「絶対、いや、ですっ」
「どう、して、ですかっ」
柱にしがみついて離れないシシーを、バーナビーは必死になって引き剥がそうとしていた。
「契約者様でもない限り、そのご命令は、聞けま、っせん!」
「じゃあ、契約者だったら良いんですね?」
引っ張っていた腕から手をぱっと離して、バーナビーはニヤリと笑ったかと思うと、携帯電話を取り出してある場所に電話をし始めた。ご機嫌な顔をして相槌を打ちながら電話の相手と話しを終えると、繋がったままの状態で携帯電話をシシーに渡す。シシーは柱にしがみついたままそれを受け取った。
「ええっ!? ……ですけど、はい……はい……かしこまりました」
どんどん小さくなっていく声と、弱まっていく柱を握る手に、バーナビーは見えないように背中ガッツポーズをした。
溜め息を付きながら電話を終えたシシーに、バーナビーは満面の笑みで言った。
「それじゃあ、切りましょうか。前髪!」
「…………はい」
飄々としてバスルームに行くバーナビーの後ろを、シシーは渋々重い足取りでついていくのだった。
「あ、あの、本当に、切るんでしょうか……?」
「美容師の友人がいるんで、ちょっとかじった事あるんですよ。だから大丈夫です」
ニコニコと上機嫌にハサミを握るバーナビーの前で、どんよりとしたオーラを放つシシー。向かい合わせで座る二人の距離は近く、シシーはそわそわして落ち着きがない。
「――その服以外ないんですか?」
「は、はい、規則ですので。この服以外持ち合わせておりません」
髪を切るというのにこんな服を着ているので、切った髪が服につかないか心配になったのだ。
シシーの着ている服は毎日同じメイド服だった。最近都市で流行っている喫茶店の、短いスカートにフリルのたくさんついたメイド服ではない。膝下まである紺色の長いスカートに、機能性のあるエプロン、襟元には申し訳程度に赤い紐のリボンがついているだけの質素なメイド服だった。
「邪魔なのであれば、脱ぎますが、」
「やっ、いや意味わかんないですし! 良いですから!!」
スカートをめくりあげて脱ごうとするシシーを必死で止めさせた。
人前で服を脱ぐのは良くて、顔は見せたくないなんてどんなに非常識なのだと思いながら、バーナビーはバスタオルをシシーの首元に巻いた。
「切りますんで、動かないでくださいね」
「……本当に切らないと、いけませんか?」
「マーベリックさんはなんて言ってました?」
「切らないと、契約違反で、解雇します、と……」
「されたいなら、切らなくても良いんですけど」
「それはもっと嫌です!」
「じゃあ観念しましょう」
ニッコリと笑うと、バーナビーは躊躇うことなくハサミを入れたのだった。
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「――まだ出てこない気ですか?」
鼻の先にまでかかっていた前髪を切ってから、シシーがバスルームから出てこないまま三十分がたとうとしていた。
バーナビーは既に一度目に淹れたコーヒーを飲み干して、二杯目を持ってバスルームを覗き込んだ。磨り硝子のせいで中はよく見えないが、白と黒の物体が動いているのは見えた。シシーがいる事は確かだ。
「や、やっぱり、見せられませ、ん」
ようやく聞こえてきた弱々しくてうわずって涙混じりの声に、バーナビーは溜め息をもらす。
「出てこないなら、今日僕お風呂入れませんし、夕飯も抜きになってしまいますよ」
「それはっ、駄目ですっ!」
「じゃあ早く、」
「それも、駄目ですっ!」
融通の聞かない使用人に半ば呆れながら、どうすればこの天岩戸が開くのか考えていた。
そもそもどうして、こんな事をしたのだろう。使用人なんて、邪魔でうるさくて肩身を狭くするだけだと思っていたはずだ。それなのに今は、どんな考え方をしているのか気になって、シシーの顔をもっと見たくて、どんな表現をするのか見たくてたまらない。
その気持ちがなんなのか、まだわからない。きっと興味本位なのだとバーナビーは勝手に解釈していた。
呆けていると、シシーは突然立ち上がり磨り硝子を開け放った。
「やっと出てきて、」
バーナビーの言葉を完全に無視し、シシーは目の前を通り過ぎて走り去った。まさか逃げるつもりかと思いその後を追いかける。
シシーが向かった先には、ガスがつけっぱなしのコンロがあった。沸騰した蒸気で音が鳴るタイプのヤカンが置かれたままで、一瞬だけけたたましく音をならしてすぐ鳴り止んだ。
シシーは溜め息をつくやいなや、くるりと向き直るとバーナビーの前に静かに近づいてきて言った。
「バーナビー様、火は使ったら消してくださいまし! というよりも私がやりますので!」
「す、すみません、」
「貴方様の身になにかおきたら私どうしよう、も、……」
シシーは訝しげな顔をしてバーナビーを見つめた。バーナビーは、口を押さえて笑いを押し殺している。
「どうかなさいましたか?」
「どうかした、じゃないよ。あなた、あんなに見られたくないって言ってたのに、普通に顔見せてるから」
耐えきれなくなったのか、バーナビーは声を出して笑い出した。
指摘された本人は今頃気づいたのか顔をトマトのように真っ赤に染めて、慌てて顔を隠した。
「わ、わわ笑わないでくださいまし!」
「ごめんごめん……可愛くて、」
自分で言ってからはたと気付く。可愛い? 今までそんな感情持った事なんて、大人になってからほとんどなかった。
社交辞令ではたくさん言うが、本心で思った事なんて、ついぞなかった。
そもそも他人の事なんて信用もしてないし、興味なんて勿論ない。
こんな少女一人に、自分の気持ちが揺さぶられたのだと気付くと、途端に顔が赤くなっていく。
「バ、バーナビー様? お顔が赤いですが、」
「あ、あなたの方が赤いじゃないですか!それより、どうするんですか? 僕に顔見られただけでそんな風になるのなら、仕事なんて出来ないじゃないですか」
「バーナビー様の見ていないうちに仕事を全て終わらせるので心配いりません」
「――それじゃあまるで、幽霊に身の回りを世話されてるみたいで嫌なんで却下です」
涙目だというのに、目は真剣そのもので言うシシーを見て、この使用人なら本当にやかねないと、バーナビーはまた笑ってしまった。
不意にバーナビーのつけていたPDAが光った。
「お仕事のようですね」
「そう、みたいですね」
「――お気をつけてくださいまし」
「はい。いって、きます」
シシーは深々とお辞儀をしてバーナビーを見送る。一旦玄関まで走っていったバーナビーは、ふとある事を思いついてキッチンに戻った。
「あ。今日、僕カルボナーラが良いです」
わざと作り置きができない物を選んでシシーに言ってやった。そうすれば、自分が帰ってこないと作ることができないし、作り置きをして姿を見せないなんて事が絶対にできないようにしたのだった。
「――――か、かしこまりました」
シシーもそれがわかったようで、少しの沈黙の後、小さい声だけどはっきりと返事を返した。バーナビーはそれが嬉しかったのか一度笑うと仕事に向かったのだった。