収録のあったスタジオから蘭丸のアパートまで、徒歩で約二十分。イコール、私に与えられたタイムリミット。二人分の足音は一向に一緒のリズムを刻んでくれなくて、遠回しに拒絶されている気がした。
 いつもよりも温かい冬の日。これでも明日には雪が降るらしい。昨今の異常気象にもお手上げだ。ずっと寒い日が続いてくれれば、適当なことを言って蘭丸の大きくて暖かな手の平をつかむことが出来たかもしれないのに。ずっと暖かければ、あの夏から変わらない日々が続いていたかもしれないのに。いろいろと考えを巡らせても、全ては後の祭り。私の手からはするりと消えてしまった幻想たち。
「寒ぃな」
 蘭丸がぼそりと零した声が白濁になって夜空の黒に溶けていく。一歩先を歩く彼がこちらを見ているなんてありえないのに、こくりと首を縦に動かすことしか出来ない。もう二度と隣を歩けない。ならばいっそ、と思うのに、彼の足音がそれを遠ざける。交わらない視線と繋がれない手の平は並行をたどる。時間は刻々と私を追い詰める。
 街灯がわざとらしく二人の影を伸ばす。時折重なる濃い色が切なさを増長させた。


 はじめて二人で外を歩いたのは夏の夜だった。嶺二の突然の思い付きで、おなじみの嶺二の車に私と蘭丸とカミュ、そして運転手の嶺二が乗り込んで向かった先は嶺二の地元の小さな花火大会。小さいとはいえ、それなりの人で賑わったそこにカミュも蘭丸も眉を顰めていたのは記憶に新しい。
 油断したらあっという間に皆とはぐれてしまっていた。土地勘のない場所という事も重なって、うまい具合に人並みを抜けられない。開けた場所で歩き疲れた足を休めるように腰を落とした所で携帯電話の存在に気付いた。ヴーっという低い唸り声をあげるそれを耳に当てると、少しだけ息の上がった蘭丸の声が聞こえた。
 どこにいるんだ。ただでさえ人が多いのに。みんな探してるんだぞ。ちょっとだけ切羽詰まった蘭丸の様子が珍しくて、くすりと小さく笑い声を上げたつもりが、彼の鼓膜にはばっちりと届いていたらしい。当事者が笑ってるんじゃねえとお説教を頂いてしまった。込み上げるなんとも言えない可笑しさを噛み殺しながら、いま自分がいる場所を事細かに伝える。するとあっという間に彼はやってきた。最初に皆で出店を回っていた時よりもうんと眉を顰めて、うんと不機嫌になった彼が。
「ったく、当たり前の様にはぐれてんじゃねえよ」
「失敬、失敬」
「おら、行くぞ」
 私がまたはぐれてしまわないように、乱暴に掴まれた右腕がちくりと痛む。好きだな。こういう強引な所も、実は心配症で優しいところも。ベースを弾いて出来たたこでごつごつした指も、日本人のくせに白い肌も。そう実感すればするほど泣きたくなる。私と彼では恋なんて生易しいものは出来ない。恋人なんて甘美な関係にはなれない。このごつごつとした彼の男らしい手を握り返すことだって、私が名字名前で、彼が黒崎蘭丸である限り、一生出来っこないのだ。
 人の往来が少しずつ減っていく中、すぐ近くでひゅーという音が聞こえた。直後には何かが爆発するような音と火薬の匂い。若いグループが、さも愉快だと言わんばかりに「たまやー」と声をあげていた。
「おー、なかなか綺麗じゃねえか」
 一歩先を歩いていた蘭丸がぱたりと足を止め、上空を見上げる。釣られるように見上げれば、漆黒の夜空に咲いた花々に目を奪われてしまった。
「おっきい…」
「んなもんまだまだ序盤だ。これからもっとデケェのが上がんだろ」
 綺羅びやかな花が彼のオッドアイに映り込む。色素の薄い髪が、色とりどりの花に反射している。綺麗だな、本当に。星空よりも花火よりも、何より彼が。
 立ち止まって花火を見上げていたら、時間というものはあっという間に過ぎていたらしい。色々な仕掛けに感嘆したり、大きな花火に驚きの声を上げていればそうもなるか。ラストスパートの始まりだというように、ひとつの花火が打ち上がる。その一発を皮切りにつぎつぎと花火が打ち上がっていく。
「すげぇな」
 赤、青、緑、白…。多数の花火が打ち上がっては消える。どれだけ綺麗なものも消えてしまう。
「スターマイン」
「あ?」
 花火大会の一番の盛り上がりどころで連続して打ち上がる。漆黒に包まれていた夜空が、昼の明るさを取り戻すかのように何発も何発も。打ち上がっては人々を歓喜させ、そして消える。
「今打ち上がってる花火のこと!」
「なんて言ってんのか聞こえねえよ!」
 こう何度も打ち上がると声も聞き取りづらい状況になってしまう。スターマインはまだまだ終わらない。それなら次の打ち上げ花火が赤だったら、私はこの喧騒に交えて彼に気持ちを伝えてしまおうか。ああ、赤でありますように。赤でありませんように。
「おー、でっけー。あれは、あれだろ…」
 赤で、ありますように。
「シダレヤナギ」
「…うん、そう。綺麗だよね。夏の風物詩って感じ」
 喉元まで出かかった気持ちをぐっと飲み込む。まだ時期尚早なだけ。掴まれていた腕を振りほどいて、彼の注意をひく。
「そろそろ行かないと、嶺二たちが待ってるから」
「…おう、そうだな」
 一歩先を歩き出した彼を見失わないように、私は後ろから歩いて行くだけ。いつかきっと隣に並んで歩く日がやってくるから。いつかきっと…――。


 そのいつかは来ることなく、あの日のスターマインのように消えてしまった。二人分の不揃いな足音とあの時とは違う冷たい空気が頬を撫でる。あの時とは違って、あたりは静寂に包まれていた。
「ねえ」
「あ?」
「春歌ちゃんのことはさ、いつから?」
 一瞬だけ肩をびくつかせた彼は、すぐに言い淀むような声を上げる。あーとか、うーとか。照れ隠しとも取れる声に、私の壊れやすいガラスの心がぴきぴきと悲鳴をあげていた。
「わかんねえけど、気付いた時にはあいつがいねえとダメだなって」
 私のほうがずっとずっと蘭丸の側にいたのに。私のほうが、あの子よりも蘭丸のことを知ってるのに。私のほうがあの子よりも絶対に蘭丸のことが好きなのに。 負け惜しみのような感情がぐるぐると脳内を犇めいていく。結果として彼が選んだのは、ずっと近くにいたと思っていた私じゃなくて、彼女だった。それだけが事実じゃないか。
「そっかー…幸せそうだね」
「まあな。…名前だけにいうけどさ、今日もうちに来てんだよ、あいつ」
 そんな特別はいらないよ。少しだけ頬を染めた様子は、ずっと見たかった光景だけれど、その対象が私じゃないからカウント出来ないじゃん。そんな幸せそうな顔されたら、ダメ元で告白しようだなんて思えなくなっちゃうじゃん。
「幸せなんだね」
「そうだな」
 つんと弾かれた涙腺が水分をこぼしてしまう前に空を見上げる。あの日見たスターマインが消えた夜空よりもうんと黒いそこに、私の気持ちも弾けて消えればよかったのに。もう何処にも吐き出されることはなく、報われることもない好きという感情、まるごと全部。
 ちらりと盗み見た腕時計は、タイムリミットの二十分後を指していた。あの子も待つ彼の家まで、あと数メートル。


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