香散見草

季節外れの雪だった。
すでに梅は花弁を落とし、桜が大挙して花を咲かせて始めている。
ごわついたこげ茶の枝に薄い白いふちができ、傘をさそうにも悩むような雪だった。

「名前、帰りたくなったら帰ってきていいからね」
「母さん、もうずっと前から決めてたことなんだから、今更そんなこと言うなよ」
「だって……」

目と鼻を若干赤くさせている母さんを「盆と正月は変えるから」と慰める。

俺自身、特別将来に関しては決めていることはないが、とりあえず大学に進学して、そこで就職について考えよう、とは決めていた。
そして、就職先の候補として言えることは、まず「羽生蛇はありえない」だった。
そんなことを両親に伝えれば、父さんは黙って頷いて、母さんは「なに言ってるの、あんた」とかすれ声で言う。
しかし母さんがなんと言えども、俺も父さんもそれを望んでいるのだから、無理に村へ引き止めることはできなかった。

チラチラと降っては溶け、残っても茶けていく雪。
今日の最終バスに乗り、街で一番大きな駅から隣県まで行く。
そこから夜行列車にのり、東北の方にある大学の寮へ入る。
環境がだいぶ変わるけれど、そんなのは高校ですでに経験済みだった。
それに、こういう一般的に環境の変化が当然である時期ならば、ずっと気が楽だった。


気温がグンと冷え込み、牡丹雪のような降りになってきた頃。
村のはずれにある一番街に近いバス停で、俺は厚着をして座り込んでいた。
羽生蛇は夏と冬の寒暖差がそれほどひどい訳ではない。
が、家の造りがまだ古いだけに、立て付けが悪かったりすると、季節のそれに苦しむことが多かった。
だから、夏の茹だるような暑さも、冬の凍えるような寒さも、対策をすればそれなりに耐えられた。

できるだけ熱を逃がさぬよう、地蔵のようにベンチでじっとしている。
バスは定刻通り来てくれるだろうか、と腕時計を見る。
予定通りならあと十数分後だ。
その拍子に冷えた空気が袖口から二の腕辺りまで入ってきて、急いで元の姿勢に戻る。
一度、大きく深呼吸をしたとき、誰かの足音を聞いた。

牡丹雪のせいで季節はずれの積雪である。
普段なら土の擦れる音が、サクサクとどこか心地いい足音がするのだ。
どこかで聞いたことのある足音だ、と思った。
顔を上げると、そこにはかつては見慣れた顔があった。


「苗字くんって、高橋さんのことはどう思ってたの」
「……友達、かな」
「女の子としては?」
「別に。女子だからってのはあったけど、特にそういうのとかなかったし」

高橋さんは高橋さん、同じ学校で同じバスを使っている女生徒。
それだけだ。
カワイイかどうかと聞かれると返答に困る。
彼女候補として考えたことがなかったからだ。
(彼女のために付け加えておくと、決して不細工だったからとかいう理由ではない)

「慶はさ、どうだったの」
「…………」
「あんま女子と楽しく話してるっていうか、女子と話してて、嬉しそうにしてる所、みたことなかったし」

学生時代、小中学校ではほとんど一緒にいたから、だれにどういう態度を取っていたかというのは分かりやすかった。
しかし高校ではクラスが三つも四つもあったせいで同じクラスになることはなく、お互いの把握はほぼ皆無に近い状況になった。

まあ、町の基準でいえば健全な関係になったんじゃないかな
いつしか佐藤との会話でそんなことを言った記憶がよみがえる。
人と人との距離感、近すぎれば息苦しく、遠すぎれば心許なく寂しく感じる。
羽生蛇でのそれは、近すぎるほうに入ったはずだ。
俺たちにしてみれば、町のそれは遠すぎると感じるのだけど。

それでも慶の行動はよく目で追っていたし、きっと慶もそうだったのではないかと思う。
習慣はなかなか抜けないものだ。
そんな中で、慶がクラスの男子と共に行動している所はみても、女子と親しげに話す場面は見たことが無かった。
その場に俺がいた高橋さんとすらも、ほとんど気配を消して会話に参加したことはなかった。

「僕は……」

牡丹雪の降り積もる地面をじっと見つめながら、次の言葉を待った。

「どっちなのか、よく分からなくなる時があった。みんながそう言うから、表ではそう取り繕ってただけで」
「高橋さんのことは?」
「別に、なんとも思わなかった。でも…」

どっちなのかよく分からない――その"どっち"が、一体なにを示しているのか。
当人の口から聞くその言葉には、改めて衝撃を受けるほどの力があった。

「僕の知らないことが、僕の知らない所で話が進んでるって、それがなんだかイヤだった」

それは俺もだった、と言いかけて、飲み込んだ。
思っていることは同じだとしても、その理由が俺と慶とでは違う。
そこからくる、感情も。

「昔はこんな村、嫌いだったんだ。でも、それでも僕はここにいなきゃいけない」
「逃げ出したくなったらいつでも言えよ。手伝いぐらいはするから」
「だから忘れようと思うんだ。全部。昔の事も、君の事も」

俺たちの会話しか聞こえなかった静かな空間に、喧しいエンジン音が加わった。
時計を見ると、予定到着時刻から五分ほど遅れていた。
思っていた以上に会話をしていたことにわずかに驚きながら、俺は立ち上がる。

「じゃあ」
「じゃあ、お元気で」

苗字くん、そう呼ぶ声に、俺は背を向けたまま「ん」と答える。
その日、俺も慶も、お互いの顔を見ることなく別れた。
かつての距離感も、親しさも、なにひとつなかった。


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