式の前日



授業が終わり、部活が始まる少し前
体育館へと続く廊下で柔そうな髪が少しくるんと跳ねた後ろ姿を見つけて、隣には澤村さんがいたけれど今を逃したらもうチャンスはないと思い、震える拳を握りしめ声を掛けた。

「菅原先輩!」
「おー名前?ちょうどこれから、大地と顔出そうと……」

そう言いながら先輩は振り向く。久しぶりに見るその姿に緊張しすぎて口から心臓が出てしまいそうだった。

「……その前にちょっとだけ……いいですか……」
「……ん、分かった。大地、先、行ってて」
「ん?あぁ、分かった。名字もまた後でな」
「あ、ありがとうございます……」

片手を上げて行ってしまった澤村さんの背中を少し名残惜しく眺めていると「あれ?本当は俺じゃなくて大地に話だった?」と笑われてしまった。ドキドキするから、そんなに無邪気な顔で笑わないで欲しい。


「えーっと、……その、」
「うん」

人気の少ない階段の前に移動して向かい合う。先輩はなかなか言い出すことができない私を、急かすでも嫌な顔をするでもなく黙って見守っていてくれた。指先が冷たい。ふぅと息を吐き出して一気に吸う。そして、真っ直ぐに先輩を見つめ話を切り出す。

「……あ、あの!だ、第二ボタンください!!」

一息でそう告げると先輩は勢いに驚いたのか、ぽかんとした表情を浮かべた後、少し困ったように指先で頬を掻いた。

「……あげたいのは、山々なんだけどさぁ」
「……」
「卒業式、明日な!」
「……菅原先輩人気ありそうなんで、なくなったら困るなって……」
「人気ありそうってなんだよ!気持ちは嬉しいけど俺もなくなったら困るんだよなー。多分、怒られる」
「え!菅原先輩が怒られるのは…避けたいです」
「だべ?」

そう言って先輩はケラケラと目を細め笑った。その砕けた雰囲気に少しずつ緊張が解れていく。卒業式にボタンがなかったら困るというだけで、私にくれる気はあるのだろうか……?他にあげたい相手は……?

「……じゃあ、予約は可能ですか」
「また面白いこと思いつくよなぁ。いいよ。特別な!」
「じゃあ、第二ボタンを一つよろしくお願いします!」
「それだけでいいの」
「え、や、そんな……ボタンたくさん貰っても……」
「じゃなくて、こーこ」

遠慮を示すために振った右手をぐいと軽く引っ張られ、とんっと先輩の第二ボタン、心臓の辺りに触れる。

「まるごと名前にあげる」

さっきまでケラケラと笑っていたくせに、今度はじっと真剣な眼差しで見つめられ息が止まる。苦しい。ずるい。こんなのかっこよすぎて死んでしまう。

「……よ、よろしくお願いします」

やっとのことで吐き出した言葉に先輩は両手で顔を覆い、突然その場にしゃがみこんだ。

「はぁー。良かったぁぁぁ!断られたらどーしようかと思ったわ」
「ほ、本当に……私が貰っていいんですか……?他に、」

自分で口に出してから、その答えを聞いてしまうのが怖くなって途中で止める。すると先輩は顔を覆っていた手をこちらに向けて伸ばし、私の手をぎゅっと握った。ずっと白くて細くて綺麗だなと思っていた先輩の手は触れると私より大きくて、きちんとごつごつとした男の人の手だった。

「……最初から名前にあげようと思ってた。名前から言われなくても、ボタン押し付けて卒業しようって」
「え……」
「第二ボタン押し付けられたら嫌でも俺のこと考えるべ?少しでも、お前の頭ん中に俺が残ればそれでいいかなぁって」
「た、確かにそれは……頭の中、菅原先輩でいっぱいになっちゃいますね……」
「っ……はぁぁぁぁぁ。なんだよ……ちくしょー。かっわいいなぁー……」
「先輩?」
「ん?あぁ、ごめん。心の声漏れてたわ」

そう言って先輩は悪びれる様子もなく、ぺろりと舌を出してみせた。ぎゅっと握り合った手が離し難い。もう少し触れていたいけれど、そろそろ部活に行かなければ……。その思いは先輩も一緒だったようで立ち上がったものの、握った手は離さずに無言でお互いに何度かじゃれつくようにぎゅっぎゅっと握り合った。

「……よーしっ、そろそろ行くべ」
「はい……」
「……明日、受け取り忘れんなよ?」
「菅原先輩こそ、間違って誰かに渡さないでくださいよ?」
「……バーカ」

笑い合いながら、ゆるりと手が解けていく。けれど、もう指先は冷たくはなかった。




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