「ライトが?」
 フリオニールの言葉に、ユウナが頷いた。
「辺りを見てくるからって、一人で大丈夫だって…。でも、なかなか帰ってこなくて…」

 ある束の間の休息。
 フリオニールは自身の武器の手入れをしていた。仲間達も思い思いの時間を過ごす中で、ふと、不自然な行動を繰り返すユウナを目に留めた。どこか遠くを見つめては二、三歩と踏み出し、立ち止まっては俯いて考えこむようなそぶりを見せている。
 聞けば、一緒にいたライトニングが見回りに行ったきり帰ってこないという。

「もし、カオスの戦士が現れたら…」
 ユウナの瞳が不安に揺れていた。
「わかった。俺が探してくるよ」
「私も行きます」
「いや、ユウナはここで待っていてくれ。あまり皆から離れないほうがいい」
 フリオニールはそう言うと、その場を駆け出した。



 フリオニールには心当たりがあった。
 ほんの短い休息にも、ライトニングはいつも聖域を照らす光を眺めていた。だから、この辺りでその光が一番よく見える場所を探した。生い茂る木々が途切れた先、切り立った崖の上。案の定、ライトニングはそこに居た。
 呼びかけようと開いた口は、すぐに閉じた。
 無防備に佇む後姿が、まるで幼い子供のように頼りなく感じられたからだ。
 もしかして泣いているのかもしれない。
 そう思ったフリオニールは、少しだけ迷ったが、周囲に差し迫った危険も感じられず、その場で見守ることに決めた。

 そのうちに気配を察してか、ライトニングが振り返った。
「フリオニール…」
「良かった、無事で」
 涙の跡などは見受けられず、フリオニールは少しほっとして、ライトニングの傍へと歩み寄った。
「私を探しに来たのか?」
「あぁ」
「それは悪かったな」 
「そんなこと…それより、あまり一人にならないほうがいい」
「そうだな」
 ライトニングはどこか上の空で返事をすると、光の方へと視線を戻し、動き出す気配はなかった。
 やはりいつもとは違った様子に、まさか怪我などしていないかとその身体に注意を向ければ、普段は敢えて見ないように気をつけていたものが眼に飛び込んできた。
 少し開いた上着の合わせ目から覗く、臍に光る石。短いスカートから伸びる、すらりと長い両脚。その真っ白な内腿に絡みつくような、赤い革ベルト…。
 咄嗟に視線を逃したがすでに遅く、毒が回るかのように、じわじわと身体が熱を帯び始める。
「花を見せてくれないか?」
 突然、ライトニングが言った。
 透きとおった水を思わせる色の瞳を向けられれば、自分の考えなどすべて見透かされているような錯覚に陥ってしまう。
「も、もちろん」
 フリオニールは懐から花を取り出し、少しだけ触れ合った手指から動揺が伝わらないよう、慎重に渡した。
 そんな努力の甲斐あってか、ライトニングはまったく気も留める様子もなく、受け取った花を眺め始めた。
 フリオニールは知らずの内に止めていた息をそっと漏らした。

「何か思い出せたか?」
 しばらくして、ライトニングが訊ねた。
「少しずつは…」
 フリオニールがすべての記憶を思い出し、この花を必要としなくなったら、ライトニングに譲る。
 あの日、二人で交わした約束だ。
 嬉しかった。
 自分にとって必要であるとはいえ、花を持つという行為はどこか気恥ずかしかった。そんな気持ちを払拭できたのは、ライトニングのおかげだった。大事にしたらいいと、他人の目なんか気にするなと、そう言ってくれたあの日から。
 だからこそ、一日でも早くすべてを思い出そうと、がむしゃらに戦ってきた。戦うことで記憶が戻っていく。それは確かな事実だった。だけど。
「まだ、全部じゃなくて…。すまない」
「謝る必要などない」
「でも、ライトだって早く記憶を取り戻したいだろ?」
 フリオニールの言葉に、ライトニングは長い睫毛をそっと伏せた。
「このまま記憶が戻らない方が、迷わなくて済むのかもしれない」
「迷う…?」
「こんな世界で、迷って立ち止まったら…絶望に追いつかれるだけだ」
 どこか寂しげな横顔に、これ以上、言葉の意味を訊いてはいけないような気がして、フリオニールは黙っているしかなかった。
「…でも」
 ライトニングが小さく呟いた。
 細い指先が、愛しむように花びらの縁を辿る。
「この花びらが舞う時は、いつも誰かと一緒に戦っていた気がするんだ。誰か…きっと、誰よりも、自分よりも大事な……」
 視線が、花から、再び光へと移る。
 光を辿って空へ、遠く遠く、遥かその先。
 元の世界の誰かに思いを馳せているようだった。

 それはもちろん、自分ではない誰かに。


 羨望が、衝動に変わった。


 感情にまかせて腕を伸ばし、強引にライトニングの身体を抱き寄せた。
 肩も、腰も、想像していたよりずっと華奢な身体に、愛おしさが全身を駆け巡る。
 突然の行動に驚いたのか、ライトニングの抵抗はまるでなかった。ただ息を飲む様子だけがはっきりと伝わってきた。
「フリオニール…?」
 耳に、戸惑いを含んだ声が聞こえる。
 愛おしさが行き場を失くし、怒りにも似た、どろりと黒い感情が胸に渦巻いた。
「どんなに大切な人だって、覚えていなければ…いないのと同じじゃないのか……?」

 彼女の心を占めるのは、目の前にいるのは自分ではなく、いるかもしれない誰か。
 彼女が不安に駆られた時、こうして抱きしめてやることも叶わない、いないかもしれない誰か。

 どうして自分ではないのか。どうして自分ではいけないのか。
 どうして。どうして。どうして…。


 どれくらいの時間、そうしていたのか。フリオニールにはわからなくなっていた。
「…苦しい」
 確かに苦しげな呟きが、溶けかかった思考を取り戻させる。
「ご、ごめん」
 知らずのうちに相当な力を込めていたらしい。
 慌てて腕を緩め、ライトニングを開放してやる。彼女の熱が離れ、冷めていくのと同時に震え始めた手を、掌に爪を食い込ませることで押さえ込んだ。
 取り繕うことも、逃げ出すことも出来なかった。ただただ視線をさまよわせていると、いつの間に落としたのか、足元の花の存在に気がついた。急いで拾おうと手を伸ばすより少し早く、ライトニングが先に拾い上げて、フリオニールに渡した。
「まだ、おまえのものだ」
 その声から感情を読み取ることはできず、顔を見るのが怖くて、俯いたままで受け取った。
「フリオニール…」
「あ、あのさ、俺、もう少しこの先を見てくるよ。ライトは皆のところへ戻っていてくれ」
 ライトニングを遮るように早口でまくしたて、ユウナが心配していた、と付け加えれば、ライトニングは黙って頷いた。

 去り際に、ライトニングが一度だけ振り返った。軽く手を挙げて応えると、少しだけ笑顔を見せて、再び歩き出した。その後姿が見えなくなるのを確認してから、フリオニールは深いため息をついた。
 自分の願いは、この戦いを終わらせることだ。そしてこの戦いが終わって、元の世界に帰れば、二度とライトニングと会うことはないとわかっていた。わかっていたはずなのに。
「どうしようもないな…」
 風が、かすかな残り香をかき消していく。
 手の中の花が少しだけ揺れた。
 元の世界に戻った時、こんな風に彼女の記憶も消えてしまうのかもしれない、と思った。同時に、彼女から自分の記憶も。
 フリオニールは自嘲の笑みを浮かべた。
 記憶がなければ存在しないのと同じだと言ったのは、自分だ。
「…それでも……」
 ライトニングが辿った花びらの縁を、そっと唇に寄せる。


 それでも俺は、君に出逢えて良かったと思う。



 花を丁寧に収め、軽く頬を叩いて頭を切り替える。
 歩き出そうとした次の瞬間、ちらりと目の端が何かの影を捉えた。咄嗟にその場から飛び退き、弓を引き絞る。
「誰だ!」
 背後の石柱の影から、ゆっくりと人影が現れた。
 それがよく見知った顔だとわかり、弦を緩めて弓を下ろす。


「なんだ、カインじゃないか」


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