耳を劈くようなセミの声、じりじりと肌を焼く日差し。夏というやつは、どうにもいけ好かない。毛穴という毛穴から汗が噴き出るような感覚も、それによって気にしなくてはならない臭いも、秋や春のそれとは比べ物にならない。クーラーがきいてない訳ではない。ただエコだの節電だのを繰り返す世の流れで、教室内の設定温度も二十八度。つい先程まで人が大勢いた場所故に、クーラーなんてあってないようなものだった。
「あっつー」
 心底だれたような声と、ばたばたと仰ぐような音が後方から聞こえる。ひとり日誌を書いているらしい彼女の手は、シャープペンではなくうちわをガッチリと握りこんでいた。
「暑いとか言うな。更に実感するんスから」
 大して手を伸ばさずとも届く黒板を、こんなにも一生懸命やってますよと言わんばかりのポーズで消していく。アピールしている相手は、先程からうんうん唸ってこっちを見ようともしないのだが。
 黒板のはしっこに並んだ黄瀬涼太と名字名前という二つの名前にどぎまぎしているのはきっと自分だけだ。なんとも言えない感情をかき消すように、二人分の名前を勢い良く消す。周囲に舞う粉塵に一日の終わりを感じて切なくなったとは誰にも言えない。
 人よりもリーチがあるため、白と赤と黄色で埋められていた黒板は、あっという間に元の緑を取り戻す。ベランダに出てパタパタと黒板消しを叩く気力は皆無。わざわざ多少は涼しいと思える場所を出て労力を使うものか。時代は便利になった。教室の隅に置かれているクリーナーの電源をいれ、黒板消しを前後させる。途端に室内にはぶおおというモーター音が響き渡った。
「うるさー」
「多少は我慢してほしいッス」
 表面だけは新品同様に変えてくれる機械からの微量な熱風すら憎い。だがしかし、この時間はすでに放課後というやつで、日直として残っている人間にはもうひとつ課せられている義務がある。
「終わった?」
「まあ」
「じゃあ、空気の入れ替えのために窓開けて」
 しぶしぶ向かった先の窓を思い切り開ける。むわっとした空気が全身を撫でた。暑い。もちろんその空気は奥で日誌を書いているであろう彼女のもとにも届いた。
「あぢい」
「あんたよりオレのほうが暑いから」
 全ての窓を開けはなってから、今度は彼女が座る向かい側へと歩を進める。さっきよりも歩みが慎重なのは気のせいだと、じめじめとする手の平を乾かしながら自分に言い聞かせた。がたっと音を立てた椅子に出来るだけ振動を与えないように座る。ふわりと揺れた風には、男性独特の汗臭さが乗っていませんように。
「ねえ、黄瀬」
「んー」
「早く部活行きたいよね」
「そうッスね。出来れば一秒でも早く体育館に走って行きたいッス」
 だよね、と笑う彼女のつむじを見て一人ごちる。建前しか出てこない飾り物の唇が憎たらしい。本音は心の奥深くに。ああ、この時間が永遠に続けばいいのに。
「私馬鹿だからさ、うまい具合に言葉が出てこなくって」
「知ってる」
「でも黄瀬よりはましだから」
「なんスかそれ。上げて落とすとか」
「あげてないし」
 にししという効果音が付きそうな笑顔を見せた彼女に、胸の奥がキュンと疼く。青春、だ。今なら初めてのキスはレモン味とか、甘酸っぱい恋の味とか、全ての売り文句に賛同してやってもいい。だって口内に広がったのは紛れもなく、すっぱくて、そしてちょっとだけ苦くて、でもほんのり甘いものだったから。
 空気の入れ替えのために開けておいた窓から、気休め程度の風が吹く。先程まで感じていた何となく涼しいものとは比べ物にならないほど熱を含んでいたから、涼しいとは口にできなかった。そんな風でも彼女のさらさらの髪の毛をさらうには十分だったらしい。どこぞのシャンプーかなんてわからないけれど、鼻腔をくすぐった彼女の匂いに心臓が飛び跳ねた。さっきよりも随分と糖度を含んだものが口内に広がる。ああ、憎たらしいほどに甘い。
「黄瀬ってさー」
 気を抜いた瞬間に声を掛けられて、舌を噛みそうになりながら返事はどこかくぐもっていた。
「香水とかつけてるっけ」
「え、ああ、まあ、それなりに」
「ふーん」
 聞いてきたわりに興味無さそうな反応で、唇に少しずつ力が入っていく感覚がした。もっと興味を示してほしいだなんて、我ながらガキ臭い。そんな醜い感情も次の一言であっという間に揉み消されてしまった。
「だからいい匂いしたんだ」
 香水つけててよかったとか、体育の後に制汗剤でケアしてよかったとか。脳内の自分が全力でガッツポーズを決めている。でもアンタのほうがいい匂いするという返答は変態じみてるため、ぐっと飲み込んで堪える。でも本当にいい匂いだった。なにか加工されたわけでもなく、わざわざ振り撒くためにまとったわけでもない香りは着飾らない彼女そのもののようだ。
 一人心臓を大きく脈打たせているというのに、発した本人はどこ吹く風。ただひたすら日誌とにらめっこしている。滑るような筆先から生み出される文字は、男の自分では到底書くことの出来ない繊細な線で作られていた。文字綺麗だな。ところどころ丸くなってるところが可愛いな。ああ、もう、
「好きだな」
 ころんと彼女が持っていたはずのシャープペンが転がる。
「え、黄瀬、今なんて言って…」
 自覚してばっと口元を押さえた時には何もかもが遅かった。ぎょっとしたままこちらを見つめる彼女と目があえば、ボンという爆発音が聞こえそうな勢いで顔に熱が集まる。最悪だ、大失態だ。声に出すつもりは無かった。もっと時間を置いて、もっと素直な気持ちを出せるようになってからと思っていたのに。
「あ゛ーー、わ、忘れて欲しいッス!」
 じゃあオレ部活行くから。椅子が倒れんばかりの力で立ち上がり、机の上に置いていた道具をひっつかんで教室を駆け出る。脳内でテロップのように流れていく言葉は「最悪だ最悪だ最悪だ」。やっと回ってきた二人での日直。二人きりの放課後、彼女から貰えた嬉しい言葉。とはいえいくらなんでも舞い上がり過ぎだろう。思春期の男子かよ。いや、思春期真っ盛りの男子であることには間違いないのだが。大体日誌だって…――。
「日誌、」
 そういえば担任が、最近は片方に任せきりのペアが増えたから確認のためにも二人で持って来いとかなんとか言ってた記憶がある。このままでは彼女は一人で提出に行くだろうし、お互いにお説教を頂いてもおかしくない状況じゃないのか。
 気付いた時には体を翻して、さっきまで駆け足ですぎた場所を、今度も駆け足で戻る。なんていうか、もしかして最高にカッコ悪いんじゃないの、これ。
 がらっと大きな音を立てながらドアを開ける。彼女は変わらず机に座ったまま日誌に向かっていたようだ。音に気づいたため、こちらを見てくれたのだが、どうにも先程から心臓が喧しい。きょとんとした目でこっちを見つめる彼女に掛ける言葉は
「日誌、一緒に持っていかなきゃだから」
なんて可愛げのない一言。ぽかんとした彼女はくつくつと声を抑えながら一頻り笑うと、一度だけ深呼吸をして改めて此方を見つめる。
「私も好きだよ」
 ああどうしようか。夏の暑さのせいで鼓膜までやられてしまったらしい。あまりにも都合のいい言葉に、掛けていたカバンがどさりと落ちた衝撃が体を駆け巡るまで、口を開けたまま固まっていた。

柚子さんリクエスト/130716
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