包み込む太陽|不死鳥に恋をする

最期に陽を拝んだのはいつだろうか。
それほどにこの暗闇に長く身を置いていた。
牢獄にあるような、排水管が露出している陶器の小さな洗面台。
鏡は割れたまま放置されているのか、自分の顔を見ようにもその全体像が見えなくなってしまっている。
ぜんそく気味である身にしてみれば、地から少し離れている簡易ベッドだけが救いか。

「おーい、誰かいないのか」

時計が無ければ朝日も拝めない。
自由に動けるのはこの牢獄の中だけだ。
気が狂いそうな状況に、自我を保とうと時折叫んでいた。
しかし、返ってくる返事も、人の動く気配も、なんのアクションもない。
あるのは、目が覚めた時、鉄棒の間から届く距離にある冷めた食品のみ。

「はあ」

大げさに溜息をつく。
溜息をつくと不幸が逃げていくと言われているが、そんなもの関係ない。
すでに自分は、自由を奪われ誰とも接触できない不幸に陥られているのだ。
これ以上の不幸など、あるものか。いっそ、死んでしまった方がラクであるとも思える。

「……苗字さん?」

暗闇の奥から、女性の声が響いた。
突然のできごとに、横たわっていたベッドから身を飛び跳ねさせる。

「苗字さん、そこにいますか?」
「…八尾さん?」

もう一度、アクションが起きるのを待った。
いよいよ幻聴が聞こえ始めたかと思ったが、それは幻聴などではなく、現実に起こったことだった。
廊下に一筋の光が飛び交っている。
心当たりのある声に、その名を呼べば、相次いで駆け足で駆け寄ってくる足音が聞こえた。

「八尾さん、八尾さんですか? 僕はここです。良かった、気が狂うかと…!」
「ここにいたんですね。さあ、早く出ましょう」

慈愛の笑みを浮かべる彼女に、心の底から感謝した。
手に掛けていた鉄輪には数本のカギがぶら下がっている。
この牢獄のカギは2本目で開錠された。
少々歪んでいたのか、スムーズには開かれなかった。
だが扉が開かれるまでのもどかしさと、開かれたときの歓喜は言い知れない。

「苗字さん、良いですか。今は時間がありません。手短にお話しします」
「ま、待ってください。僕は何でこんなところに…」
「あなたは今日、政太郎さまの一存で処されることになっています。私が身代わりを用意しますので、苗字さんはすぐに村の外へ逃げてください」

持ち上げられて突き落とされるというのは、まさにこれを言うのだろう。
彼女の口から述べられたことを理解するのに、数秒がかかった。
「え?」と自分でも間抜けな声が出るほどで、一体、何を言っているのか、分からない。

「さあ、早く」
「や、八尾さんは…?」
「私のことは気にせず、ほら」

遠くから、集団の足音が聞こえてきた。
声を落とし、自分たちの足音が響かないよう注意する。
足音とは反対方向――八尾さんが来た方向――へ、歩み出した。
ライトが消され、辺りは急に暗くなる。
私を見失わないで、とささやかれ、手を握られた。
それに心臓が飛び跳ねたが、ゆるゆると握り返す。

やがて、自分の頬が外気に触れる気配がした。
視界も少々開けた気がする。
八尾さんは「足元に気を付けて」と声を掛けてくるだけで、どんどん先へ進んでいく。
だいぶ歩いた。
八尾さんの息も少し上がって来ていて、自分もちょっと苦しくなってきた。

「八尾さん、少し休みましょう」
「そんな暇はありません、急ぎましょう」
「…どうして僕を助けて下さるんです?」

月明かりの下、肩を上下させている八尾さんは、どこか神秘的だった。
降ろされた黒髪も月明かりを反射していて艶めかしい。
手繰り寄せられた求道女の服から覗く足は、傷だらけだ。

「あなたを、見殺しにはできませんでした」
「なぜ?」
「…わかりません」

やがて、辺りが薄明りに照らされ始めた。
朝陽だ。言い知れぬ気持ちがこみ上げ、つい口元が緩む。
ふと八尾さんが立ち止まり、下の方を見てみるとコンクリートの道が見えた。

「あとは、あの道を下っていってください。街がありますから、そこから電車を乗り継いで、ずっと遠くへ―――」

振り返った彼女の顔は、朝陽に照らされている。
笑顔を浮かべているが、その目は、どこか悲しく見えた。

「八尾さん。きっとまた会えますよね」
「―――ええ。また会いましょう」

最後に、彼女の手を取り握った。
白くて細い指、手入れされた爪。温かい手。
彼女に触れられるのは、これで最期だと悟った。

(あなたが生きて、"普通"の人生を全うしてくれるだけで十分よ)


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