超高層マンションの一室。優雅な昼下がり、足元には子犬が一匹。広いリビングには北欧から取り寄せたインテリアがセンスよく並べられている。一番のお気に入りはリビングの真ん中に置かれた黒いソファ。そっと身を沈めれば、ぎしっというスプリングの軋んだ音がした。
 なに不自由ない暮らしを送っていると思う。生活費は有り余るほどにもらっている。一人で寂しくないようにと、いろいろな物を与えてもらった。文句なんてある方がおかしい。
 だからといって、こんな軟禁状態になるとは誰が予想していただろうか。唯一外出が認められているのは、近くのスーパーのみ。週に数回あった外食のお誘いは、彼の許可が降りない限りはOKの返事を出せることはない。
 たまには一人でショッピングに行きたいと行った時は、それはもうすごい剣幕で「どうしてひとりで行こうとするんだ」と問い詰められてしまった。確か服や日用品を買うくらいならば彼と一緒でもいいし、通販でもいいだろう。でもランジェリーショップには一人で行きたい。通販だと実測がわからない分、失敗することだってあるだろうし、彼と一緒というのはなんだか気恥ずかしい。
 それをそのまま伝えると、彼はショップ店員をうちに招くようになった。。どうしてこんなことをと尋ねれば、彼は大層ご機嫌な顔で「オートクチュールにすれば、名前がわざわざ出向くこともないだろう」と笑って私の髪の毛を梳いた。刹那、身も凍るような悪寒に襲われたのは言うまでもない。

「困ったね」

 私がソファに腰を落としたのと同時に、愛犬もソファに身を委ねていた。さらさらの毛並みは、私が暇さえあればグルーミングしているせいだろう。
 なんて緩やかな拘束なんだろう。紐で縛られているなんて可愛いものじゃない。鳥籠に飼われてしまっているのだ。あんなにも優しい声で同棲を持ちかけてくれた彼が、こんなにも縛る人間だなんて、一体誰が想像したのだろうか。
 実家と彼と親友以外のメモリが消されてしまった携帯電話に私が欲する機能はない。日に日に履歴に増えていくのは彼の名前ばかり。悲しいという感情は疾うの昔になくしてしまったらしい。
 ただ、なんというか、私もれっきとした成人女性なのだ。本来であれば何処かの会社に勤めていてもおかしくない。何が言いたいのかと言われれば、私は社会生活を行いたいのだ。もっと、ちゃんとした、社会の一員として。

 彼が帰宅した音がする。パタパタとスリッパを鳴らして玄関まで向かい、彼を迎え入れれば、いつものような柔らかい笑顔を浮かべて「ただいま」を発した。同じように笑みを浮かべて「おかえり」と返す。いつものように、同じように。代わり映えのない日々は反復運動のようにも思えた。
 今日も仕事でこんなことがあったとか、何処そこのランチが美味しかったとか。私が必死になってネットの海を泳ぎ渡っても知り得ない情報を彼はあっという間に収集してくる。これが社会生活を行なっているものと、そうでないものの違いなのだろうか。

「涼太くん」
「んー」
「ちょっとお話が」

 昼過ぎには私が腰掛けていた場所に、今度は彼が腰を落とす。もちろん側にはしっぽを千切れんばかり振る愛犬がいた。

「どうしたの?」
「あのね、その、」

 彼が帰ってきて行うことの一つ。お気に入りのトニックウォーターをグラス一杯飲み干すこと。そのために冷蔵庫からボトルを取り出し、グラスに注いだものを私は彼に手渡すのだ。

「私も社会生活を行いたいというか」
「社会生活?」
「そう! あの、社会人として働きたいなって」

 ゴトン。床に何かが落ちた音が部屋中に響いた。驚いた愛犬は小さな悲鳴を上げて、私の足元に駆け寄ってくる。ふかふかのラグを敷いていたのが幸いだったのか、グラスが割れることはなかった。ただ飲み干される予定だったトニックウォーターの三分の一程度はラグに染みこんでしまっている。

「はた、らく…?」

 か細くて、しゃがれた声。さっきまで嬉々として今日の出来事を話していた人間と同じ人物が発したとは思いがたいものだった。

「う、うん。ほら、私だって列記とした成人女性だし、そろそろ働いてないと、こう、人間としてダメな気が」
「ダメじゃないよ」
「そうかもしれないんだけど」
「ダメじゃない!」

 ソファに腰を落としていたはずの彼が、それは大きな音を立てて立ち上がる。荒げられた声は私と愛犬を震え上がらせるには充分すぎた。
 私よりも幾分も上にある黄色い双眸に光は宿っていなかった。どこか薄淀んだ瞳は焦点があっていないようにも見える。ふらふらとした足取りのまま、彼は私のもとまでやってきた。

「何が不満なんスか」

 勢い良く掴まれた肩からは骨が軋む音がするんじゃないかと思った。それほどの力で掴まれることなど、彼とお付き合いを始めてから一度もなかった。痛い。ただ痛いだけじゃない。骨の芯から痛むのだ。

「もっとお金が必要なら、今まで以上に渡すから」
「そういう訳じゃ」
「じゃあどういうわけ?」

 濁っていたはずの瞳がキラリと光った。正気を取り戻したのかと思ったが、それは私の勘違い。だって彼の目尻からはつうっと涙が伝っているのだ。光が宿ったわけではない。涙が蛍光灯に反射しただけだ。

「オレとずっと一緒にいるって言ったじゃん。あれは嘘? そうじゃないよね? ちゃんとずっと此処にいてくれなきゃ、オレの目の届く範囲にいてくれなきゃ」
「りょ、たくん、いた」
「もっとちゃんとオレだけ見ていてくれなきゃ、ちゃんとオレの側にいてよ…」

 さっきまで勢い良く私につっかかっていたはずなのに、彼はずるずると私の体を伝いながら力をなくしていく。搾り出される懇願に私はどう返せばいいのだろうか。
 いつから歪んでいた? 一緒に同棲しようと言われた時? お付き合いを始めた日? いや、きっと二人が出会ったあの日から、今日までずっと、ゆっくりと醜いカーブを描き出していたのだ。

 
ゆがめゆがめ ぼくのるーぷらいん/130414
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