いつの間にか帰ってきて、指定されたキーケースに鍵を放って。蒸し暑いリビングのソファに思い切り体を沈ませて、目を瞑る。瞼の裏に焼き付いて離れないあの光景と、うっとおしいほどに残るあのくぐもった声。黄瀬涼太という人間は彼女になった誰にでもああいう行為をするのだろうと考えれば考えるほど、あの日、自分に触れた唇が汚らわしいものに思えてきた。別にファーストキスだからどうこうではなく、ただなんとなく。あのキスだって、別の誰かの唇をさらった後のものだったかもしれない。ヤだな、知らない誰かと関節キスだなんて。つうっと伝った涙に気づかないふりして、惰眠を貪ることにしよう。

* * *

まあ、やってしまった、だな。携帯電話のディスプレイに映る『黄瀬涼太』の文字に手汗がじとり。メールはもちろんのこと、着信もあるわけで。現在進行形で着信を知らせる携帯とにらめっこしてもどうしようもないのだが。意を決して通話ボタンに手を伸ばす。

「も、もしもし」
『遅い』
「ごめんなさい?」
『いいっスよ、別に。今名前ちゃんの家の前にいるから出て来てくれないっスか?外あちーんスよね』
「…赤司くんの家じゃ、」
『ダメ。はやく』

黄瀬くんの声は媚薬でも含んでるんじゃないのだろうか。きっと従ってしまったら後戻りできないとわかっているのに、体は勝手に玄関へと向かう。もちろん我が家のキーを片手にだ。ガチャリ、扉を開ければ、ひらひらと此方に手を振る黄瀬くんと目が合う。なんだかんだで黄瀬くんの外見はドストライクなのだから、ときめく胸は仕方がないということで。数時間ぶりに我が家の鍵を開け、彼を招き入れる。此方もむっとする空気は変わらないので、すぐさま冷房を入れる。そういえば我が家の冷蔵庫には氷しかなかった。さて、お茶は…濃い目のインスタントコーヒーに氷をぶっ込んだアイスコーヒーで我慢してもらおう。リビングに通して、黄瀬がソファに腰を沈めたのを確認してからお湯を沸かす作業に入る。確かあの戸棚に来客用のグラスを収納していたはずだ。目星を付けた戸棚に手を伸ばそうとしたとき、視界に影が落ちた。

「名前ちゃん」

ギギギと音がでるような動きで首を後ろに向ける。嗚呼、やはり彼が。別に向けずとも両脇にある男らしい腕で彼が犯人だということもわかる。なにより我が家には彼と私だけなのだ。怒ってるようにも、困っているようにも、どちらとも取れる笑みを浮かべた黄瀬くんの真意は全くもって汲み取れない。いつも見透かされるのは此方なのだろうか。

「えっと、黄瀬くん。どいてください」
「イヤっす」
「どいてよ」
「むーりっ」

へらっと笑った彼の顔がどんどん近づいてくる。その瞬間、脳裏によぎるのはお昼に見てしまった光景。考えるより先に右手に衝撃が走る。目を丸くした黄瀬くんと視線がかち合った時にすべてを理解した。  黄瀬くんの頬を叩いてしまった。  途端に鋭くなる彼の視線に体がビクつく。逃げなきゃ。本能的にそう感じたのに、体は金縛りにあったかのように言う事を聞かない。

「あーあ、商売道具なんスけど、この顔」
「ご、ごめんなさ」
「ったく、大体アンタがバスケ部に来るなって言ってたのに来たのも困ってるっつーのに」
「それは不可抗力で」
「知ってる。まあ、八割方はこうなって欲しいって思ってたんスけどー」

色がない。感情も抑揚もない。全てが無になってしまったように思えた。彼の思う壺になってしまったのだろうか。悔しさが滲み出ぬよう、下唇をぐっと噛み締める。

「あーあー。傷になるんだから、噛まないっスよ」

ぬるっとした感覚に身の毛がよだつ。舐められた、舐められた、舐められた。ひっと小さく悲鳴を上げれば、待ってましたとばかりに掬い取られる唇。呼吸さえ彼の思い通りに操られるような口付けに、脳は酸欠を起こして機能してくれない。生理的な涙が頬を伝った頃に唇は開放される。が、ちりっと鈍い痛みが首筋を襲った。

「はい、今日はこれでおしまい」
「な、なに?!」
「えー、おしえないっスよ。自分で確認して恥ずかしい想いしてよ」

ニヒルな笑みを浮かべた彼はさも満足気にキッチンを出る。今日の仕事は終わったとばかりの伸びのあとに告げられた、今日はもう帰るの一言。我が家での滞在時間、なんと20分。どういうこっちゃねん。こんなにも手の上で転がされているだなんて、さっちゃんや友達ちゃんが知ったら何て言われるだろう。腰をぬかした私には、また明日と告げて背を向けた彼を見つめることしかできなかった。

(120729)
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