どうしてここにいるんだろう、なんて愚問だ。きっと彼は私を追ってきたんだろう。肩で息をする彼に何と声をかけていいのか分からず、俯いて足元の石ころを転がした。依然、手は握られたままだ。これはたぶん、逃げないようにという彼なりの予防線なのだろう。
少しばかりストーカーのような彼の行動が気にならないかと云われれば、酷く気になる。黒が白になるなんて、オセロでもない限り、瞬間的になんて無理だと思う。これは白に見せかけた濃いグレーなんだろうか。そんな自分の思考が一番黒に近いグレーだというのに。
「黄瀬くん、さ」
「ん?」
「こういうことするの、私じゃなくてもいいんじゃないの」
『たまたま』アキさんといるところをみて、『たまたま』アキさんが他の男と居るところを見て、『たまたま』アキさんと別れた時に遭遇した。幾らかは自分が望んで遭遇したところもあるかもしれないが、それでも私じゃなくてもいいと思っている。彼の女遊びが無くなったとはいえ、今でも引く手あまたなのは変わらない事実。視線は未だ足元を向け、彼の言葉を待つ。
「何スかそれ」
悲しみを含んだ彼の声に、ハッとして視線を合わせる。傷ついたような顔をする彼に心が痛む音がした。数秒視線が絡みあった後に、彼はそっと視線を外す。いつもは透き通った瞳が、今は感情を映さない淀んだ色に見えた。
「ごめん…、でも名前ちゃんじゃないと」
その謝罪にどんな意味が込められているのか。ひとつの答えにたどり着いた時、悲しみにも似た嘔吐感が襲ってきた。結局はそういう事なのだ。私は私であって、『私』でない。
「私は、アキさんじゃないっ…」
* * *
薄暗い部屋でうずくまる。心にもない言葉ではなく、心の何処かでずっと抱えていた言葉。悲痛に顔を歪めた彼の手を振り解いて、ここまで走り抜けてきた。あのあと彼がどうなったのかは知らない。けれども彼が追ってきてないということだけは、鳴り響かないインターホンによって理解できた。
「名前、いる?」
優しいノック音、優しい音色。それだけで誰が部屋を訪れたのか分かってしまう。彼の声に了承の答えを返せば、ドアの開く音がした。近づいてくる足音にちいさな溜息を漏らせば、何かを察したのか、彼はそっと隣に腰を下ろした。そのまま私がぽつりぽつりと話す言葉を、小さな相槌をうちながら聞いてくれる。何時まで経っても兄離れ出来ない、出来の悪い妹だ。
「名前は涼太の言葉全てに耳を傾けているのか?」
全てを聞き終えた彼は優しい手つきで頭を撫でる。心地良い感覚とは裏腹の彼の言葉に、ぐっと喉が詰まる感覚がした。お兄ちゃんの言葉はいつも核心をついてるけど、いつも妹の胸を抉ってるって、知ってた?
「もう、少しだけ…考えたい」
「そうか」
眉尻をさげた笑顔で「いつでも戻ってきてくれていいんだぞ」と告げた彼は部屋を出ていった。何度も何度も征ちゃんの優しさに甘えて、何度も何度も助けられて。差し伸べられる手はいつも温かかった。そっと差し返せば、すぐに手を引いてくれた。戻ってきてもいいだなんて云われてしまったら、また甘えてしまいそうだ。ぎりっと噛んだ奥歯は痛みと共に苦味をもたらした。
真っ直ぐすぎる彼の気持ちは痛いほど伝わる。伝わってくるのだけど、怖いのだ。彼女と重ねられてしまっているという事実は、逃げても逃げても追いかけてくるのだ。
(120929)