***2***
「バーナビー様、朝でございます」
小さな声とドアを軽く叩く音がした。バーナビーは既に起きていたが、その音には反応しなかった。
昨日寝る前に、寝室には入るなと言っておいたせいか、シシーは中に入らずに部屋の外から起こそうとしているようだった。
「バーナビー様? 朝でございます!」
再び聞こえた声は、先程よりも大きい。
それでも起きないのであれば、きっとあの機械のような使用人は、どうにかして自分を起こしに来るだろう。
部屋に入ってくればこっちのものだ。それをクビの口実にできるし、逆に起こさなかった場合もしかり。
あの使用人はどちらをとるかとバーナビーはニヤニヤしながら扉を見ていると、パタパタと部屋から遠のく音が聞こえてきた。
「――僕の勝ち、かな」
起きなかったから諦めたのだろうと心の中でガッツポーズをした。その時、携帯電話が鳴りだした。マーベリックからの電話だった。
『おはようバーナビー君。今君はどこにいるのかね?』
「お、おはようございます。自宅ですけど、どうしたんですか?こんな朝早くから」
『君の使用人から連絡があってね。家にいないようだからどうしたのかと、心配していたよ』
電話の奥で名前を呼ばれているのに気付かず、バーナビーは頭を抱えた。
二言三言話しをしてからマーベリックの電話を切ると、バーナビーはリビングに向かった。
リビングには一人分の朝食が並べられていた。
「おはようございます。バーナビー様」
「おはようございます。じゃないですよ! なんでマーベリックさんに電話したんですか!?」
「バーナビー様に何かあった場合はご連絡する契約になっておりましたので」
淡々と答えるシシーに、バーナビーは頭を抱えてため息をついた。
「お召し上がりになりますか?」
「あ、ああ……」
並べられているものを再び見やった。全部バーナビーが好きなものばかりで、教えていないミルクまでしっかりと用意されていた。
「――完敗だ」
「何か?」
「なんでもないですよ」
シシーは首をかしげる。
この後様々な仕掛けでシシーを家から追い出そうとするが、全てがかわされてしまう事となるのだった。
こうして、機械のような使用人を強制的に雇われさてから、五日が経過しようとしていた。数日前は、使用人なんてものは勝手にプライベートに割り込んで、勝手に人の部屋を漁って掃除したり、いらない事ばかりする邪魔なものだと思っていた。
どうにか欠点を見つけて即刻クビにしてやろうとも思ったのだが、これがなかなか思うように見つからない。さらにクビにする為に仕掛けていた罠も、ことごとく引っかかることなく、使用人は淡々と居座り続けていた。
だが、バーナビーの心境は数日前とは変わっていた。使用人としては当たり前なのだろうが、言った事はしっかりと守る律儀な性格、プライベートな事に一切口を出さないのと、何より一緒に居てなぜか窮屈でない空気が心地よくすら感じてきていたのだった。
今のままでも十分だったのだが、一つだけ気になる事があった。それは前髪に隠されたシシーの顔の事だった。
五日もも家に居て、一度もまともに顔を見たことがないという方が逆におかしいだろうが、シシーは口から上をほとんど、というか全く見たことがないのである。自分のプライベートには口を出してほしくないが、顔となっては別だ。
こちらは毎日顔を合わせて話しかけて見せているというのに、彼女の顔は前髪のカーテンで見ることができないのだ。人は相手の表情を見て気持ちを考えるというのに、シシーは顔が見えないせいで何を考えているか全くわからない。だから時折、本当に機械人形かと思う事があった。
何度か隙をついて顔を覗いてやろうとは思ったが、その隙すらシシーは作った事がなかった。
今日も、夕飯を作っているシシーの後ろ姿を見ながら、どうやってその顔を拝んでろうかと思案していたバーナビーだったが、ある事を思いつく。
「ぐぁ……っ」
バーナビーは突然、苦しそうな声を出して胸を押さえて座り込む。その声を聞いたシシーは驚いて振り返るとバーナビーに駆け寄った。
「バーナビー様!? いかがいたしましたか!!」
「む、ねが、」
「すぐお医者様をっ、」
シシーは慌てふためきながら、リビングにある電話に向かって走り出そうとした。しかしそれを止めたのは、苦しそうにしていた当の本人、バーナビーであった。
「なーんて、ね」
「えっ!?」
胸が痛いだなんて、勿論演技だった。こうでもしないと、そもそもシシーはバーナビーに近寄ろうともしないし、不意をつけないと思ったからだった。案の定シシーは演技に引っかかり、腕を掴まれてバーナビーの横に尻餅をついて座り込んだ。
「いい加減、その、前髪の下を、見せてくださいよっ」
「やっ、だめです! おやめくださいバーナビーさ、」
少々強引ではあったが、確実に見るためには仕方ないと、バーナビーはふざけ半分でシシーに跨ると、両手を掴んで前髪を持ち上げた。
顔を真っ赤にして硬直する二人。
一人は、見られたくなかった自分の顔を見られ、恥ずかしさで湯気が出そうな程顔を紅くしている。
もう一人は、まさか藪から蛇が出てくるだなんて思ってもおらず、初めて見る使用人の顔に、思わず息を呑んだ。日焼けをしたことがないような、陶器のように白い肌。切れ長で丸い目に、くっきりとした二重。眉から鼻にかけてすっと通った顔立ち。ブルーローズも綺麗な部類に入ると思うが、それ以上の美しさだった。
そして目に止まったのは、珍しいすみれ色の瞳。驚いて見開かれたそれは、キラキラと輝いている。
「だ、」
シシーの口がゆっくりと開かれた。いつもの調子だったら「馬鹿な事はおやめくださいませバーナビー様」だとか、「夕食の邪魔をしないでいただけますかバーナビー様」だとか、淡々としていて無機質な口調で返されると思っていた。
「だか、らっ……見られたく、なかったのです」
予想外の反応。そして気付くと、すみれ色の瞳からは宝石のような涙がポロポロとこぼれていていたのだった。
バーナビーは慌ててシシーからどいて少し離れた場所に座った。
「ごめん、そんなつもりじゃ……貴女がいつも顔を隠して見せたことなかったから」
「申し訳、ございません。ひどい顔なので、だ、誰にも、見せたくなかったのです」
「え、何言ってるんですか? 貴女とても綺麗な顔立ちしてるじゃないですか!」
「と、とんでもございません!!」
噛み付くように叫んだシシーとバーナビーは目が合った。一瞬の間があって、シシーは更に顔を赤くしてしまう。「は、恥ずかくて、死にそうです」ついには手で顔を覆ってしまった。
「……お言葉は、う、うれしいで、すが、見せられるようなものではないのでございます」
消え入りそうな声でシシーは言った。
「御世辞じゃないんですけど」バーナビーは言ったが、シシーに聞こえなかったようだ。
「お夕食の続きを、作らせていただきますのでっ」
「え、ああ、うん。ごめん」
「こちらこそ、大変申し訳ございませんでした」
何に対しての謝罪なのかを聞く前に、立ち上がってメイド服のスカートを数回はたくと、シシーはペコリとお辞儀をしてキッチンへ戻っていってしまった。その姿を追うバーナビーの頭には、シシーの顔が、瞳の色が、鮮明に残っていた。