熱い瞳 「ナマエ…飯に行かないか?」 ブチャラティの突然の申し出にナマエは固まった。普段あまり仕事以外のことを話さないブチャラティが珍しく話しかけてきたかと思えば予想外に食事のお誘いだった。 「食事ですか…?」 「ああ、最近ネアポリスで新しいリストランテができたらしくてな。視察の意味も含んで一度行ってみたい」 ナマエはなるほど、内心一人納得した。ブチャラティのチームで紅一点の私は隣にいるとなにかと便利だ。夫婦、恋人同士、兄妹…男女というだけで周りにスムーズに馴染むことが出来るのだ。 「ああ、そういう事ですね、是非ご一緒させてください!」 ニコリと笑うとブチャラティはホッとしたような顔をした。 「悪いんだがドレスコードのある店なんだ。適当にそれっぽく見える服装に着替えられるか?」 「!ドレスコード…高級店なのですね。わかりました。準備してくるのでお待ちいただけますか?」 「女性の支度を急かすような真似はしないさ。ゆっくり準備してくれ」 そういうとブチャラティはまだ終わっていない事務仕事があるのかパソコンに視線を戻した。それを見届けたナマエは足早に自宅へ帰った。 クローゼットの中から一番綺麗目のワンピースを引っ張り出して手早く身につける。髪はアップに整えて華奢なイヤリングで耳を飾る。 化粧を治し口紅をつけたところでブチャラティの携帯電話に電話をかける。すぐに聞こえたブチャラティの涼やかな声が鼓膜にダイレクトに届きなんだかくすぐったかった。 『Ciao』 『Ciao,ブチャラティ、もうそろそろ準備が終わります』 『迎えに行くから部屋で待っていてくれ』 『え?!あ、いえ、あの…私の家にはこなくても私がそちらに…あ、ブチャラティ !』 わざわざ自宅まで足を運んでもらうことが申し訳ないため断ろうとしたがブチャラティは途中で通話を終了してしまった。ナマエはしばらく携帯電話を見つめていたが諦めて最後の支度をする。 小さなハンドバッグに必要最低限のものを入れて姿見の前に立つ。これだけ着飾ればブチャラティの隣に立ってもそう変ではない…はずだ。 背の高いブチャラティに合わせてヒールのあるパンプスを履く。普段はあまりハイヒールは履かないが久々に背が高くなると気持ちも整うようで気分が良かった。 玄関から出ようとドアノブに手を伸ばそうとしたと同時にインターホンが鳴る。ドアを開けるとブチャラティのほんのり香る香水が家の中に流れ込んできた。 「ブチャラティ、わざわざありがとうございます」 ブチャラティは少し目を見開くとすぐに優しい笑顔を浮かべた。 「君の家に来るときに夕日が見えたんだ。とても綺麗な」 「…?夕日、あぁネアポリスの夕日は綺麗ですよね」 突然夕日の話をしだしだブチャラティを不思議に思ったが話をとりあえず合わせる。 「だが今の君はネアポリスの夕日にも勝る。綺麗だよ」 「…?!」 息をするように口説かれ驚きと恥ずかしさで真っ赤になった。 「な、え、あ、ありがとうございます」 「さぁ、行こうか俺の愛する人」 もう恋人のふりは始まっているのか…! ナマエは曖昧に笑った。 ブチャラティはスムーズにハンドバッグを受け取ると腰に手を回して歩き出した。ヒールの私を気遣う速度と慣れたエスコートに感心する。 「あの、新しいリストランテってどんなところなんですか?」 隣を歩くブチャラティは、ナマエの顔を覗き込むとイタズラっぽく笑った 「内緒だ」 「ここは…」 リストランテの前に来たナマエは目を丸くした。落ち着いた外観に見たことのある文字が墨で書かれている。 「日本食?のリストランテですか?」 「その通り。ナマエは日本人だからな…たまには故郷の味が懐かしいだろ」 ナマエはブチャラティの気遣いに感動しながら微かに檜の香りがする店内に足を踏み入れる。老舗にいるような品のいい東洋系の女性が出迎えてくれた。 「いらっしゃいませ」 「あ…こんばんは」 綺麗な日本語の発音からしておそらく日本人だ。 「あら、日本人の方ですか?このお店を開店して初めての同郷の方です。嬉しいかぎりです」 「私も、久しぶりに日本の方とお話ししました!今夜は食事が楽しみです」 穏やかそうな女性は目の前で調理が見えるカウンターへ通してくれた。温かいおしぼりと上品なデザインの漆塗りの箸に自然と頬が緩む。 「ナマエが日本語を話しているところを初めて見た」 「そうですよね、普段はイタリア語での会話ですから…」 「新たな君が見られて嬉しいよ」 頬杖をついたブチャラティがくすりと笑う。その青い瞳に吸い込まれてしまいそうだと思った。 「すまないが此処はコース料理などはあるだろうか。あいにく日本食には詳しくないんだ」 「ございますが…よろしければ僕のオススメをお出ししてもよろしいですか?」 ブチャラティはカウンターの内側にいる日本食の料理人に話しかける。ブチャラティより10歳ほど上だろうか…料理人の青年は人懐っこそうな笑みを浮かべた。 「そうだな、よかったら俺みたいな初心者でも食べやすいものを頼む」 「わかりました」 ナマエは久しぶりに嗅ぐ醤油やごま油の香りに口の中に唾液が広がっていくことを感じた。 「…美味しい!」 ナマエはパクパクと出された料理を平らげていく。漬物、ひじきの炒め物、高野豆腐、味噌汁すべてが美味しかった。イタリア料理ももちろん美味しいのだがやはり故郷の味は一味も二味も違う。 「美味しそうに食べてもらえると嬉しいなぁ」 料理人の青年はニコニコとナマエの前の皿が空になっていく様を見つめていた。 「イタリアではまだまだ日本食は高級でなかなかこれないんです…今日は上司と一緒なのでたべられましたが…」 「まぁ、日本の2倍から3倍くらいの値段ですからね…」 青年は申し訳なさそうに頬をかいた。ここまでの会話はすべて日本語でブチャラティが置き去り状態なのだが興奮したナマエは気づいていない。 「あの…!私たべたいものがあって…」 「なんでしょう」 「お茶漬けが…食べたいのです」 ナマエの意外なお願いに青年は目をぱちくりする。数泊置いて満面の笑みで了承してくれた。 「他にあればサービスで作りますよ。可愛い子のお願いならいくら作っても苦じゃない」 「そ、そんな…」 思いがけない言葉に驚いていると空いている方の指を優しく誰かに握り込まれた。指先から視線をあげるとブチャラティが苦笑いを浮かべてこちらを見つめていた。 「なぁ、俺を忘れないでくれ。寂しいよ」 「ぁ…ごめんなさい」 ブチャラティは彼女の手をとるとその甲にゆっくりと彼の唇に押し当てた。伏せた目は長い睫毛を際立たせ彼の美しさを嫌でも再確認させられる。そしてゆっくりと瞳を彼女に向けるとこれ以上なく甘く笑った。 なんて、綺麗な人… 「妬けるなぁ」 青年の声にハッと我に帰る。いつのまにか美味しそうなお茶漬けが目の前に用意されていた。 「あ……ありがとうございます」 せっかく作ってもらったのに正直料理にまったく集中出来なかった。心をかき乱した当事者のブチャラティは何事もなかったように優雅にお茶漬けを頬張っていた。 (私ばかり意識して…恥ずかしい) 雑念を払うように目の前のお茶漬けに手をつける。ずっと恋しかった故郷の味がするはずなのに…真新しい異国の料理を食べているような感覚になった。 会計をテーブルで済ませ料理の感想とお礼を伝えると料理人の青年はナマエにニコリと笑いかけた。 「楽しんでくれて良かった、よければ今度一人で来ないかい?とびきりサービスしますよ」 悪戯っぽく笑う青年の何を感じ取ったのかブチャラティはナマエの肩を抱き彼の方へ引き寄せた。ブチャラティの香水と彼の香りが混ざりクラクラとめまいがしそうだった。 「君は本当に放っておけないな、可愛い俺のナマエ」 低く甘く囁かれて顔から火が出そうなほど頬に熱が集まる。青年に見せつけるように額にキスをするとブチャラティはしっかりとナマエの腰を抱いて日本食店を後にした。 リストランテから離れネアポリスの街をゆっくりと歩いてる最中も彼の手は離れない。無言のまましばらく歩いているうちにナマエの家の前まできた。 「あの、ブチャラティ今日はありがとうございました。すごく美味しかったです」 なかなか腰に回された手が離れないのでブチャラティに向き合って顔を覗き込むと驚くほど熱を持った彼の瞳と彼女の瞳がかち合った。 仕事場では決して揺れることのない彼の瞳が何かと戦うように揺らいでいる。 「最低とは…わかっているんだ。…嫌ならこの手を離してくれ。そうでないなら…今夜、君を俺にくれないか」 あまりに苦しそうに紡がれた彼の言葉に喉が凍ったように何も言えなくなった。 彼の瞳の中に映る女は微かな期待を込めた熱い瞳をしていた。 [もどる] ×
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