「もう、本当にあの人は――っ」

 裁判所での一騒動の後、バーナビーはすぐに自宅に戻っていた。
 会社のジムでトレーニングをしていても虎徹の顔を見ればイライラするだろうしし、正直二日酔いでそれどころではなかった。
 今も先ほど虎徹が起こしたお節介を思い出して、頭に血が上って頭痛がひどくなっていた。

「大丈夫でございますか? バーナビー様」

 冷たいタオルを顔に当てて、少しだけ気分のよくなったバーナビーに、キッチンから出てきたシシーが訊いた。

「え、ええ。大丈夫、です。貴女はなんともないんですか?」
「はい。あの程度では生活に支障は出ません」

 酒は強い方だと自負していたバーナビーだったが、まさか使用人に負けるなんて思ってもいなかった。むしろあれだけ飲んで、いつも通りに振る舞うシシーが恐ろしいとさえ思った。
 タオルの隙間から、ちらりとシシーを見た。バーナビーの視線には気づかないようで、シシーはテーブルをキッチンクロスで丁寧に拭いている。
 未だにシシーの顔をまともに見れないでいた。酔った勢いとはいえ抱きついてしまった事もあるし、睡魔に負ける直前に何かとてつもなく恥ずかしい事を言ってしまった気がして。昨日の記憶を遡ってみても、覚えているのは髪の匂いと小さな身体の柔らかさだけだった。それを思い出してまた顔が赤くなる。あまりの恥ずかしさに悶絶しかける。
 頭の中に広がる昨日の記憶を打ち消そうと、持っているタオルを両手で強く顔に押し付けた。

「バーナビー様?」
「はっ、はい!?」

 唐突に話しかけられたので、素っ頓狂な声で返事をしてしまった。シシーは小首を傾げながら近づいてきた。その手にはトレイを持っていて、何かが湯気を立てていた。

「いかがいたしましたか?」
「な、んでもないです……それは?」
「日本食で、蜆の味噌スープでございます。淡水の二枚貝で、二日酔いにはこの小さな貝がとても効果的なんだそうです。それとこれを」
「ラムネ……?」
「いいえ。薬に近い、炭酸カルシウムのサプリメントでございます。胃が荒れていると思いますので、こちらもお召し上がりくださいまし」

 完璧な気遣いに、バーナビーは肺の奥底から溜め息をついてあのヘラヘラとした髭面の男を思い出した。さらに最悪な事に、虎徹の言葉も思い出してしまう。

『バニーはシシーちゃんの事好きじゃないの?』

 ――好き。
 何度も繰り返されるその言葉は、復讐という炎を、爽やかな風で消し去ってしまいそうな気がしてならないのだ。
 二十年、バーナビーの心には炎だけがメラメラと燃え盛っていた。しかし最近、その炎が揺れてくすぶる時があるのだ。
 それだけは、何が何でもあってはならない事だ。父のためにも、母のためにも、繰り返されるその言葉を、絶対に肯定してはならない。そんな小さな風ごときに消されてはいけないのだ。

「いかがいたしましたか?」

 食事に口をつけない事に心配したシシーが、バーナビーに訊いた。
 バーナビーは我に返り、すぐに返事をする。

「なんでもないですよ。ちょっと、頭痛がひどくて」
「二日酔いには汗をかくのが一番でございます。ですから、今日のお風呂は少し熱めに設定させていただきました。お召し上がりになりましたら、お早めにお入りくださいまし」
「――ほんと、あのお節介焼きに貴女の爪の垢を煎じて飲ませたいくらいですよ」

 背もたれにもたれかかりながら、頭を抱えて言った。
 突き放した物言いのバーナビーの頭から、シシーはそっとタオルを取った。急に視界が広くなったかと思うと、すぐ上にシシーの顔があった。その顔はいつものように無表情ではあったが、どことなく悲しそうな顔をしていた。
 驚きすぎて声が出せずに固まるバーナビーの頭に、すぐに新しいタオルが置かれる。温かったタオルは新しいものに変えられていた。ひんやりとしていてとても心地がいい。
 シシーはもの静かにぽつりと呟いた。

「虎徹様は、とてもすごい方だと思います」

 思いがけない場所から出てきた反論に、バーナビーはタオルを顔からはずしてシシーを見た。シシーの顔はいつも通りの無表情だった。

「……前にもそうやっておじさんの肩を持ってましたね。不良に助けてもらった恩でも返そうと思ってるんですか?」

 皮肉たっぷりに言い返すバーナビーに、シシーはしばらく考えてから言った。

「そういったつもりはありません。ですが、バーナビー様の機嫌を損ねるような事を申したのであれば、これ以上この話はいたしません」
「……良いですよ、続けてください。なんであの人の事をそう思ったんですか?」
「はい。バーナビー様のお話を聞く限りでは、虎徹様は自分よりも相手を尊重したり、その場で最善の方法をとる事が出来る方だと、私は思ったのです」
「人一人助けられなくて、建物ばかりを壊すことが最善なんですか?――物を壊して、いろんな人に迷惑をかけて。どこが相手を尊重にしてるっていうんですか? 貴女の言っている事がわかりません!」
「……虎徹様の起こした事で、傷ついた人はおりません」

 シシーにまっすぐに見つめられた。いつもであれば視線を合わせるだけで顔を赤くしているシシーだったが、今日は少し違っていた。真剣な瞳をバーナビーに向けている。

「そんなの、」
「あれだけ大きな建物を破壊したり、モノレールの線路を曲げてしまっても、誰も怪我をしたという者はおりません。バーナビー様には、そんな事は当たり前だと思うかもしれません。ですがその当たり前が、一番大事で、難しい事ではございませんか?」

 怪我人を出さないのはヒーローとして当然だ。ましてや自分が壊した物で他人を傷つけるだなんて言語道断。しかし、どちらが悪役かわからない程に破壊工作の限りをしてきた虎徹が、その破壊工作で誰かを傷つけたという話は聞いたことがない。
 シシーの言っている事はわかる。しかし納得がいかないバーナビーは不服そうな顔をして黙っている。

「自分の事は省みずに相手の事を考えられるのは、とてもすごい事だと私は思うのです」

 言いおえて、シシーは目を閉じた。その顔はまるで笑っているようにも見えて。
 バーナビーはその瞬間、今まで感じた事のない気持ちが沸きあがった。
 いつも以上に口数の多いシシー。
 話している内容は、自分ではない男の話。
 その口が他の男の名前を呼ぶ度に、腹の奥で黒いドロリとしたものが渦巻いた。

「――そんな屁理屈を言ってまであの人を庇いたいんですか?」

 自分でも驚く程低い声だった。

「そういうわけでは、」
「――僕よりもあの人の方が好きなんでしょう!?」

 黒くてドロリとしたものは、言い訳をしようとしたシシーを見て更に溢れてくる。
 バーナビーは激情に駆られて、思ってもいない事を口にしていた。

「シシーが優しいのは、僕だけにだと思ってました! 他の男にもそんな顔をして、そんな声で話すんですか!?」
「バーナビ、」
「名前を呼ぶな!!」

 肩がビクリと震えたのを見て、バーナビーはしまったと思ったが遅かった。シシーは寂しそうな瞳をして、俯いてしまった。

「――すみません、でした」

 バーナビーはそれだけ言うと、家から出て行ってしまったのだった。
 残されたシシーは、バーナビーを追う事なく、その場で立ち尽くしていた。ポタリと綺麗にされているフローリングに雫が落ちたのだった。




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