「名前ちゃん」
「…なに?」
「なんでもない」

ただ、其処に居るのを確かめるような手つきで私を撫ぜる。安心して、ここにいるから。そんな思いをこめて回した腕に力を込める。嗚咽を漏らしていた彼の呼吸が少しずつではあるが整いだして、正しいリズムを刻み始めたことにホッとする。ねえ黄瀬くん、君はもっと凛としてくれないと困るから。何時もなら見えることのない旋毛に額を付けて現実を見ないフリする。

「ねえ名前ちゃん」
「今度はなあに」
「キスしていい?」
「それは…」
「今だけ、ね」

上向いた視線に思考回路ごと奪われてしまう。発したかった拒否の言葉も、突き放そうとした腕も、全部ぜんぶ。彼の手に掛かればそんなものは無かったも同然になる。薄っすらと開いた視界で見つけた彼の悲しげな瞳のせいで、どんどん彼に抗う力は弱まる。今だけ、いまだけ。呪文のように脳内でリフレインさせて自分を正当化する。徐々に深くなろうとする口付けも、肌を弄るこの腕も、今だけ。いまだけだから。

「もう抵抗しないんスか」
「今だけ、なんでしょ」
「初めてなんじゃないっスか」
「好きな人とならって考えじゃ、ダメ?」
「…後悔しても、しらねーよ」

苦痛に歪められる彼の顔に微笑む。きっと私の想いには応えられないと胸を痛めているのだろう。そんなのアキさんを見つめて幸せそうに笑う貴方を見た時から覚悟していたのに。それに、今だけなんでしょう。弱った貴方の間違いに漬け込んでいる私も同罪だから。きっと明日にはなかったことにできる。

漏れそうになる声をぐっと飲み込めば、無理やりこじ開けられる。生理的に流れる涙まで舐めとる彼はとても同い年には見えない。これが経験の差だろうか。あんなにも涙を流していた彼からは感じれなかった余裕が今は垣間見れてしまう。彼の端正な顔から垂れ落ちた汗が私のものと混ざってシーツに溶ける。

「赤司っち、に何て、言うんスか」
「んっ…さあ、てきと、んっ…」
「そう」

体中が痛みで悲鳴を上げて、視界がまた滲みだす。痛い、いたい、イタイ。もう何処が痛いのかなんて分かりやしない。ああ、神様。ここに愛は存在していませんが、今だけはこの行為に目を瞑ってはくれませんか。ほら、この唇も今だけはこんなにも優しいから。

* * *

沈黙だけが二人を包みこんだ気がした。撫でられる頭で考えるのはこれからのことばかり。一線を超えてしまった。その事実だけが冷静になった私に降り掛かってくる。隣にいる彼の顔は先ほどとは違って何の感情も見えない。虚空を見上げる色のない瞳は今はもう何も写していないようで。

「…痛くないっスか」
「痛くないって言ったら嘘になるかな」
「だろうね」
「まあ…、うん」
「あとさ…もう、うち来ないほうがいいっスよ」
「…ど、うして?」
「多分、もう約束守れそうにないっスから」
「そっか」

喉につっかえて出てこない「構わない」の言葉。遠回しな彼からの拒絶。淡かった明かりがどんどん、小さくか細くなっていく。じゃあ、どうしようか。そうだな、やっぱり今だけは現実を見ないように目蓋を伏せてしまおう。彼の優しい大きな手に身を委ねながら、そっと。

(120814)
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