「一生の不覚だわ……」
「どうかしたの?」
友人が綾乃の顔を見て首をかしげた。とぼとぼと溜め息をつきながら歩く姿を見て心配したらしい。綾乃は大丈夫と作り笑いをした。
あの後――大学関係者と遭遇してから、綾乃はすぐさま家に帰ってあれこれ思案したのだが、良い案が浮かんでくるはずもなく。
本当に不覚だった。まさか大学の人間にあの言葉遣いを聞かれるなんて思いもしなかった。しかも昨日の人物が誰だかわからないだけでなく、顔すら見ていないのだから口止めすらできないのだ。
アレがばれたら今までの苦労が全て水の泡になる。もしそうなったとしたら――。
悪いことばかりを考えてしまい、布団に潜り込んで不安で一睡もできないまま、今こうして重い足取りで大学へと向かっていた。
最悪な事態を考えたくない一心で、友人の他愛のない話に相づちしながら歩いていた時だった。二人が正門を抜けてから、少し後の方から学生の、しかも女性だけの黄色い声が聞こえた。
昨日のあれをなんとかしなければと悩んでいた綾乃の服の袖を友人がつかんで言った。
「ねえ、見てよ!湯川先生!」
「――誰?そんな先生いたかしら?」
そう言った綾乃を、まるで珍しい生物でも見るかの様に目を瞬かせて友人は早口でまくし立てた。
「知らないの綾乃!?帝都大学理工学部、物理学科の准教授よ!頭脳明晰、スポーツ万能で容姿端麗。講義のほとんどは女子大生で埋まってるくらい人気の先生よ!本当に知らないの?」
「私、心理学部だし……他の学部の先生には興味はないから」
そんなことを知らなくても大学では生活できるし、それに物理学は綾乃の夢にはほとんど関係ないのだ。一応図書館にあるそういった類の本は読んではいたが、専攻の教授なんて知らなくて当たり前だと思っていた。だが友人は、犯罪オタクだの周りを見てないだの、小姑の小言のように口々に述べるのもだから、耳が痛くなる前にと綾乃は足早に校内へと進んでいった。
すると、聞き覚えのある声がした。
「おい、君」
どこかで聞いた声だった。思い出したくない声。昨日の、あの。
「君は耳が聞こえないのかね」
イヤミかこの野郎は。素に戻ってぶん殴ってやりたい。その気持ちを抑えて聞こえないフリをしたまま校内へと急いだ。だがそれは叶わず。
「橘君」
「……はい」
名前を呼ばれ、綾乃はぎょっとして肩を飛び上がらせた。まさか相手が自分の事を知っていたとは予想外だった。
横で友人や他の女学生がキャーキャーとわめいている。綾乃は観念して足を止め、ゆっくりと後ろを向いてその声の主の顔を見た。
背の高い、スラっとした男が綾乃を見下ろしていた。綾乃はこんな時に、息を飲むという言葉はこんな時使うのかと暢気に納得していた。
確かに学生が黄色い声を出すのがわかる。眉目秀麗という言葉がぴったり当てはまる様な人が今目の前にいる。そして眼鏡を直しながら何やら自分の顔を覗き込んでいるではないか。
綾乃はびっくりしてすこし後ろに下がる。自分の顔がみるみる紅潮していくのがわかった。びくびくしながらその男に問いかける。
「な、何か御用でしょうか……?」
「――ん?なぜ昨日の様な口ち、」
「わーわーわーわー!」
この野郎、皆がいる前で口に出すな馬鹿が!心の中だけでそう叫びながら、男の顔の前で両手を振った。男は不思議そうな、そして怪訝な顔をしてまた口から言葉を発しようとした。あわてて綾乃は阻止する。
「あの、すみませんが少しお話したいことがあります」
「ほう、奇遇だな。僕も君と話したいと思っていたんだ。色々と聞きたいことがある。きの、」
「それはそれは光栄でございます!それでは参りましょうか!」
半ば無理やりその場から連れ出して、人気の少なそうな場所へと直行した。後ろからは学生の喚き声やら友人の叫び声やらが聞こえたが、勿論綾乃は全て無視して二人は小走りでその場から立ち去った。