忘れもしない三年前の春、一年の新人戦の決勝で僕は彼と対峙した。その試合、結果は僕の敗退。僕は生まれて初めての敗北を味わった。勿論、負けたからと言って対戦相手である彼を恨むような事はしない。
僕と彼、――近藤十四郎をライバルだと言う者もいるが、僕はそんなものに関心などない。しかし高みを目指す自分にとって、彼は余りに目障りな存在。
ならば握り潰してしまえばいい。
「幸子」
「すごいすごいトシ兄!優勝おめでとうっ」
彼の弱点は、酷く脆い。
「え!伊東さんって全国模試トップなんですか!?」
「ああ、それが何か」
「ぜひ先生と呼ばせてください」
先日、僕は彼の妹である近藤幸子と出会った。(まさか会ったその日に夕食に招かれるなんて思ってもいなかったが)彼女は人を疑う事を知らない。良く言えば純粋、単純に馬鹿な人間である。
今日も彼女は急に会いに来て、僕に勉強を教えてくれとせがんできた。しかも喋ってばかりで一向に勉強が進む気配はない。
「トシ兄も頭良いけど、きっと先生には敵いせんよ」
「本当にそう呼ぶつもりなのか?」
「は!ごめんなさい!また私お兄ちゃんの話ばっかり…」
彼女の話題はいつも兄弟の事や父親、俗に言う「幸せな家族」の話。それだけこの少女は家族や周りの人間に愛されてぬくぬく育ってきたのだろう。
僕と彼女は住む世界が違うのだ。
「すごいなぁ、伊東先生…」
なのに、
「きっと、たくさんたくさん頑張ったんですよね」
それなのに彼女は、
「私も、伊東先生みたいになりたいです」
僕の持っていないもの全て手にして君は、これ以上何を求めようと言うのだ。
「……幸子君。君は、お兄さんが好きかい?」
「ななっ、何ですか急にっ」
僕の問いに恥ずかしそうに顔を赤らめる彼女は、照れながら笑って答えた。
「はいっ、大好きです」
「あ、恥ずかしいから皆には内緒にしてくださいね」と慌てて言葉を付け足して微笑む。その無垢な笑顔に吐き気がした。
「…どうやら君は何も知らないようだね」
「?何をですか…?」
「君の家族は、嘘吐きなんだよ」
僕は知っている
(近藤家の真実を)
「よォ、伊東」
彼女と別れて一人になった僕の目の前に現れたその男。
「近藤、……晋助」
「近頃うちの幸子の周りをウロチョロしてるようじゃねぇか」
近藤晋助は二年前までは剣道部で有段者。その実力から他校にまで名を広めていた。しかし三男十四郎が高校一年になった年に彼は剣道を辞めている。
僕に言わせれば彼は負け犬にしかすぎない。大方弟に負けるのが怖くて逃げ出したのだろう。
――でも僕は違う。
「……君には関係ない」
「ああ、確かに俺には関係ねぇ。…お前が他の兄弟をどうしようと知ったこっちゃねぇが、」
僕よりいくらか小さい彼は、ぐいっと僕の胸倉を掴んでその鋭い目を近付けてきた。
「幸子に何かしてみろ、……俺がお前を殺してやらァ」
所詮君も他の兄弟達と同じ。
何人にも、僕の行く道を邪魔させる事はないのだ。
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