ヒツジの皮

気付けばもうすぐ夏の終わりが見え始める頃だった。
忙しなくセミが鳴き続けるピークも過ぎ去っているが、昼下がりにはまだ昆虫がいたる所で見られた。
あと一週間もすればきっと、トンボの飛び交う夕暮がメインになるだろう。
そういえば、川ではまだヤゴが取れるのだろうか。
小学校時代の夏休み、友人の父親に「面白いモノを見せてやる」と眞魚川へ連れられた。
友人の父親が持ってきた網で生臭い泥をすくうと、網の中には見慣れれぬ生き物がいた。
行き場を失い、もがいているその生き物を「成長すれば、これがトンボになるんだ」と言った。
そのトンボの幼生をヤゴと呼ぶことは学校の図書で知った。
その時取ったヤゴの大半は、水底で身動きを取らないまま藻に呑みこまれるか、成長してもトンボにはならなかった。

明朝、トンボが羽化するのをみた。
小学生ながら自分はわりと短気な方だと自負していたのだが、その日、母さんが朝食に俺を呼びに来るまでずっと眺めつづけていた。
結局その日家の中へ戻ったのはそのトンボが飛び立ったあとだから、ずいぶん長い間見ていたことになる。
高く昇った太陽に照らされて、陽炎が見えていた。
そんな暑い日に外へ出ていたら、熱中症にでもなっていそうなのに。
それでもピンピンしていたのだから、暑さには強い体質なのだと思う。

日陰になっているバス停で、母さんに持たされた水筒で口を潤した。
いくら日陰にいるとはいえ、いまだ地を照り付ける太陽のせいで気温は上昇する一方。
項垂れ、地を見つめながら頭を無にした。
暑いときは考えない方がいい。
それにここ最近、よくないことが立て続けに起こったのだ。

一つ目は、学校で飼育していた鶏が死んでいたこと。
素人目に見ても、首が変な方向へ曲がっていた。
羽も辺りに散っていて、誰かが鶏に手をかけたことは一目瞭然だった。
二つ目は、宮田が"発狂した"こと。
俺には言えない理由で宮田と高橋さんが諍いを起こし、そしてあの宮田が手を出した。
ありえないことだ。
羽生蛇村にだって素行の悪い人間はいたし、宮田にだって手をだした。
理由は簡単なことで、宮田の澄ました態度が気に食わないという理由だった。
余所者もそうだ。宮田は、彼らにしてみれば一目で「気に食わない」という印象を与える。
それでも宮田は反抗しなかった。ただ上手く回避して逃げる、それが宮田の手だ。
だから、その宮田が高橋さんに手を出したというのが俺にはあり得なかった。
三つ目は、それをきっかけに宮田が鶏殺しの容疑者に挙げられたことだった。
俺には到底理解し難かったし、なにより否定したいことだった。


誰かの足音が聞こえた。
聞き慣れた足音だ、と思った。
顔をあげると、私服の宮田が「あ、」という顔をしているところだった。
腕からは包帯が解かれている。
もう大丈夫なのか、と訊こうとして、腕に残っている痣が目に入った。

「その腕」
「自分でつけたんだ」

宮田は、表情を強張らせてそう言った。
珍しい事だ。
彼の、嫌悪以外の表情を見るのはいつ以来だったか考えたが、まったく記憶になかった。

「痛くなかったのか」
「別に」

それに、すこし早口になっていて、声のトーンもいつになく高く聞こえる。
問い詰めようと思ったが、顔をそむける宮田に口を閉ざした。
声をかけて、鬱陶しそうにこちらをねめつける宮田は何度も見てきた。
嫌われていたって不思議ではないし、むしろ嫌われていない方がおかしい。
それでも宮田に声をかけるのは、ずっと気がかかってたからでもある。
成長するにつれ、宮田は子供らしさを失っていった。
無表情で、絶対に誰にも一線を越えさせない。

「なあ。宮田の母さん、体調悪いって言ってたけど本当なのか?」

宮田がわずかに反応したのが分かった。
悪い予感が的中した――
スッと胸の辺りが冷たくなる。
逆に、頭の奥はじわりと熱くなる。

「お前、俺の母さんがキチガイなのは知ってるだろ」

長い沈黙の後、どこか遠くを睨みつけながらそう言った。
気がおかしい、そう復唱して俺は黙った。
宮田の母さんは、慶の父さんの妹だと聞いた。
ただ、俺たちが生まれた頃にようやく産まれた子供が亡くなって、そのころからちょっと様子が変になった。
昔はああじゃなかったのよ
卒業式に母さんは、宮田の肩を握りながら微笑んでいる彼の母親を遠巻きに見ながらそう言った。

しばらく、無言だった。
やがてポツリと、宮田が「高橋さんには悪いと思ってる」と言った。

「母さん、友達は選べっていうんだ。オレもそう思ってる」
「間違ってはない」
「高橋さんとのことも言われた。成績が低くなったらどうなるんだって」

成績なんて関係ないだろう。
俺にとって成績なんて、生きてく上で微塵も関係のないものだと思っている。
しかし親たちにとってはそうではないらしい。
教師たちも似たようなことを言っている。

「先生が、学校の鶏を殺したのはお前じゃないかって疑ってた」
「だろうな。広めてるのは佐藤だろ」
「ああ」

鶏の亡骸は、朝に世話をするために来た飼育係の女子が見つけた。
あたりに羽が散乱していて、鶏の首は素人目で見ても折られていた。
同じ檻にはいっていたウサギは助かっていた。
ただ隅っこに縮こまり、明らかに怯えている様子だった。

「お前はどう思ってる?」
「俺はお前じゃないと思ってる」

宮田は、だいたいのことは察している様子だった。
もし俺が学校でそんなことをしていたら、きっと戻ることなんてできないだろう。
少なくとも、ずっと肩身の狭い思いをして卒業する。
もともと友人関係が希薄とはいえ、宮田もそれは自覚しているようだった。

宮田を再度ちらりと見た。
いまもまだ、遠くを睨みつけている。
彼は一体なにを見ているのか、まったくわからない。
正直、本当は宮田がやっているのではないかとさえ思えて来てしまう。
宮田がそんなことするわけないと、格好つけたのが情けなかった。

「じゃあ、誰がやったと思う?」

宮田のその問いに、「分からない」と答えた。

「あぁ。皮を被ってるからな」
「皮?」

ふいに顔に意識が戻ると、それまでどこかを睨みつけていた目から感情が消えた。
その目でこちらを射られ、彼に出会って初めて総毛立った。
医者の息子というには肌は健康的で、髪は整えられている。
それなりにイケメンではあるし、親世代の女性たちが「あんなかっこいい子が医者になるなんて」と喜んでいた。
しかし目だけは違う。黒い瞳には光がなかった。
竦んでいる俺を気にも留めず、宮田はバス停を去っていった。


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