走り出す瞬間

「兄さん! ちょっと待ってよ!」
「すぐ戻るから、母さんには適当に誤魔化して置いて――」

走り幅跳びの要領で対岸へ飛び移ってしまった兄さんは、そのまま奥へと突き進んで行ってしまった。
母さんには少しだけ家の中を見てくると言ってある。
だが、時間が掛かれば怪しむだろう。
使っていた部屋は道路沿いの壁に窓があったから、部屋に行っていないコトもばれてしまう。
こうして地下室から下水道に下りていたことがばれれば、いつものうるさい小言が始まるに違いない。

(どうしよう…)
肌にジワリと汗がにじんでいるのは湿気だけのせいではない。
母さんのあの人の変わり様は、幼かった私には恐怖の対象だった。
それは今も変わっていない。
純日本人はみんなそうなのか? そう疑ってしまうぐらいに。

ごとり、と奥の方から音が響いてくる。
それに思わず身体を固まらせれば、相次いで喧噪に近い複数の声が聞こえてきた。
ヒヤリと何かが胸の中を落ちる。

「兄さん! 兄さん、どうかしたの?!」

兄さんの声は帰ってこなかった。
私の声が下水道の中をこだましていく。
それに反応したのか、喧噪も音もすぐに止んだ。
頭から血の気が引いていった。
下水道は静かなままだ。

数歩、後ずさるとすぐに壁に当った。
下水道までの距離は、走って4歩ぐらいだろうか。
心臓は、外に漏れそうなぐらいにドクドクと鳴っている。
大きく深呼吸をして、最後に小さく息を吐いた。

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