「痛いんだが、離してくれないか」
「も、申し訳ございません……」

 食堂についてすぐにその言葉が後ろから聞こえた。慌てていたのと、早くあの場所から離れたい気持ちでいっぱいだったせいもあってか、いつの間にか綾乃は湯川の腕を思い切り掴んでいた。
 離した腕を小振りしながら、湯川は綾乃の顔をじっと見つめている。その顔は、痛いと言っていたわりには全くそのようには見えなかった。

「――とりあえず座ろう。君に話したいことがある」

 湯川は一番近いテーブルに座った。綾乃は湯川から視線を外さずに反対側に座った。
 しばらくの沈黙。朝の食堂に人の姿はなく、自動販売機の機械音だけが虚しく響いていた。しびれを切らした綾乃が恐る恐る口を開いた。

「……それで、何か、御用でしょうか」
「昨日の口調と違うな」
「き、昨日?一体全体何のことかさっぱり、」

「『うるせえ、人が折角気持ちよく寝てたのに』と僕に言ったのを忘れてしまったのか?教授たちの話を聞く限り、君は成績も優秀だし素行も良いと評判だが、記憶力は恐ろしいほど乏しいのか」

 しらを切ったつもりが、まさかそれを鵜呑みにするとは思わなかった。綾乃は唖然としたのと同時に、目の前の人物が普通の人間の感性を持ち合わせていないことに気づいた。そして思ったのは、これ以上何を言っても昨日の事実が彼の頭の中からは消えないということだ。

「ええ、言いました。言いましたよ。もしそれが癇に障ったんなら謝ります」
「そういうわけではない。聞きたいことがあるだけだ」
「聞きたいことって……」
「橘君、君はいつもあんな乱暴な口調で話をしているのか」
「それは、」
「ああ、僕の前では普通にしてくれて構わない。僕は君と対等に話したいんだ」

 観念した綾乃は頭を掻いて椅子の背もたれに身体を預けた。

「そうだよ。いつもは皆の前でお嬢様してる。先生にもウケが良いしな。今まで続けてこれたのに、お前みたいな奴にバレるなんて……」

 少しずつ声が小さくなったので、最後の方は聞こえなかったかもしれない。湯川はふむ、と少し顎に手を添えて考える素振りをした。

「つまり、それは周りに隠している、という事か」
「そう、つまりそう。お前がその話を周りにしなければ」
「湯川だ」
「……その湯川大先生様が他の誰にも昨日のあれを話さなければ、私の大学生活も、将来の夢も、壊されずに済む。大先生にも迷惑がかかることはねぇ」
「大先生は大袈裟だ。それで、その夢とは?」

 なんでそんな事まで話さないといけないんだよ、と綾乃は心の中で呟いた。
 しかし今は自分の秘密を握られている。ここで少しでも上手に出たら、目の前の男が何を仕出かすかわからない。
 仕方がないので綾乃は続けた。

「――刑事になる。何がなんでもならなくちゃいけないんだ。その為には知識が必要になる。成績優秀だった証明も、先生方のコネも必要になる。その為に先生方にヘラヘラ笑って媚び売って最高のイメージ作ってきたんだよ。でも、もしお前がその事を話したら、今まで積み上げてきた苦労が全部消えるんだよ。それだけは……」

 もう終わりだ、すべて言ってしまった。こんなことになるなら家の中でだけ素に戻るようにしておけば良かった。考えれば考えるほど後悔だけがのし掛かる。綾乃は額に手をついて顔を隠して自分を責め立てた。
 湯川は少しの間何も言わずに、まっすぐな視線を綾乃に送っていた。

「――よし、君に僕の助手をやってもらおう」
「は?」
「勿論嫌なら良いんだ、その時は大学中にこの事を、」
「はぁッ!?それってどう聞いても脅しじゃねーか!」
「それは君の勘違いだ。どうみても立派な交渉だろう。僕が君の秘密を守る変わりに、君が僕の手伝いさえしてくれれば良い。僕は君に興味が沸いた」

 口の端をあげて笑う湯川と言う男が、何をどう考えているのか綾乃にはさっぱりわからなかった。ただ目の前の綺麗な顔は、自分を騙そうとかそういう事は考えていないのだと綾乃は思った。思いたかっただけなのだろうけど。
 綾乃の答えを待っている間、湯川は椅子の背もたれに身を預けて足を組み直した。

「――私、心理学部なんだけど」
「関係ない。僕が連絡した時はすぐに来てくれたまえ」

 胸ポケットから名刺入れを出すと、そこから一枚引き抜いて綾乃の前に置いて、「では後日」とそのまま食堂から出て行ってしまった。

「……なんなんだ?あの変人」

 綾乃は唖然として名刺を持ったまま、その姿を見つめる事しか出来なかった。


 ***


「……何かあったんですか?」

 湯川が明らかに楽しそうな、嬉しそうな顔をしていた。それが行動に出ており、いつもは入れろと言って座っているだけなのに、今日は栗林にコーヒーを入れてきたのだ。
 これに驚いた栗林が湯川にそう聞いたのだった。

「なんだか、嬉しそうですね」
「そう見えますか?」

 栗林にコーヒーを渡した後、デスクに戻りノートパソコンに向かい合う。その顔は少し笑みを含んでいて、端から見るとノートパソコンでいかがわしい物を見て笑っている様にしか見えなかった。

「……なんか今日の先生、ちょっと気持ち悪いです」
「栗林さん、貴方は僕が良い事があった時には笑いも、感情も出してはいけないと言うんですか?そもそも感情と言うものはヒト、動物、物事などに、」
「あーもー良いですよ!先生もそういう所があるんですね。で、何があったんですか?」
「興味深い人間に会いました。僕が今までに出会った事がない人間でしたよ」

 栗林は湯川を怪訝な顔で見つめながら、首を傾げた。湯川の話はなんの脈絡もなく始まるので長年一緒にいる栗林でさえついていくのがやっとだった。
 更に湯川は続ける。

「何度か噂には聞いていたが、話をしたらずいぶんとひねくれている」
「先生に言われたら……」
「貴方と話すよりずっと面白くて、ずっと落ち着けました。それに――」
「はいはいはいはいそうですか!もうなんですか一体!さっきから馬鹿にするような事ばっかり!そろそろ学生の論文に目を通してくださいよ……あの、聞いてますか先生!?」

 栗林はデスクを叩き、頭から湯気を出して怒りを露にしていると言うのに、湯川は全く動じない。
 むしろ何か思い出す様に何かを言ったのが見えたのだが、それは湯川の含み笑いとコーヒーの湯気で消えていったのだった。





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