玄関を開けると、そこには征ちゃんの靴が揃えられていた。黄瀬くんとぐだぐだ喋りながら帰っていたからだろう、彼のほうが先に着いていたようだ。リビングのドアを開けてみるも、お目当ての人影は見当たらない。叔母さんに「ただいま」とだけ告げて、階段を登る。充てがわれている部屋の隣の扉を控えめにノックし、入室の許しを待つ。すると、すぐに妙に落ち着いた「どうぞ」という声が聞こえた。

「ただいま」
「おかえり、早かったな」
「うん、特に立ち寄ったりとかはしなかったから」
「そうか」
「…聞かないの?」
「聞いて欲しいのか?」
「気になるかと思って」

他人の恋愛に多くの口を出すのはタブーだと思ってるんだが。そう言った彼の笑顔は何処か寂しげだ。とはいえ、黄瀬くんと話す機会を与えてくれたのは他でもない、目の前の彼だ。小さな感謝を口にして部屋を後にしようとした。

「名前」

不意に呼ばれた名前に振り向こうとするも、体に小さな衝撃が走る。鼻腔を通った彼のアクアマリンを思わせる香りに心音が波打った。首元から掬い取るように抱きしめられたのだ。普段は拝むことのできない彼の腕撓骨筋が唇のすぐ側にある、そんな異常な状況に思わず唾を飲む。

「涼太には勿体無い、な」
「…妹離れできないとモテないよ、オニーチャン」
「そう、だな」

苦しそうな笑い声をあげた後、旋毛に優しい口付けを落とされる。ごめんね、征ちゃん。貴方の気持ちに気づいてなかったわけじゃないの。じわっと滲む涙を堪えるように下唇を噛み締める。さもしい女でごめんね。すぐに自分のことで精一杯になっちゃうから。ずずっと音を立てて鼻を啜った時「さ、この話は終わりだ」と彼が告げる。私の初恋の人は何時までも、何処までも優しい人だ。

* * *

恋人同士に戻ったとはいえ、これといった変化はない。いつものように、流れていく日々を過ごしている。日々着実に増えていく『黄瀬涼太』という履歴だけが心を弾ませる。友達ちゃんに「名前って本当バカ」と小突かれ、さっちゃんに「辛くなったら言ってね」なんて言われちゃって。つくづく友人に恵まれていると思った次第だ。それでも少しだけ変わったこともある。例えば、サエちゃん。あの日以来、廊下なんかですれ違った時に挨拶するようになった。同じ黄瀬くんの彼女という点を除けば、可愛い後輩だと思う。これが所謂ツンデレ萌えってやつだろうか。このことを声にした瞬間に友達ちゃんに叩かれたのは別の話。

それともうひとつ変わった点がある。今現在、私はとあるマンションの前に棒立ちしている。押しなれないインターフォンを押せば、小さな機械から彼の声が聞こえ、内玄関の扉が開く。

そう、黄瀬くんの家に行き来するようになったのだ。

今回で3回目となる彼の部屋。相変わらずシンプルに纏められていて、少しだけ歯痒い。彼曰く「いままでアキさんしか入れたこと無い」というだけあって、フォトフレームにも彼女との写真が飾られている。それを横目で認識する度に肩身の狭い想いをしている事を彼はわかっているのだろうか。…なぜ私を招く気になったのかと問えば、気分と返す男だ。わかってるわけがないな。

「いらっしゃい」
「お邪魔します」

家に招かれたからといって体を求められることはない辺り、律儀に私が言ったことを守ってくれているようだ。ただ近くで離して、夕飯前に帰る。思春期の中学生でも行わないようなデートを繰り返している。

「黄瀬くんって一人暮らしだったよね?」
「そっすよー」
「今日は晩ご飯でも作って帰ろうか?」

一度だけ彼のキッチン事情を把握してしまう事態に遭遇した。お世辞にも健康的とはいえない食生活に苦笑いが溢れたのは、彼の記憶にも新しいことだろう。思い立ったが吉日、即行動派の私としては、今日は晩ご飯でも振る舞ってあげようと思う。言ってしまえば、胃袋からこの男を掴みにかかろうとしているのだ。そんな私の考えを知らない彼は、その提案に乗ったとばかりに目を輝かせている。

「何か食べたいモノとかある?」
「俺、オニオングラタンスープとか好きッスよ」
「おにお、…頑張ってみる」
「楽しみにしてる」

(120809)
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