昨日はあれから何事もなく講義に出て家に帰った。否、何事もないわけではなかった。朝の出来事が瞬く間に噂となり、友人がしつこくその話を聞いてきたり、周りの女学生の目が鬱陶しかったのだ。実は湯川先生に脅されたのっ、なんて言えるはずもなく。なんとか言い訳を作って事なきを得たのだった。
 昨日の疲れが取れぬまま、綾乃はたまの休日を家ですごしていた。ベッドに寝そべり『湯川学』と書かれた名刺を眺めながら、昨日のあの顔を思い出す。
 認めたくはないが、友人の言葉通り、確かに顔はよかった。自分の身近にいる人達より遥かに整っている。あれでもっと偏屈ではなく、変人でもなく、もっと好感を持てる人間だったら……と思った瞬間だった。
 携帯の着信音が静かな部屋に鳴り響いた。
 まさか昨日の今日で連絡が来るわけがないだろう、しかも今。
 から笑いしながら恐る恐る携帯の画面を見ると、知らないメールアドレスからだった。ふと持っていた名刺を見れば、そこには携帯電話の画面に同じ文字列が並んでいた。つまりは湯川からメールが送られてきたのだ。

「まじかよ……」

 題名には、話しがある、と書かれていた。意を決して中身を見る。

「今日の十三時に研究室に来い、って……ざけんな!」

 たまの休みをまさかこの男に取られるとは思いもよらなかった。綾乃はベッドに体を投げ打った。


***


「五分の遅刻だ。理由を聞こう」
「道に迷っておりました。こちらに来たことがありませんでしたので」

 コーヒーを手近にあったスプーンでかきまぜながら、湯川は入り口を見た。
 綾乃はむすっとした顔をしてドアノブを握り締めたままその場に立っている。
「そこに座りたまえ」と湯川が指差す。綾乃は無言のまま、最後の悪あがきのように一番遠い席に座った。
 湯川は持っていた一つのカップを綾乃の前に置いて、自分の席であろう場所に座りコーヒーをすする。

「お話とは何でしょうか、」
「普通にしてくれて良い、僕の前では。君とは対等に話をしたいと昨日も言ったはずだ。やはり記憶力が乏しいのか?」

 冷たく言い放つ湯川に、綾乃は頬を引きつらせた。

「その綺麗なお顔をぶん殴りたくなったわ……何だよ話って」
「ごめん蒙る。これから君に会わせたい人間がいる。君よりも時間にルーズな人間だ」

 いちいち小さい事につっかかって来る奴だ、さすが変人。
 頭の中で文句を垂れながら、お世辞にも綺麗とは言えないマグカップを手に取りコーヒーを口に含ませた。
 まずい。なんだこれ。コーヒーから立つ湯気の良い香りとは裏腹に中身はとても薄かった。
 綾乃はカップを机に置いた。

「で?私は何をすれば良い、」
「すみません!ちょっと違う事件が……」

 研究室の入り口が乱暴に開け放たれる。女性が息を切らして慌てて研究室に入ってきた。
 綺麗な黒髪を簡素な髪ゴムで結び、紺色のパンツスーツと、飾り気はない。しかし街の中を歩いていれば思わず見てしまうような容姿の女性だった。
 湯川はその女性を横目で見ると眉間に皺を寄せてカップを持ったまま立ち上がった。

「内海君、これから僕の助手となる橘綾乃君だ。事件の概要を聞かせてやってくれ」
「へ?ちょ、待ってくださいよ湯川先生!この子民間人でしょ!?そんな事話せるわけが、」
「橘君は優秀な学生であり、特に犯罪心理学に秀でている。それに夢は刑事だそうだ。少しでも勉強させてあげてはどうだね?将来の先輩として」

 将来の先輩、と聞いて内海は思わず頭の中で想像した。
 内海先輩、いつも大変ですね!尊敬します!という感じの物でも浮かべたのだろうか。
 内海は少し上を向いてニヤニヤ笑っていた。
 綾乃は湯川を一瞥してから内海を見た。スーツの膝裏には多くの皺があった。これだけ深く残すにはたくさん歩かなければならない。この女性警官は捜査を真面目にやっていることがうかがえた。そしてさらにその下、ヒールの低いパンプスを履いているのも、また好印象だ。そのヒールが年季の入っていないのに傷が多いことから、刑事になりたてだということがわかった。
 警察にもコネが多い方が良い。湯川が紹介してきたのだから、そうしろと言うことだろう。そう思った綾乃は、にこりと完全に作った綺麗な笑顔で内海に言った。

「初めまして橘綾乃です。この大学で心理学を専攻しております。内海さん、色々ご迷惑おかけすると思いますが、よろしくお願い致します」
「――可愛い……!!」

 内海は間髪いれずに綾乃に抱きついた。湯川は驚いて目を丸くするが、本人が一番驚いているようだ。内海の腕の中であたふたしてパニックになっている。
 内海は綾乃を腕から解放した思うと、肩を力いっぱい掴んでいった。

「大丈夫!先輩の私に任せなさい!あー、こんな可愛い後輩が入ってきたらって思うと嬉しくて嬉しくて……」
「私も内海さんのような綺麗な刑事さんのお手伝いをさせて頂けるなんて光栄です」
「いやだもう、綺麗だなんて!全く先生もこのくらい人に対して素直な心を持ってくださいよ!」

 それを聞いた湯川は驚いた顔をしていたのが、数秒後には突然笑い出したのだ。綾乃も内海をその姿を見てきょとんとしている。
 二人に構うことなく湯川は笑い続けた。

「素直な心……ねぇ。僕にいうべきでないと思うが。いや、すまない、本題と行こうか。橘君、人体発火は知っているかね?」
「は、はい。知識としては。諸説紛々ありますが、一番有力と言われているのは人体ロウソク化現象です」
「その通りだ。では内海君、事件の内容を」

 湯川は席に座りゆっくりとコーヒーを口に運んだ。
 急に話を持ちかけられたので、内海は急いでハンドバッグに手をつっこみ手帳を出すと、破いてしまいそうな勢いでページをめくった。
 被害者は山本良介。事件は花屋通りと呼ばれる閑静な住宅街で起こった。深夜、友人と四人で川原付近で騒いでいたところ、突然被害者の頭が燃えたと言う。
 一緒にいた友人たちに被害はなかった。しかし、それを見てパニック状態となり、今もあまり話ができない状態であると内海は簡単ながら説明した。
 被害者とその友人たちは、毎日の様に事件現場周辺で騒ぎを起こすので、警察には住民からの苦情が耐えなかったとも付け足した。
 話を聞いて首を傾げながら綾乃は手を挙げた。

「その事件、ねずみ花火で燃えたって新聞に書いてありましたが」
「実際はそうじゃないかも知れないのよ。だから湯川先生に話を聞こうと思って……」
「そういうわけだ。それじゃあ行ってみようか」

 湯川は持っていたカップの中身を全て飲み干し、腰をあげた。

「どこにですか?」
「決まっているだろう。その現場にだ」





TOP
栞を挟む

6/102
「#エロ」のBL小説を読む
BL小説 BLove
- ナノ -