りを持って生きてきた。その誇りが、奪われようとしている。君達の力が我々を救う。どんな方法でもいい、この戦いを終わらせて平穏を我々に取り戻してくれ』って。
断る理由なんざどこにもない。当然の如く『約束する』って言った。
しばらくして部隊は本拠地に引き上げた。
そして二ヶ月後に約束通り、皇国軍を撃退して戻ってきた。
部隊では一人だけ戦死者を出したが、俺は無事だった。でも、村は無事ではなかったんだ。
森の中の道を歩いて行くと、あるはずの村がなかった。
柱が焼けて、骨組みだけが残る廃屋が時折あるだけだ。村人はいなかった。
土を掘り返した跡が村はずれにあって、村人が使っていた真鍮の水入れや鍬の刃が散乱していた土の下に何があるのかわかって、俺は…何を思ったかな、もう思い出せないや。
ゲリラに協力したと認められたがために、砲弾を撃ち込まれ、村は焼かれ破壊し尽くされ、村人は虐殺された」


フリオニールは一息吐いて、ライトニングは小さく息を呑んだ。
凄惨な過去を語ってもあまり動じた様子の無い彼女に彼は目を丸くした。
仲間としてではない。ただ一人の戦士として自分の目をまっすぐ見て、話に耳を傾けてくれている。


「酷いとか、惨いとか、言わないの」

「丁寧に感想を言ったところで犠牲が戻るわけでもない」

「…ライトは強いな。…でもつまり、ゲリラ戦ってこんなものなんだよ。
俺が約束破りであるとか嘘吐きであるとか、ここまでくれば最早そういう問題にはならないだろう。
村人が皇国軍の目をかいくぐって遠くの畑まで行って作っているものを食べ、宿泊場所を提供させ、そうしたことについて、彼らがどれほどのリスクを負うかについて考えることもなく、鼻持ちならない正義感と同胞意識から、英雄か傭兵気取りで武器を振り回しているだけの、俺は単なるガキだった。
平和が欲しいと言ってよく笑ったじいさんも、よくしてくれた村の人達ももういない。
俺たちは何も言うこともなく、その場を後にしようとした。
落ち込んでいたかもしれない。だから注意が削がれたのかな。
まだ皇国兵が潜伏していて、そいつが小口径だけれど、砲弾を撃ってきたんだ。
短い音がして、近くで炸裂した。破片が腹に刺さったのさ。
酷く寒くて、不思議と意識ははっきりしてた。その時は贖える筈のない、俺の人生は最後に最大の失敗をしたままこうして幕を閉じるのかな、とも思った」


まぁ、その時必死に治癒魔法をかけてくれた人がいるから治ったんだけどな、と他人事のように続ける彼に対しライトニングは先ほど初めて彼の傷を発見した時の形容しがたい衝動を思った。
名誉の傷や、男の勲章でもないのか。
それを口にすれば、彼は苦笑を隠さずして首を振る。


「そんな、世間でいうところの格好いいものじゃない。ただの弱点だよ。今でも夢に出てくる」


怪我は怪我であって、冷えたり疲れたりすれば痛み出す。肉体的にも精神的にも、薄皮一枚で守られている弱点に過ぎない。
誰にも言えない弱点を一人抱えて、いつまた血が噴き出すかわからない恐怖に苛まれながら彼はこれからの一生を過ごしていく。
彼の怪我に発情する自分をライトニングは偽るつもりはない。
されどいつかに語ってみせた凛と気高く咲き誇る赤い花の夢すらもトラウマに塗り潰されてしまう彼を憐れむ心くらいは彼女にもあった。
固いばかりの甲冑の上から白い指を這わせ、見えない傷痕を辿る。
その手を掴んだ彼は打って変わって柔らかくはにかんだ顔を彼女の傍に寄せた。


「俺のつまらない、さっき潜って頭冷やして、やっと思い出した昔話はこれくらい。…傷っていえば、ライトのそこは、刺青なのか?」


反射的に柔らかい布で覆われた左胸を抑えた。
殊更明るい調子であからさまに話題を変えようと、そこを指して言う彼の、珍しくどこか甘えた、猫のような仕草は純粋な疑問のニュアンスを含む。
たぶんルシの紋章のことだろう、勝手に見たのか。自分も言えたことではないが。
ライトニングは苦笑した。結局隠しきれなかった。
しかし顔を寄せてそんな問いをかけてからには、彼にもそれなりの覚悟というものがある筈だ。
刻まれたような彼女の唇は彼の額から鼻、最後は唇に軽く触れた。


「私が自分で弱点を彫るような人間に見えるか」


常の、というより先程からの彼ならばこんなことをすれば頬の一つでも赤らめたのに、今は真摯な眼差しを外してくれない。


「見えないけど、誤解はしてるかも。良かったら教えてくれないかな」


戦闘の時にしか纏わない空気に加えた、静かな物言いが気に入った。
いや、動機などもう何であってもよかった。


「まぁ、お互い様か。…誰にも言うなよ」


大きな砂色の目が退廃的なほどの官能を湛えて潤わせている以外、念を推す彼女に黙って頷き、照れたようなはにかみを頬に浮かべるのはいつもの彼だ。
ライトニングの露出した首元、鎖骨の辺りにフリオニールの歯が当てられた。

目に見えて受ける傷。
肌に触れられ、体温を通すことで増える傷。
遠い世界の過去を思い出したことで増える傷。
思い出を語ることで増える傷。
分かち合うことで増える傷。

彼ではなく、偽りでもいい思い出の詰まった彼の傷痕に対して真の劣情を感じ取ったライトニングだが、今はそれを口に出して言ってはいけない気がした。
思いに反して動ける程自らの体が上手くできていないことに失望しながら、彼の全ての傷に向けてキスの雨を送る。
誰にも打ち明けることのできぬ、糜爛に熱を孕む傷がこれ以上誰かを腐らせてしまうかもしれないということは時として言い知れぬ不安と恐怖を彼女に与える。
それでも手元に何ひとつとして残らない方がもっと恐ろしいのを知っているからこそ、かえって落ち着いて語ることができるのかもしれない。

少し長い話を彼にする前に、息を深く吸ってみる。
彼の匂いの交じった、森のほどよく湿った空気のふくよかな香りに陶然とした笑みを浮かべた。
マントの肌蹴た白い胸元に正午を知らせる陽光は木洩れ日となって鈍く、まだらに模様を描いて照りつけている。まるで水に濡れたようだった。


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