講義の終わりを告げるチャイムが鳴った。綾乃はゆっくりとその場で伸びをしてから携帯を鞄から取り出すと、着信を知らせるライトが点滅している事に気付いた。
開いてみるとメールが二件。一件目は友人からだった。昼食を一緒にどうかというメールだ。二件目は内海。
先日、湯川と内海と三人で事件現場に行った後、綾乃は内海とメールアドレスを交換したのだ。それから何度か連絡を取り合っていたのだが、全て内海の仕事が終わった後の夜だったので、こんな昼間に連絡が来たのは初めてだった。
「助けて……?」
次の行には十一時に食堂前で、と書かれていた。可愛らしいネコの泣いている顔文字がなんとも内海らしい。
なにを助けるだろうかと一瞬考えたが、頼ってくるとしたら多分湯川の事だろう。
内海は少し湯川が苦手と言っていた。ものすごくカッコいいのに何を考えているかわからない、とも言っていた。確かにそうである。心理学を専攻していて、その知識はあると自信を持っていた綾乃でさえ、湯川が何を考えているのか、どういった人間かを未だによくわかっていないのだ。
普通の人から見たらただの変人なのは変わりようのない事実だ。そんな人間を相手にする内海を少し気の毒に思ってしまった綾乃は、内海にOKの文字と共に笑っているネコの顔文字を添えてメールを送ると、それとは別に友人には昼食を断るメールを送った。
一息つくと、内海から着信があった。どうやら既に校内にいるということなので、食堂で落ち合うこととなった。
「良かった来てくれて!一人じゃ迷子になりそうで困ってたの」
「内海さん、別の事で困ってるんでしょう?」
「……ばれてたか。それにしてもすごい人の数ね」
「早くいきましょう内海さん」
正午前となると、食堂付近はかなりの学生で賑わっていた。人ごみが好きではない綾乃は、内海を見つけるとすぐにその場を後にした。
途中、空気を読まない男子生徒が話しかけてきたりもしたが、愛想笑いでその場を逃げ切って二人は内海の目的の場所に到着した。
「あー、しんど。それにしても綾乃ちゃんやっぱりモテるんだ。ここまで来るのに何回声かけられた事か。美人は大変だね」
「内海さんが綺麗だからですよ。男性は大人のお姉さんが好きですから」
「やだ綾乃ちゃんったら!」
「それより用事って、」
綾乃が言い終わるより先に、内海は慌てて人差し指を口にあてた後、近くの教室を指差した。
静かに近づくとまだ授業をやっているようで、人の気配とともにあの声が聞こえてくる。内海は綾乃の腕を掴むと、忍び足で教室の一番後ろの席に陣取った。
教室に入ってみるやいなや、驚いたのは学生の数と、その男女比。心理学が人気がないとはいえ、教室いっぱいに学生がいる講義は綾乃は見た事がなかった。ましてはその大半、否九割が女生徒となると圧巻である。
そんな中で清々と講義をこなしているのが、内海がメールで助けを求められた悩みの種であろう、湯川だった。
メリハリがあってスピーディな話し方で、黒板にもテキパキと問題を書いていく姿を見てなのか、女生徒からため息がもれている。
確かにわかりやすく、教え方は良いなと綾乃は思った。しかしそれだけでこの人数が集まるはずがない。この教室の女子がほとんど湯川を目当てでこの教科を取ったことが誰が見てもわかる状況だった。
湯川が問題を出した。水の分子を構成する原子を答える問題だった。湯川は前例の方にいた生徒を指名すると、その生徒はまるでキューピッドの矢にでも打たれたかの様な声色で解答した。
なんだここは、ホストクラブか。綾乃は呆れたため息をつきながら思った。それほど女生徒から熱くてピンク色をした空気がこの教室に充満していた。
半ばうんざりした気分で聞いていたが、ふと湯川と目線があった。その視線はすぐ横の内海に移ると、彼の眉間にしわが寄った。
内海が湯川の視線に気付き、立ち上がって逃げ出そうとしたが、時既に遅かった。
「君、そこの君。マイクロ波を照射する事によって水分子内に振動を起こし、熱を発生させる家庭用品は?」
「……へ?」
「マイクロ波を照射する事によって水分子内に振動を起こし、熱を発生させる家庭用品は?」
内海は教室内の視線を一身に浴びてしまったからだろうか、マイクロマイマイなどと意味不明な言葉を言いながらパニックを起こしてしまっている。非常にまずい。
湯川は多分捜査協力をしたくないのだろう。だから内海に皆の前で恥をかかせて帰らせようとしているのだろう。綾乃は咄嗟にそう考えて立ち上がった。
「電子レンジです。パーシー・スペンサーが元々通信で使っていたマイクロ波が加熱に使える事を発見したとされています」
立ち上がった綾乃と湯川の視線が交差する。周りの学生が綾乃に気付きひそひそと横と会話をしている。
なぜあの子がここにいる、とそんなに大きい声でひそひそ話されて聞こえないわけがない。
またあらぬ噂がたつんだろうと思ったが、湯川の挑発的な視線が癪に触って更に睨み返す。
しばしの間睨み合っていたが、不意に湯川の顔が黒板へと戻った。合わせたようにちょうどチャイムが授業の終わりを告げた。
「……君は当ててはいない。だがしかし正解だ。今日の講義はここまで」
綾乃は混乱したままの内海の腕を引っ張り、教室の外へ出ていったのだった。